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3月20日(月)ほんとうの教養とは:司馬遼太郎著「十六の話」中公文庫(97)

 

 いやいや、ひさしぶりにあたふたさせられた。司馬遼太郎にである。

 

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(↑私のうんざりする司馬歴)

 司馬の著作「十六の話」はとても、お風呂に入ってワインを飲みながら読める内容ではない。

 もう、大量の知識が凝縮されていて、何をいっているのかわからない。

 ああ、司馬だな、と思う。

 内容は、日本人の話である。

 はっきり言ってとりとめがなく、鉄が自由な好奇心を誘発したとか、そのためには水が必要だった。

 なぜって、鉄の農具をつくるには、木を燃やさないとだめでね、その木が日本はたくさんあってさあ、しかも儒教みたいながっちがっちの道徳教育が島国のせいで中国から入ってこなかったじゃん、あれよかったんだよね。

 みたいな感じで内容はわかるのだが、で、それで? 

 という感じになるのが司馬の本だ。

 もっと言うと、で、この知識というか、司馬先生の考えたそのことって、なんか知っていいことあるんすか?となる。

 

 おそらく、司馬はこういうだろう。

 そんなの、知るかいな。時間かけてよーく自分で咀嚼してみることや。

 

 いらっとくるのである。

 ただし、司馬にいらっとさせられることは、本気でいらっとさせられるということとは実は違う。

 本気でいらっとするのは、「この程度のこと言うのに、本だすなって」という、うすいライトな、本をめくってしまったときだ。

 最近はこの手の本、つまり素人に毛が生えたような著者が本を出すことが多い。

 この現象の背景には知識さえも即戦力が求められており、即戦力故に、わかりやすく、浅くて、ライトではじめから答えがでているようなものを世間が求めているからだろう。

 司馬にはこれらのライトさは全くない。

 まず、司馬は読者の側から言うと、どうしていいのかわからないスレッドを放り投げてくる。

 そもそも日本人とはなにか、ということを一生かかって考え抜いた司馬は、あまりに思想としては幅広く、それなりに深いため、読み手側が司馬の巨大な思想面のある側面からかってに興味をふかめてその、自分なりの疑問をつくらなくてはならない。

 その自主的問題提起をなかば強制してくる文体というか内容は、今あふれているビジネス書とは対極にあり、司馬とつきあうには、まず、読み下すだけでも司馬の大海のような思想の量と思考法そのものに慣れていくことがスタートで、内容が理解できたとしても、つぎに、どうやって自分なりに展開すればいいの?と混乱を極まる

 おそらく、そこまでしなければ、司馬の話は基本、引退した余命いくばくもない年よりが縁側で茶飲み話にするようなトリビアにししかないからだ。

 

 しかしまあ、教養というのはもしかするとそういうものなのかもしれないと思う。

 つまり、すぐに答えの出ない話題こそが教養であり、その知識を、師匠からおまえ自身はどう思うわけ?と聞かれ、弟子としてはそれをとりあえずは胸にしまって、数年すごす。

 場合によっては十年を越す。

 その間、熟成を待つ。

 その間自分で意識的に何度も考え直し、ときには放り投げて忘れた振りをする。

 しかし、とにかく師匠の投げた話題を自分のなかで育てる。

 実際いらっとしつつ、ずっと疑問を追いかける楽しさもある。

 ただし、疑問さえも、自分でつくらなければならないことも繰り返しになるが事実なのだ。

 そして、その師匠司馬からもらった知識が、いつのまにか、自分なりの思考と経験を経て、知恵になっていく過程がある、ような気がする。

 そういうわけで、司馬遼太郎という作家はのらりくらり、フレームワークのない、世間話のようなだべりの達人だ。

 とはいえ、司馬のあふれるばかりの好奇心だけは、役に立つとも経たなくとも自分のものにしたくなる。

 あえて一言で言ってしまえば、司馬は日本人の好奇心的民族性を手をかえしなをかえ、語っているのである。

司馬のいうとおり好奇心こそ、よりよい未来へのスタート地点だろう。

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(↑ いずれ、司馬を読んだら禁断の書として隔離するよていのうちの庭の蔵)