8月5日(土)攻殻機動隊GHOST IN THE SHELL(17)押井さんが言う通り、「スカーレットが綺麗」でいいと思う。

f:id:hagananae:20170805224040j:plain

 

 スカーレット・ヨハンソンがきれい。

 押井さんが言う通り、「スカーレットが綺麗」でいいと思います。

 

 むずかしいなあ。どうやって、レビューしよう。

 この実写版「攻殻機動隊・GHOST IN THE SHELL」

 見終わったとたん、もう完全に首をかしげて「ん?」となったわけですけど、この「ん?」を具体的に説明しようとするのにえらい時間がかかりました。

 結論、主演のスカヨハがすごくきれいでリアルな異彩を放っていて、なんかそれでいいんじゃないという感じにまとまりました。

 これ、半分素直な気持ちと同時に皮肉でもあります。

 この作品は、攻殻機動隊にまつわるこれまでの重すぎる「歴史」や「こだわり」を持っていたり、押井ファンであったりすると批判的立場によってしまうかもしれません。 でも、攻殻を素材にしたハリウッドエンタメとして見たら、及第点だよね、しかもスカヨハきれい(しつこい)となります。

ちょっと、歯切れ悪いんですけど、実際、あまりにどう判断したらいいかわからなくて、押井監督のインタビューを片っ端から読み漁ってしまったという今回。

 それでは、いってみましょう。

 

 スタッフ&キャスト

 監督はルパート・サンダース

 今回の「実写」にあたり、ルパート監督は新しいことをするよりも、映像的には攻殻全編を覆うおいしい「攻殻、あの場面ももう一度」を忠実に再現してくれました。

 オープニングの素子の肉片・筋膜生成過程、9課の芸者ロボット強襲シーン、電脳ハックされた敵との光学迷彩戦闘シーン@水辺、ラストの人形遣いと少佐のタイマン勝負(ガトリング掃射回避からの、戦車をこじ開けて少佐の腕が引きちぎれるシーン)、ボロボロになったクゼと空を見つめるシーンなどなど。

 アニメ全編からすばらしい名場面セレクトにはにやけが止まらず、

 そして、忘れちゃならない、80年代当時の近未来的世界観。

 オマージュを通り越して、焼き増し感満載というのは、ご愛嬌。

 余計な雑念がなければ、かなりイケてる部類に入るのではないかと思われます。

 そして、待ってました。少佐役のスカーレット・ヨハンソン

 今回は、身体をメスゴリラ風に磨き上げ、美しいアクションとお顔で物語全編を圧倒的な存在感で牽引していきます。

 いやあ、あの少佐のSF(スコシフシギ)的髪型まで再現しちゃっても、美人に見えるという、重ね重ね人類が誇るハリウッド女優です。

 そして、荒巻課長にビートたけし

 これは、ですね。私は好きでした。

 いろいろ思うところはあったにせよ、荒巻課長にたけし先生が来たら、もういろいろいいんじゃないかと思いました。

 見るまではそりゃなんか、色々思いましたよ。

 でも、画面でみると、新しくていいんじゃないでしょうか。

 アウトレイジすぎるなんて批判もありますが、そこは期待された通りのリアクションをしただけであって、ここまでくると、いろいろ納得します。たけしでいい!と。

 心底よかったのが少佐を支える二人の熟練女優です。

 この二人のシーンはすばらしかった。

 敵対する組織で終始少佐の味方であるオドレイ博士にジュリエット・ビノシュ

 私はフランス人の女優が一番女性の美を体現していると思っているので、彼女が前触れもなく登場したシーンでは度肝をぬかれました。

 なんか、攻殻って言ったら、9課のメンバーじゃないですか。

 バトーに、トグサ。でも今回の映画ではかろうじてバトーがちょいちょいセリフを言ったりするのですが、基本はあまり存在感がなく、トグサ、ボーマ、サイトウ、イシカワあたりは完全にモブです。

 じゃあ、誰が存在感を放っているのかというと、このオドレイ博士のジュリエット・ビノシュ

 憂いを含めた研究者にぴったりの美人女優です。

そして、少佐がまだ完全な人間だったときの母親ハイリ役の桃井かおり師匠。

 まさか、かおり師匠が出ているとは、本当に私の前情報のシカトっぷりには毎度毎度驚かされるばかりです。

 そんなわけで、何をしゃべっても桃井なかおりが英語で登場したときは、完全に度肝をぬかれました。

 そして、その演技がすごいいい。本当に上海とか香港の日系母として「実在してそう」なリアルさがありました。

 いえ、膝丈ワンピースからでたすらっとしたおみ足が最高なおかあちゃんが場末の上海の集合住宅にいるはずなないんですけどね。一瞬いそうに見える映画的マジック笑。

 桃井師匠、ジュリエット・ビノシュと伯仲する演技力と存在感でした。 

 そしてそして、最後に、ダーリン博士役のアナマリア・マリンカ。

 このダーリン博士は、攻殻シリーズでいうと、「イノセンス」で登場した検死官ハラウェイを元ネタにしており、外見は全然違うんですけど、雰囲気がかなり近くてにやにやしちゃいました。

 イノセンスでは、例によって榊原良子さんが演じているのですが、怜悧な美人な感じが共通していて、ここはオマージュねという感じで納得でした。

 

ストーリー

 脳以外をすべて義体(サイボーグ)化することに成功したミラ・キリアン。彼女はハンカ・ロボティクス社の推進するサイバー技術により、事故で失った生命を取り留めたのだった。しかし、社が満を持して開発中の全身義体化技術はミラに普通の人間として生きることを許すはずもなかった。ロボティクス社はミラを自らの命を失う原因となったテロを撲滅するべく攻性の組織・公安9課に配属させる。記憶のもどらないまま過酷な任務を来る日々、不安を押し込める中、ハンカ社の中でもミラを兵器ではなく人間として温かくみまもるオウレイ博士は、ミラに「人間を規定するのは記憶ではなく、これから何をするかだと、勇気づける」

 そして、覚醒から一年後。

 ミラをこの世に再生させた恩人であるはずのハンカ社に敵対するテロが起こり、彼女はそこで出会ったテロリストの首魁クゼから自らの過去と真実を知らされる。

 

 

f:id:hagananae:20170805224520j:plain

(ちょっと太い感じがまたいいねwのスカヨハ少佐)

 

レビュー

 ええと、ストーリーあっさりしすぎましたが、おおむね上記のとおりです。

 ミラというのが素子、つまり少佐で、素子というのはミラになる前の彼女の名前です。

 物語は、義体化したミラがなぜ全身を失ったのか、その真の理由をテロリストとの「ふれあい」によって獲得するといういわば、アイデンティティ模索とラブ要素の入ったべったべたな王道ストーリーです。

 なので、押井さんや神山さん、そしてアライズの黄瀬さんが攻殻のテーマとして持っていた、身体と記憶の関係やら、人間にとっての真理(なにが人間であることを規定するのか、この世界は本当に現実なのか)というような哲学的テーゼは登場しません。

 いえ、登場はしているんですけど、アニメの「攻殻」のように、議論はしていません。平たくいうと、あの膨大なセリフで議論・説明するというスタイルは皆無です。

 それでも、脳以外の身体はすべて義体(自分のものではない)というスタート地点に立つミラ(つまり少佐)にとっては、「何が自分であるのか」を考えたときに、自分を規定するものがなくて迷います。まず、唯一のオリジナルのパーツである脳に記憶がなく、しかも途中で記憶さえも上書きできることがわかり、自分が誰であるのか、不安にさいなまれます。

 その自分が自分であるという感覚や証明をめぐり、押井監督をはじめとるすアニメ版では証明できるものなんて「ない」というポジションに立ち、日々任務をこなし、そうするなかで、9課の仲間意識のなかで自分の居場所をなんとなく見つけている、それが少佐なのかな、とも思えるわけですけど、そこまで行くには、アニメ全編でひたすら会話の応酬をするのが常でした。

 しかし、この映画では当初から「人間を規定するものは記憶ではなく、これから何をするか」という精神論で認知やら意識や自己同一性の問題を乗り越えようとします。

 ここら辺は、マンガ「銃夢」の主人公ガリイが記憶を失っても機甲術というマーシャルアーツ(火星格闘術)で敵をばったばったなぎ倒す過程で「ああ、この戦っている感覚、細胞が活性する感じ、機械の私でもわかる。生きているって!」というのと同じで、単純ですが、説得力がそれなりにある解決法ではあります。

 「銃夢」で出された自己同一性のへの回答は、機械の体と生身の脳をつなぐのは、この激しい運動(命のやりとり)というアンサーです。

f:id:hagananae:20170805224802j:plain

銃夢シリーズは初期の通称無印が一番すきです)

 これは、「銃夢」というマンガ(静止画)を読んでいても、納得させられる方法です。

 であれば、アニメという動く絵でなぜ、この躍動感による感覚によって自己同一性を支える方法論を押井さんはとらなかったのか。

 それは、この「戦ってる生きてるって感覚」こそ「自分が自分である」という考えが哲学的にはだいぶ古いものだからです。

 具体的にいうと、18世紀半ば、バークリが言っていた主観的観念論にあたります。つまり、この「生きてるって実感があるから、生きてるよね」は150年ぐらい前にはすでに回答案として提出されていたということになります。

 ではなぜ、この単純にしてそれなりに説得力のあるアンサーが時代遅れになったかというと、答えはマトリックスです。

 つまり、生きてる実感のある世界そのものが、バーチャルだったら、感覚に依拠した自分が自分であるって、心もとなくない?というものです。

 さらにいうとこの不安は解決しようがなく、たとえ目が醒めたその先も夢だとどうしてわかるの?ということになり、もう一歩進み、もうこの問題提起の答えは出ないということになり、(いまここ)アニメ版攻殻はその「答えのでなさ」具合を、20年くらい前から延々と会話という方法でぐだぐだ議論をしていた節さえあります。

 であるのに、実写ではその150年前の主観的観念論を堂々と「私って誰?」に対する回答にしてしまった。

 これは、押井監督がインタビューで言っているように哲学的後退にあたるのですが、押井さんは実写版攻殻には、それを無理やり説得してしまうだけの根拠が「実写」つまり「生身の身体(スカーレットという俳優の力量)の力」にはあるとほめたたえています。

 このあたりのニュアンスは、かなり微妙なところで、地上波的なメディアでぎりぎり発現できる上限ではないかと思っていますが、同時に監督は本気でスカーレットの演技力は説得力があるとも言っています。

 私も映画をみて、実際そう思いました。

 それにね、同時にハリウッドでそんな哲学論議マトリックス並に展開したら、3部作ではすまないだろう、という気するんですよ。

 

 そういうわけで、アニメ版攻殻は、認知という問題、疑ている自分を疑うというような認知論、そして身体論というテーマをずっと追ってきた作品で、いいかえればそれが逆で、押井さんがそのテーマをずっと持っていて、それが史郎正宗の攻殻機動隊と出会って形になったということになります。

 だから、現実も虚構もオリジナルもコピーも消滅してしまった世界において、もはやオリジナルも現実もそもそもその境界はないのではないか、もうその有無さえ確かめようがなく、そもそも確かめる価値さえあるのか怪しいよね、ということをずっとこれまでの攻殻が語ってきたにもかかわらず、ハリウッドで膨大な資金で制作された攻殻からはそのずっと身にまとってきたアニメのテーマが消滅してしまった。しかも映画としてはこれ以上にないくらいわかりやすい説得力によって。

 それをもって押井さんはインタビューで「奇妙な映画だ」というもやっとした言い方をしたのでしょう。

 それにしてもこの真意を理解するのに、私は3日間かかってしまったわけですがこの映画、ディープな攻殻ファンにこそ見てほしい映画です。

 ディープであるファンほど、この映画に簡単に「こんなんじゃない」と言えない不思議な奇妙さを感じるにちがいないはずですから。