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3月22日(水)仕事場のできないちゃんをめぐる処遇(2)

  承前:仕事場のできないちゃんをめぐる処遇(1)

 

 

 最近は大人の発達障害学習障害アスペルガーなどが認知されるようになったが、本人に自覚がない場合、周囲はさんざんな目にあって、できないちゃんが「障害者である」と医者の判断なしに判断する。

 そうすることで現場は必死にしりぬぐいの覚悟を固める。

 いままで手を組むことのなかったメンバーで防衛線を築き、この様はまるでできない子供がいるために組織全体のチームワークが向上したかに見える。

 しかし、言ってみれは、これはさほどうれしくないチームワークである。

 なぜなら、ただでさえあそびのない現場で大人の問題児をサポートすることほど無意味で非生産的なことはないからだ。

 さらに言えば、給料を標準値でもらっておきながら、全力でサポートを必要とする人間に人はそれほど優しくなれない。

 

 こういうわけで、普通の神経も欠け気味なできないちゃんもさすがに度重なる周囲の自分をサポートする目をみはる行動力に苦悩することになる。

 苦しんでもできないものはできないのだから、辞職をしたほうがお互いのためなのだが、本当の問題はそこからなのだ。

 結果的に言うと、こういうできないちゃんを徹底的に批判するのはやはり、間違っている。

 実際できないちゃんたちは社会には一定数以上、必ず存在しており、仕事の現場においてあそびの部分がなくなるに従い、目立つ存在となっているにすぎない。

 できないちゃんたちは、能力が根本的に欠けているのであり、はっきり言えば、絶対にその能力は向上しない。

 いつまでたっても周囲の手厚いサポートがあってやっと仕事の形をとっているというような、いわば半人前以下にとどまり、現場においては、完全な障害者だ。

 実は身近でこのできないちゃんは、私の現場でも三人はいたが、そのうち二人はすでに精神的に追い込まれ自主的に退職し、残るひとりは周囲に地雷をまき散らしつつ、日々周囲への被害は拡大するばかりであり、早晩二人と同じ道をたどるのではないかと思われる。

 問題は、社会に一定数以上いるできないちゃんを社会がどう受け入れるか、なのだ。

 まずは、社会が大人の障害を認知することからだろう。

 この認知が遅れるせいで、「当然できるよね。いや、やってないだけでしょ。やろうよ」となる。

 しかし、できないものは、できないのだ。

 できないちゃんの能力は完全に欠けているのであり、それは簡単に言うと誰もが東大に入れと言っているのと同じだ。

 実際、東大には誰もが入る必要もないのだが、職場ではお金をもらう以上、本人にとっては東大入学レベルのことを「当然やってくれ」となる。

 しかし、この「できない」ということを本人に早い段階で認めさせることが、被害拡大を阻止する第一歩だ。

 そのためには、評価制度を導入することだろう。

 いわゆる、足切として、あまりにできない人にはきちんと通知をするのだ。

 それが第一歩だと思うのだが。