9月10日(日)ハクソー・リッジ(16)米 心に火がついて、「上映中」の「ダンケルク」と比較レビューがはじまった!無駄に長い今作

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 注意:ネタバレはないですが、9月9日上映開始された「ダンケルク」と第二次大戦を同じくテーマにしているというだけで、無理やり比較レビューをしています。本家「ダンケルク」は別途レビュー予定ですが、観る予定の方が読んでも問題ない仕上がりになっています。

 でもできれば、「ダンケルク」を観てから読んで下さい。

 私の独断と偏見に満ちた観方が炸裂しています

 

 

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 ■ストーリー

 ここでは、人も大地も空も同じ乾いた土の色をしている。

 幾度となく大地にめり込んだ砲弾は土ぼこりと兵士の体を空中に吹き飛ばし、容赦なく地面に降り落とす。

 大地に穿たれた穴の中にひとりの兵士が横たわっていた。

 下半身が吹き飛ばされ、真っ赤臓物が腹からこぼれている。兵士の両眼はビー玉のように虚空を見つめ、光の消えた網膜にうっすらと土埃が舞っている。

 あちこちに米兵が折り重なるように倒れ込んでいた。

 土と血のにおい。

 ここは死の大地だ。

 先ほど、数キロ離れた海上から戦艦による砲弾がこの台地に降り注いだ。味方も敵も関係のない空爆

 砲弾のせいで敵は一掃されたが、かわりに土ぼこりで明瞭な視界は消えた。

 デズモンドは音を立てないように一歩を踏み出した。

 背後で連隊の仲間たちも頭を低くして前進し始めた。

 また一つ死体を見つけた。

 顔の半分にウジがたかり、半ば骸骨と化した兵士はこちらを嘲笑しているように見える。

 すぐ先に冗談のように腰から切断された下半身が落ちていた。

 砲撃に被弾したのだろうか、それとも手りゅう弾をまともにくらったのだろうか。

 誰にも葬られることのないまま、彼らは何日こうして虚空を見つめているのだろう。

 デズモンドは首を振って前に進んだ。

 ふいに生ぬるい風が台地をなでた。

 前方に敵影はない。

 仲間たちはみな、その場の穴に低く体をうずめ、前方を見つめた。

 静かだった。

 どこなのだ。

 いったい、日本兵はどこに隠れている?

 穴の中か、それともあの木の影か。

 そのとき、風が静かに大気をかき混ぜた。

 仲間の一人がその場にしゃがみ込んだそのときだった。眼の前の死体だと思っていた米兵がゾンビのように起き上がり、半狂乱になって叫びだした。

 目の前で蘇生した仲間に驚いた兵士は同じように叫び声をあげた。

 次の瞬間、乾いた射撃音が空気を切り裂いた。

 銃弾は叫びつづける兵士の後頭部を正確に2発打ち抜き、血しぶきが背後にいた兵士にかかった。

 叫び声が止む。

 同時に向きあった二人の兵士を銃弾の嵐が襲う。二人の肉体に銃弾が食い込み、肉片が花火のようにあたりに飛び散る。

 あっという間に二人は赤い肉塊をと化す。

 それを合図に日本兵の容赦ない狙撃がはじまった。

 あたりでいくつもの手りゅう弾が炸裂する。

 土ぼこりと轟音。

 轟音と土ぼこり。

 絶え間ないな銃弾が仲間の兵士たちを貫く。

 前後左右で爆発が起き、その都度仲間の体が粉砕され、肉体から引きちぎられた四肢が地面にばらばらと落下する。

「くそたっれどもは、どこにいるんだ!」

「わからない! よく見えない!」

 兵士が叫んだ。

 二人の兵士が、顔だけを焼けた丸田の上にだし、そっと前方を確認すると小さな光点が頭のすぐわきを通り抜けていく。敵の銃弾だった。

 敵もこちらが見えないのだ。

 くそ、こちらもあてずっぽうに打つしかない!

 そう思ったとき、すぐ横で空気を裂く嫌な音が二回して、仲間の兵士が沈黙した。

 さきほどまでしゃべっていた兵士は銃弾に頭を打ちぬかれたのだ。

 なんてこった!

 こうして銃弾の嵐はますますひどくなる。

 

 スミッティは立ち枯れた木の陰から動けなかった。

 敵の銃弾がこちらをまっすぐ狙ってくるので、身動きがとれない。

 あたりでは手りゅう弾がさく裂し、土煙がもうもうと立ち込めている。

 仲間の悲痛な叫び声があちこちで響いている。

「衛生兵! 衛生兵! ここだ! 助けてくれ!」

 背後で衛生兵のデズモンドが助けに向かう足音がした。

つづいて、悲痛な声。

「大丈夫だ、連れて帰ってやる。こい、一緒にくるんだ!」

 デズモンドが傷ついた仲間に言っているのが聞こえる。

 また、一人やられた。

 スミッティは歯を食いしばった。

 すでに仲間は数えきれないほど死んでいるというのに、彼自身は無傷のままだった。

 ふいに彼は罪悪感に襲われた。

 ばかな、生きていることが申し訳ないなんて。

 そのとき、目の前に仲間の死体が転がってきた。

 上半身だけになった死体だった。

 彼は死体に手を伸ばした。

 血と土にまみれた首が力なく前後に揺れた。

 一瞬ののち、彼は死体を前に突き出し、木の陰から躍り出た。

 前方の塹壕からこちらを狙っている日本兵めがけてカービン銃の引き金をひく。

 銃撃の反動が右腰に響く。

 彼の反撃をまともにあびて、前方の日本兵が次々に倒れていく。

 相手も反撃をしてくる。

 その銃撃を、スミッティは死体を盾にして防いだ。銃弾が当たるたびに、左手に持った死体に重い反動を感じる。

 どうやらこの即席の盾は使えるようだ。

 スミッティが盾を放り投げ、塹壕に逃げ込むと、すぐ近くから仲間の声が聞こえた。

「続け、前につづけ!」

 声を同時に一斉に彼を含めた仲間たちが、銃弾の嵐の中に突き進んだ。

 これだけ進んでも視界は明瞭にならない。

だが、今は前に進むしかない。

 

 銃弾の中、次の塹壕に身を隠そうとしたとき、隣を走るヴィトーに弾が当たった。

 ヴィトーは体のバランスを崩し、糸の切れた人形のように塹壕に倒れ込んだ。

「ヴィトー! ヴィトー!」

 名前を呼びながら彼にかけよろうとすると、塹壕の淵に日本兵が立ちはだかるのが見えた。全員銃をかまえ、こちらにむかって引き金に手をかけている。

 とっさに目を閉じた瞬間、眼前に炎の柱が駆け抜けた。

 轟音とともに日本兵たちが赤い炎に巻かれ、もがき苦しんでいる。

 仲間の火炎放射器だった。

 突然、衛生兵が彼らの塹壕に走ってきた。

「衛生兵! ヴィトーが倒れた!」

 うめき声をあげるヴィトーにむかって言った。

「大丈夫だ! ここにいるからな」

 ヴィトーを衛生兵に任せて、今は進むしかなかった。

 

 戦闘は続いていた。

 傷ついた仲間を手当てするため、衛生兵のデズモンドは走っていた。

 戦闘当初、散発的に続いていた機関銃の音は、今は掃射に変わっている。

 銃声は止むことなく、あたりの空気を揺らし、土煙をあげる。

 デズモンドは頭を低くして、塹壕に転がりこんだ。

 と、同時に日本兵が覆いかぶさってきた。

 ものすごい力で押し倒されそうになる。

 まるで手負いの獣だ。

 そのとき、かなり近い場所から銃弾がとび、目の前の日本兵が打たれたのがわかった。衝撃と轟音。日本兵は突然ぐったりと彼に倒れ掛かってきた。デズモンドは死体と化した日本兵の下からはい出すと自分を助けた銃弾がどこから来たのか確認した。

 塹壕のすぐ先にスミッティがいた。

 スミッティはこわばった表情のまま彼にむかって目で合図をすると、先に塹壕を抜け出ていった。

 手りゅう弾の攻撃がすぐに始まった。

 足元に被弾した衝撃で、デズモンドは空中を飛び、仲間とともに地面に叩きつけられた。

 頭を軽く打ち、ふらついて起き上がると少し先からハウエル軍曹が自分を見ていた。

「怪我は?」

「大丈夫です」

 土煙のなか、デズモンドは自分の運の良さを感じ始める。

 また手りゅう弾が近くで爆発した。

 近くで恐怖に満ちた悲鳴があがる。

 煙の中、悲鳴の持ち主のほうへ駆け寄っていくと、両足の膝と太ももから下を無残にも爆発の衝撃で失ったラルフがのたうち回っていた。

 悲鳴を上げ続けるラルフの両足にベルトを巻いて、デズモンドは止血をした。

「大丈夫だ! ラルフ! 深呼吸をしろ! 大丈夫だ」

 もちろん、大丈夫なわけはない。

 ラルフは間違いなく、重症でこのまま放置したら死んでしまう。

「深呼吸しろ! 呼吸するんだ、ラルフ!」

 いいながら、ベルトでラルフの太ももを圧迫して止血をする。

 応急処置が済んだところで、彼らのすぐ頭上で手りゅう弾が爆発した。

 土ぼこりが彼らにふりかかる。

「ラルフ、いいか、お前を連れて行く!」

 必死の形相で半狂乱のラルフに呼びかける。

 そのとき、仲間の兵士が背後からやってきて言った。

「彼はもうだめだ。モルヒネを打って、彼をおいていけ」

 その兵士はラルフの無残な足を見た。

 ラルフが先ほどよりも大声で叫んだ。

「お願いだ! 俺を置いていくな、俺には子どもがいるんだ! 頼む、ドス!」

 デズモンドは彼にモルヒネを打ちながら言った。

「お前をここに置いていくもんか! 必ず家に連れて帰る!」

 モルヒネを打ち終わると、彼は大声で叫んだ。

「担架! 担架! 」

 

 一日目の戦闘での死傷者はデスモンドが思った以上に過酷なものだった。

 戦闘が始まり、数十秒で命を落とした幾名もの仲間たち。

 助けられなかった仲間だち。

 日本兵の執拗なまでの攻撃。

 6度、戦闘をはじめ、その6度とも撃退されているこのハクソー。

 ハクソーの北側は断崖になっており、戦車は入場できない。

 ここでは、白兵戦のみが勝利を決める。

 海上の駆逐艦からの圧倒的な砲撃で幾度となく攻撃をしているにも関わらず、日本兵は後から後から姿を現す。

 ハクソーをとれば、日本は落ちる。

 それがわかっているからこそ、日本兵も必死なのだろう。

 明日は、もっとひどい戦闘になるだろう。

 自分は生き残れるだろうか。

 デズモンドは胸ポケットに入れた聖書と聖書にはさんだ妻のことを思い出す。

 自分は生きて帰れるだろうか。

 神様、自分には何ができるでしょうか。

 

 

 

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(内容が沖縄戦であり、重い話なので、写真は撮影後の日本兵俳優とのショットをw)

(中央は監督のメル・ギブソン

(みんないい顔してるね~ww)

 

 

 ■レビュー

  

 ハクソー・リッジは日本では、前田高地と呼ばれている。

 太平洋戦争末期、沖縄に上陸し南下する米軍にとって、戦車の入れない断崖は、ハクソー・リッジ(弓鋸断崖)と飛ばれ、米軍と日本軍の激戦地隊となった。

 物語はアメリカ側から、日本は敵として描かれており、この戦闘で衛生兵として多くの仲間を救出したデズモンド・ドス衛生兵の実話が元になっている。

 さて、少し前に日本で上映されたこの映画だが9月9日封切りになった同じく第二次大戦(以下WW2)の西部戦線を活写したクリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」と比較してみると、この映画の特徴が際立つ。

 

 

 

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ダンケルクは第二次大戦初期、ドイツ軍の電撃戦によってフランスの港町ダンケルク追い詰められた英仏30万人の軍隊の脱出を描いた映画です)

(監督は「インセプション」「インターステラー」「バッドマン ダークナイト」シリーズのクリストファー・ノーラン監督)

 

 

 このブログでは原則一つのブログで一つの作品をレビューすると決めているので、ここで同じ大戦ものとは言え「ダンケルク」の話をするのは本来はルール違反だ。

 だが、どうしても言いたいことがあってこのブログを書いている。

 

ダンケルク

ハクソー・リッジ

 

 この二つの映画は同じWW2を扱う「戦争映画」であっても、まったく別物で、本来は比較されるべきものではない。

 ならば、なぜ、比較しては、と言ったのかというと、すでに「ダンケルク」を観た人の中で、「ダンケルク」に批判的な人を見かけたからだ。そういった意見の人たちのなかに「ハクソー・リッジ」のほうが面白いと言っている人がいたので、「ダンケルク」の擁護をするわけではないけれど、映画には幅広い表現方法があることを理解できれば、どちらの映画も同じだけ楽しめるのではないかと思ったからだ。

 だから今回のレビューは逆説的だけれど、そうした「ハクソー・リッジ」派の人たちに対するささやかな抵抗が根っこにある。

 

 

とにかく、結論を急がずにゆっくり行こう。

 

 

 まず、端的に言ってこの「ハクソー・リッジ」は感動作だ。

実話に基づいた勇敢な一人の兵士の物語であり、臆病者が勇敢な兵士として認められる成長の物語だ。

 それに対して「ダンケルク」はひたすら戦場の臨場感を目指した映画であり、生理的な恐怖や不安を最大限に引き出す「効果」を狙った映画だ。

 だから、「ダンケルク」の目指すところは、実をいうと必ずしも「感情的なカタルシス」をつきつめた映画ではない。もちろん、ノーラン監督はそういう「感動作」を撮ることはいくらでもできることはバットマンシリーズで証明済みだが、こと「ダンケルク」に関してはそのベクトルを目指していない。

 つまり、ダンケルク」に「物語的感動」を求めていくと肩透かしにあうことになる

 ごくごく単純にWW2を舞台にした「感動」を映画に求めるなら、「ハクソー・リッジ」を観たほうがいいと私は思う

 

 まとめると、この二つの映画は、映画が人に提供する生理的・感情的サービスにおいて対極ということだ。くりかえしになるが、「ハクソー・リッジ」は、物語の感動を追求しており、それは、変化の連続をもって達成されるものなのだ。

 

 変化 ① 臆病と思われていた主人公が、勇敢な兵士と認められ、

 変化 ② 主人公の勇敢さによって、軍隊が絶望的状況から希望を持つようになり、

 変化 ③ そのことで、戦地における絶望的戦況が好転し、

 変化 ④ さらに、そのことで主人公は絶望から救われる。

 

 

 

 すべてが、主人公が信念を貫くことで、仲間が変化をし、戦況が好転し、それらすべてが観客に感情的カタルシス(満足感)と感動を与えるという構造になっている。

 映画におけるこうした手法は、公式のようなもので、この公式がパブリックドメイン並の周知の事実だとしても、よほどひねくれた人間でないかぎり、「感動」するようにできている。

 事実、私はこうして「ハクソー・リッジ」を因数分解したところで、涙しないわけにはいかなかった。それに、いずれにしてもこの映画における感動の公式は、観客が映画を観にくる動機のナンバー1か、2に位置することは間違いない。

 

 観客は「感動したい」のだ。

 では、ダンケルクは何を目指したのか。

 ベクトルは様々だが、ノーラン監督がもっとも目指したものは「臨場感と没入感」だろう。

 

 今、その場にいるような感覚。

 

 

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ダンケルク:空中戦の様子。このシーンはまるで英国戦闘機スピットファイアに乗っているような気分にw 4DMXの努力により、お尻の下でイスが動いて、風がふきつける笑)

 

 ノーラン監督は今作で映画におけるリアルさを追求している。

 それは、彼がCGを使わずに極力というか意地になっても使わないようにしていることからも伺える。それはCG全盛の時代にあって時代に逆行しているようにみえるが、人は現在、かなり緻密なCGであってもそれが実物でないと見分けることができる。

 そのノン・リアルな虚構は映画という虚構に大きなひびを入れることもまた事実だ。どれほど恐ろしい怪物であっても、どれほど巨大な戦艦であっても、それがCGであるとき、見た目には及第点であっても、不思議に心は大きなマイナス点を無意識につけている。

 つまり、観客がシーンに期待する恐怖、畏怖、感嘆といった気持ちをCGでは完全発動させられないのだ。「させられない」というと、誤解がある。つまり、観客は「ある程度」驚いているので、「きれいだねー、うわ、綺麗だねー」と口には出す。だが、人が心底目の前の出来事や風景を美しいと思い、圧倒されたときは、無言になるものではないだろうか

 

 先日「死霊のはらわた」というスプラッタ映画のリメイクを観たのだが、ラストの血液のどしゃ降りの場面は圧巻だった。CGでいくらでもできるのに、数百リットルという血糊を用意して、それをぶちまけたのだ。この労力が見事に結実して、内容がゾンビであろうと、この映画を観て「心底よかった」と思った。

 何にせよ、CGに背を向けて、やたら労力と予算のかかる実物を用意し、リアルを追求するという姿勢に感動を覚えない観客はいない。その選択と覚悟と行動に私は感動した。

 だが、そういう制作サイドの努力はさておき、いったいCGと実物の視覚効果における最大の違いはなんなのだろう。

 存在感というか、質量的な何かなのだろうか。

 私が思うにCGの嘘くささはその映像に重みがないことであり、文字通り質量や重力がいまいち感じられないところにある

 CGは、どれだけ精巧につくられていても、やはり虚構でしかないと人間の脳が認識してしまうのは、この重さの表現の不足ではないだろうか。だが、そんなことは百も承知であろう映画制作サイドがCGではなく、実物を用意しようとなると、そこには時間と予算が深くかかわってくる。つまり、実物を用意することは、現場にとってリスクになるのだ。

 映画界のこうした状況を強引に打開しようと思ったら、ノーラン監督レベルの知名度や支援をもつ力がなければ可能にならないのだろうし、ノーラン監督の「ダンケルク」撮影時でさえ、相当もめたようだ。

というわけで、ノーラン監督が目指す臨場感やノーモアCGは映画表現においてはたしかに意味があることなのだ。

 

 

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ダンケルク:兵士が船から落ちたり、狙撃されて水面に落ちるたびに4DMXから水しぶきが噴射され、顔の右半分の化粧がほとんど落ちる楽しい被害が、、、笑)

 

 

 ただし、これも私の独断と偏見なのだが、映画が観客に提供する「いま、ここではない世界の臨場感」というサービスは、多くの観客が映画に求める「感動」の必要条件ではあっても十分条件ではない。

 これは予測でしかないのだが、おそらく人間は臨場感や没入感というものにすぐ「慣れて」しまうのではないだろうか

 それは、映画のCGやゲームのCGは日々、「リアル」になり、4Kが8Kになり、画面はよりリアルになっていっているし、少し先の未来では、映画は、もっと個別対応になり、一人ひとりが映画に全身を没入する技術が実現しているかもしれないが、これまで私たちはそれにすぐに慣れてしまった。

 映像的に美しく輪郭が明瞭であることには、人間はすぐに慣れてしまうのだ。

 人はそれこそはじめは前代未聞の画面に「感動というより、驚愕」するかもしれないが、すぐにその美しさを当然のものとして認知するようになる。その理由は、おそらく人間の脳は視覚的なものに対して、「いつまでもびっくりしていると、危険を回避できない」と判断するからではないだろうか。

 「ダンケルク」を4DMXで鑑賞したとき、イスはおおげさに振動し、水も風圧も容赦なく浴びたためプチアトラクションとしては、十分楽しめた。

 しかし、楽しめた一方で、これは映画というより、乗り物だなと思ったことも事実なのだ。

 なぜなら、臨場感を追求した映画のストーリーの運びは、淡々としており、正直あまりの抑揚のなさに、開始20分で不安になってしまったほどだ。

 初日とはいえ、それほど観客は多くなかったが、だからこそ、ノーラン監督の稀代の作品を初日に観に来る、しかも3000円近く支払ってWW2の人気が高いとは言えない映画を観に来る人々。

 おそらく感動を期待しているはずである。

 その観客を前に、臨場感こそあるものの、ストーリーはさほど劇的な展開もなく淡々と進行していく。正直に告白すれば、私は心の中で、「ノーラン監督、これやばくないか」と祈るような気持ちに何度かなってしまったのだ。

 この映画はこう見るのがいいのだろう、と心の中ではわかっているつもりの私でさえ、あまりに静かな展開のストーリーに違う意味でスリリングな思いを味わったわけで、一般のエンタメ活劇を求めている観客の皆様におかれましては、それはもう大変な思いをされたのではないかと思う。

 臨場感や没入感は映画においてもちろん必要な条件だが、人が映画に求めるものは本質的に「感動」であると思う。その感動の中にはもちろん、没入感や臨場感は必要だが、それは映画の物語における感動というより、アクティビティやアトラクションに求める刺激に近いものではないかと思う

 もちろん、映画がリアルになっていくその過程で、ノーラン監督の「ダンケルク」は映画業界に対する挑戦と冒険であり、そのことはすばらしいことだと思う。

 思うけれど、私は人を感動させるのは、やはり人の物語なのではないかと、古臭いことを考えてしまうのだ。

 

 

 やばい。ハクソーのレビューをしていないというわけで、話を元にもどします。

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(ハクソーリッジ:もはや今回のレビューはカオスすぎる。。)

 

 

ハクソー・リッジ

 この映画の魅力に一つは冒頭で描写したように、白兵戦の生々しさだ。

 描写した部分はハクソーについて、すぐのシーンで、あれから兵士たちはますます過酷な状況に追い込まれていく。

 私はこの残酷でありながら、臨場感のある戦闘シーンに感動し、5回ほど繰り返し見てしまった。何度見ても新しい発見があるシーンで、多くの兵士が同時に体験する戦場は重層的であり、飽きない。後半1時間はほぼこのとどまることを知らない戦闘シーンのため、「プライベート・ライアン」の冒頭20分に魅せられたり、「ブラックホークダウン」をヘビロテしたことのある人にはぜひおすすめの映画だ

 

 もう一つの魅力は、デズモンドの勇敢な生き方だ。

 戦争という銃を手にとり戦わねばならない戦場において、銃を持たず良心的兵役拒否を実行し、苦難に満ちた運命を選び取ったデズモンド・ドス。

 彼は実在の人物で、衛生兵として敵兵を殺すことなく、誰もがたじろぐ戦火の中、多くの傷ついた兵士を救出して英雄となった後にも先にもない人物だ。

 戦争という場面で、勇敢で祖国を守る男でいたいと思い、同時に銃を持たないで戦争に参加するということがどういうことなのか。本来ならば、想像もつかないことだ。

 しかし、それをやった人間がいる。

 そのことに勇気と感動を覚えない人間はいないだろう。

 この物語では、日本兵は敵兵だが、彼ら、いや私たちもまた、時代という敵と戦わなければならない運命だった。

 ドスの物語も十分に感動するが、私たち日本人はまず、沖縄で何が起きたのか。

 沖縄の海がなぜあれほど美しく見えるのか、この映画を通して少しでも沖縄の歴史を知ってほしい。

 

 そして、最後に俳優について。

 今作で、主人公デズモンド・ドスを演じるアンドリュー・ガーフィールド

 

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(首が長くて、目が少し離れていて、彼、美形な亀に見えませんか?(笑))

 

 実は、「ハクソー・リッジ」と同じ時期に「沈黙」にも出演し、キリシタン弾圧期に日本を訪れた宣教師を演じている。

 「沈黙」は、遠藤周作を原作とする、暗いとしかいいようのない文学作品だが、信仰の弾圧に対して、人はどうなるのかそれを扱ったのが「沈黙」だ。

 神は沈黙を守る。

 この救ってほしいときに神が沈黙したままであることが、「沈黙」のテーマだが、「ハクソー・リッジ」で、デズモンドには神の声が聞こえる。

 しかし、「沈黙」では肝心なときに神の声が聞こえないのである。

 キリスト教徒にとって生きる最も重要な指針である「神の声」。

 これを聞いたもの、そして聞こえないもの、この二つの人間を短期間に演じ分けたガ―フィルド。

 信仰という日本人にはなじみのない概念について、次回では深く掘り下げてみるかもしれない。 

 というわけで、今回も長くなってしまったが、「ハクソー・リッジ

 「ダンケルク」を観てから、比較してみるとそれぞれの魅力を堪能できるはずだ。

では、次回もお楽しみに。

 

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(沈黙:もう今回はほんとカオス。3作もルール違反だよね!!)