7月25日(火)哭声 コクソン(16)韓国ホラー映画

f:id:hagananae:20170725061538j:plain

 

 まれにみる連続猟奇殺人事件、ゾンビ、悪魔祓い、陰陽師、なんでもござれのカオス映画。

 韓国映画にまつわる恐怖と笑いの紙一重はここでも健在だ。そんな懐深い韓国ホラー「コクソン」を一度は見ても悪くない。

 

 悪魔祓いにはみるものを恐怖させる迫力がある。

 親しい人の穏やかな人格が崩壊し、口を開けば周囲に悪口雑言をあびせ、表情は狂気と化す。

 しかし、それは断じて「悪魔がとりついた」という原因が怖いのでもなければ、悪魔という根源的な闇の存在を畏怖するわけでもない。

 ただ単に、目の前の人が人でなくなる状態を見るのが怖いのだ。

 人格が崩壊し、親しい人とのつながりをすべて断ち切ってしまうほどの、健忘と狂気と破壊力。

 そして、それが悪魔の仕業ではなく、その人の持つ精神的な疾患を想像したとき、恐怖は倍増する。

 ただし、それが、今ではレトロな映画の中で語られる漆黒の祭祀、エクソシストとゾンビと化した少女との争いならばまだ、笑ってみていられる。

 

 しかし、それが私たちのよく知る風景の中で起きたらとしたら。

 

f:id:hagananae:20170725061919j:plain

 

 湿潤な田園地帯、未舗装のでこぼこ道、

 雑然とした狭い家、縁側のある農家、地中化されていない電線がつづく村。

 そんな風景を背景にして繰り広げられる私たち日本人によく似た扁平な顔をした人々の狂気と悲哀。

 映画で語られる人々の錯乱に戦慄してしまう理由はただひとつ。

 それは、「あの悪魔祓い」がまるですぐとなりの近所で起こったように思えるからだ。

 

 谷城(コクソン)。

 それは、韓国のどこにでもあるのどかな農村だった。

 新緑の季節を終えた濃い緑が山村にあふれかえっている。

 夏に向かう前の湿潤な風景だ。

 警察官のジョングはそんな村で妻と、一人娘、養子に入った先の姑との4人暮らしをしていた。

 ある雨の強い日、村で惨殺事件が起こり、ジョングが現場に向かうと、凄惨な現場で取り押さえられた容疑者は顔じゅうに吹き出物ができ、白目をむいて錯乱状態に陥っていた。

 同時期に村の山中に一人の日本人の男が住みつき、村人の中でその日本人が鹿の死体をあさっているのを見たというものが出てきた。

 当初の殺人事件は幻覚作用のあるきのこを摂取したことが原因だとされたが、その後も不可解な事件が起き続け、日本人と事件の関連性を疑いはじめるジョング。

 

 そんな中、ジョングは火事と殺人のあった現場で、白い服を着た若い女に日本人が事件の犯人だと告げられ、時を同じくして、ジョングの娘に異変が起きはじめる。

 殺人事件との関連をたしかめるべくジョングは日本人の家に向かうが、そこで同僚が事件の被害者と加害者である村人たちの写真と、ジョングの娘の上ばきを見つける。これは、呪いの証拠ではないか。

 一方、それを裏づけるかのように、ジョングの娘はなにか邪悪なものに取りつかれたかのように、家族をののしりはじめ、ついに隣人を刺すという事態にまで発展する。

 このままでは娘が他の村人と同じように殺人をおかしてしまうかもしれない。

 姑がついに娘の祈祷師を依頼し、ジョングは、娘の異変に冷静さを失い、日本人に「三日以内に村を出なければ殺す」と脅しをかけ、日本人の飼っていた黒犬を屠殺してしまう。

 

 日本人の怒りを買ったジョングの周辺で異変が加速しだし、娘の少女は悪化の一途をたどる。

 祈祷師による日本人呪術者の呪殺がはじまるが、術の途中であまりにも娘が苦しむため、祈祷を中断してしまうジョング。

 ジョングは祈祷師を解雇し、娘を入院させ、自分たちは仲間をかき集めて山中の日本人と対決に向かうが、その頃、日本人は白い服の女から逃げ回っており、その途中ジョングの乗る車に引き殺されてしまう。

 日本人の死により、事件は解決するかに見えたが、娘の容体は悪化しつづけ、ついにジョングの留守の間に恐れていた事件が起きてしまう。

 

 

 

f:id:hagananae:20170725062201j:plain

 (日本人役の國村準 と 警察官ジョング役クァク・ドウォン)

 

 この映画、一言でいうと、カオスです。

 監督はナ・ホンジン。

 08年のサスペンス映画「チェイサー」で有名になった監督で、「チェイサー」も当初はシリアスな連続殺人ものの演出満載で始まり、途中ドタバタコメディとしか言いようにないベクトルに急カーブします。

 

f:id:hagananae:20170725062428j:plain

(「チェイサー」(08))

 

 この韓国映画ではもはやおなじみになった「ここは笑っていいのだろう」というあやふやな状態、嫌いじゃないです。

 このように韓国映画のいいところは、いわゆる「まじめすぎない」という不思議な演出をするところにあるのですが、「コクソン」でもその定まらないが故の「ちょいださめ」の演出が満載です。

 

 

 そして、そして、映画の全体像。

 なんというか、どこを目指しているのかわからないカオス祭り。

こわがっていいのか、笑っていいのか。

 

 

 まあ、実際どんな感じかと言いますと、例によって冒頭は「韓国の農村地帯で起こる連続殺人事件」というテイストでスタートします。

 警察官のジョングが雨の夜に事件でたたき起こされるシーンから始まり、現場に向かうと、すでにパトカーで周囲は包囲され、容疑者と思われる男が手錠をはめられ、意識が完全に朦朧とした状態で縁側に座っています。

 もうね、この様子が完全に「Z」なんですよ。アルファベット、Z

 ゴキブリを「G」と略すことと同じ、ゾンビのZですよ。

 赤い斑点と赤黒い顔と白目。

 

 もう完全にビジュアルがZ

 

 

 そういうわけで、いっきに「自分、またまちがっちゃったよ」と頭を掻きはじめちゃいましたよ。

 プラス溜息ついちゃったことも告白しましょう。

 

 たしかにね、今週はZの生みの親ジョージ・A・ロメオ監督もご逝去されて、周囲には「今週はゾンビ映画ウィークにするしかないよね」と吹聴していました。

 でもですね、Z大好きアメリカ人のおかげで、昨今意識せずとも、いや、わりかし距離をたもって生きようとしても、たまたまジャケ買いした映画がZものだったりすることがあるじゃないですか。

「別に自分、Z映画好きなわけじゃないんですよ。いや、まじで」と途中下車した大量DVDを返すときに、ツタヤの店員さんに思いっきり言い訳したいくらい、レンタル履歴にZ歴が更新され続けてしまう昨今、この「コクソン」冒頭でも、まじで「またか」と思ってしまいました。

 そう、思ったのはきっと私だけじゃないはず。

 

 しかし、よい意味でこの映画は期待を裏切ってくれるのです。

 なんと、Zに見えた容疑者はビジュアルはZですが、その原因がどうやらコクソンに住み着いた日本人の呪いにあるということがなんとなくわかるからです。

 

 

 呪いですよ。呪い。

 貞子的な意味で。

 

 

 さて、日本人と言えば、この「日本人」役が國村準氏です。

f:id:hagananae:20170725063012j:plain

(いぶしぎん!!てか、ヤ〇ザ笑)

 

f:id:hagananae:20170725062920j:plain

(↑これ、怖いと笑う成分でいったら、どう考えても笑うだと思いませんか)

 

 物語終盤までほとんどしゃべらず、喋ったときにはオール日本語というすばらしい語学力を発揮しての登場ですが、この映画で青龍映画賞という韓国人以外では初めての受賞をするという快挙を成し遂げています。

 たしかに、この映画での國村氏の存在感はすごいです。

 

 実際、悪魔役ですからね。

 

 わりかし冒頭の、國村登場のふんどし一枚で血みどろの鹿の腹に顔をうずめて、食らいつくというシーンは、オツです。

 なぜなら、そのシーンこそバイオハザード記念すべき第一作の「あのシーン」を彷彿とさせ、あれのトラウマを抱えている私ぐらいの世代ならば、含み笑いと同時に得たいのしれないプチ恐怖もおぼえるはずだからです。

 

  つまり、レトロインパクト大です。

 まあ、そういうわけでコクソンは、Z映画とおもいきや、

 悪魔の呪いという方向になり、しばらくすると、

 ジョングの娘のエクソシスト状態が展開され、ううむ、となります。

 

 このあたりで、当初の連続殺人事件というストーリーは大気圏の彼方に消失し、さらに悪魔祓いなら端正なエクソシストが登場かと思いきや、ここはアジア。

 霊幻道士のようなうさんくさいことこの上ないビジュアルの祈祷師が登場します。

 

f:id:hagananae:20170725063342j:plain

(↑祈祷師。。あやしすぎだろう。いろいろな意味で)

 この悪魔祓いの作法がまた、秀逸というか、見ていて胸が痛くなります。

 ジョングの娘がエクソシストの取りつかれ少女リーガンのように狂気の顔つきになっていき、祈祷されると、苦しむんですね。

 その祈祷が太鼓をじゃんじゃんばらばら鳴らして、祈祷師が「ひゃっほーいっ」と踊り狂いながら剣舞をしてですね、もうね、お前が狂気みたいな感じです。

f:id:hagananae:20170725063427j:plain

(↑、はいきた、お前が狂気の図)

 

 しかし、娘が苦しむあまり、この祈祷を途中でジョングがやめてしまうことから、

 物語はバッドエンドに向かいます。

 この祈祷の中断で國村氏扮する悪魔は息を吹き返してしまいます。

 そして、このあたりで、このままだと主人公があまりに不利だということで、一応神側と思われる存在、つまり善なる存在もちゃんと登場させています。

 それが、チョン・ウヒ扮する白い服の女です。

 でもですね、彼女、ちゃんと「私天使だから、あの國村準の皮をかぶった悪魔をやっつけよう」とは、言ってこないです。

 言わないので、このチョン・ウヒもそうとう怪しいと主人公も観客も思ってしまうわけです。

 この映画はそうして、悪魔も天使らしき人物も救済者であるべき祈祷師もそれぞれにいかがわしくて、正体不明の立ち位置なので、見ていて混乱をするわけですが、そこはもうそういう演出なんだと割り切るしかないです。

 

 

 もともと諸悪の根源が悪魔。

 完璧な聖人が神。

 こういう二元論的な概念って、日本人もそうですが、仏教道教などが強い中国、日本、韓国あたりにはそぐわない部分があるのかもしれません。

 ただ、悪魔祓いをアジアの農村でやってみたら、意外に新鮮だったということは確実に言えます。 

 

 なんだかんだ、この映画でぐっとくるインパクトがあるのは、

 祈祷師がトランス状態になってジョングの娘の悪魔祓いをするシーンです。

 この祈祷師さえも結局は、悪魔側に半分片足をつっこんだ所業をしていたり、善なる象徴白い服の女性と相対したときには、その聖なるオーラにやられて、嘔吐マックスという症状にしっぽを巻いて逃げかえったりしています。

 

 しかし、そんな詐欺師であろうと、この祈祷のシーンは迫力があります。

 なんというか、人間って本来理性や思考でふたをしている狂気や無意識の欲望っていうのがあるんですね。

 そういう本来は人には見せてはらならないし、見せるとビョーキと思われる部分がやっぱりあって、それが噴出する瞬間を見続けるのは、やっぱり怖い。

 この際、天使も悪魔もどうでもよくて、そうでなくてやっぱり人間の狂気が一番見る者を畏怖させる。

 もちろん、映画ではそんなことは言っていませんが、それをもっとも強く感じたのは、私だけはないはずです。

 

 これは蛇足ですが、このシャーマンの世界は実は私も縁遠くない世界に生きておりまして、身内にも神主がいたり、霊感がやたら強い人間たくさんいたり、

 私自身、人間が取りつかれた場面に居合わせてあわや発狂という状態を見たこともあります。

 そんなこともあり、悪魔祓いに関しては笑って見過ごせない人生を送っていますが、個人的には悪魔や天使という存在には懐疑的です。

 

「普通じゃなくなった人間」に対しては、当たり前ですが、

 悪魔が取りついたというよりも、その人の精神疾患や脳機能の障害なんだと思いますし、または抑圧されたストレスが原因だと思っています。

 ただし、確かにわりきれない事象というのは多々あるのも事実で、問題はそういう割り切れないことに遭遇したとき、そちらの世界に行ってしまうか、こちら側にとどまるのかが、その人の才能というか感性なのかなと思います。

 

 実際、あまりにそちらの世界に関する力、(霊能的な)が強いと、もはや選択もできないらしいのですが、そういう宿命も含めて、

 この手の映画はなにか痛々しいものを感じると同時に、やはり大きな力、

 霊能を授かった人間はそれなりに人間全体に報いる行為をしなくてはな、

 と改めて思うわけです。

 霊能の世界も、悪いことしている人は、本当に呪われたり、

 逮捕されたり、ほんと明瞭な結果がつくあたり、ちゃんと天使は見ているのかな、

 と実生活で思ったりします。

 この力を授かった者の宿命については、

 また別の映画をとりあげて話をしようと思います。

 

 そういうわけで、「コクソン」。

 長い文章をお読みいただきまして、ありがとうございました。 

 カオスを体験したい方には、おおいにおすすめです。