10月25日(水)新少林寺(11)簡単に改心するくらいなら、はじめから悪いことしなきゃいいのに!

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(アクション活劇ではなく、時代劇に近い)

 

 憎い敵に死なれたくらいで、改心するくらいなら、はじめから悪いことしなきゃいいのに。

 

 

 いきなりこの映画とは関係ないけれど、最近実写映画にもなった「無限の住人」というマンガがある。少女凛は、両親がある剣術の流派に虐殺され、仇討するために用心棒を雇い、二人三脚で敵を倒して回るというストーリーだ。冒頭、凛が両親を虐殺した敵の首領に再会し、そのときにその首領から「おまえにはすまないことをした」と軽く謝罪されるシーンがある。凛は、激昂し、「謝るくらいなら、最初からしなきゃよかったんだ!」と、江戸随一の剣客である逸刀流当主を足蹴にする。

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(ムゲニン 右が主人公の凛)

 

 この「新少林寺」をみたときに、私はこのシーンを思い出した。

 ある人間を絶望の淵に落とし込む。

 そういうことをした人間はそう易々と自分の過去の悪行を後悔したり、まして改心なんてしてほしくない。

 ある意味ですごくおかしなことを言っているのだけれど、つまり悪役にはぶれないでいてほしいのだ。

 

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(ハンサムすぎる、、新少林寺で今回私がディスってる悪役君)

 

 主人公はいい。元々悪でもそれが善人になることがあっても、その変化に観客は喜ぶ。しかし、悪人役が、やすやすと主人公と同じ痛みも優しさもわかる人間であったら、あまりにもスケールがミニマムで絶望的になる。

 悪役にはどこまでも悪であってほしい。

 悪とは、つきつめると人間のもう一つの極なのだ。

 優しさとか愛とか慈悲とかそうしたものを越えた自然の摂理に基づく、もしくはそれを超越しようとする存在だ。それは神に近い発想と感性を有し、だからこそ平気で必要性に基づいて多くの人間を虐殺したり、一人の人間を気まぐれに助けたりする。つまり、並の人間には理解不能な存在、それが究極の悪人だ。

 

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(これまた関係ないけど、悪人の代表『銃夢』よりノヴァ博士)

 

 主人公である人間と感性的に同じ土俵に立ち、愛を失って悲嘆にくれ、自己犠牲の愛を受けて、改心するようななまっちょろい感性では困るのだ。けしてヒューマニズムでは理解しきれない存在、それこそが悪であり、そんな悪だから魅力がある。

 で、この「新少林寺」ではそういう悪ではなく、人間寄りの要するに親役の主人公に実力を認められなかった不良少年が親の関心を惹くためにいやがらせをするが、親に助けられて改心してしまうという浪花節が漂う。そこで戦っているのは元不良と不良であり、最後には人間になってしまうという教育的ラストでもある。そこには悪なんてものは存在せず、ひたすら不良少年の悔恨があるだけだ。

 

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(今回の『新少林寺』の釣りバカ役ことジャッキー。。もう西田敏行っぽさ最高潮)

 

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(こういう( ゚Д゚)がまじで似合うww)

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(いい忘れましたが、主人公アンディ・ラウの妻はファン・ビンビン。絶世の美女)

(しかし、中国人って子役に美形は皆無だが、大人になるとすごいよね。すごい美女が。さすが母数世界一)

 

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(子役美少女といえば、てんてんwwかわゆいww 中国の至宝ww)