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2月3日(金)金曜の夜~九条と飾里~


 窓の外をエンジンをふかしたバイク音が去っていく。
 それも、二台。
 長く尾を引く、双子のエンジン音はおれたちはここにいる、という若者の叫びなのだろう。
 田舎にはよくあることだった。


 九条は人気のないファミレスのボックス席に座っていた。
 窓の外は金曜の夜だというのに真っ暗だ。
 この界隈は街道沿いに面し、ファミレスのほかに携帯ショップとハンバーガーショップが並んでいるが、すでに閉店時間をすぎて三時間が立っている。
 通りの向かいのめがね屋とつり道具の入ったビルもすでに消灯済み。
 田舎にはよくあることだった。


 九条はコーヒーカップを口に運んだ。
 白湯がのどを落ちたとたん眠気がおそってきた。
 やはりコーヒーにするべきだったか。
 立ち上がろうとすると、目の前に赤毛のベリーショートの女が立ちふさがった。
「なんだあ、そのしけた飲み物は?」
 女はネコのような丸いつり目を九条のカップに落とした。その視線の先にあるものがまるで汚物でもあるかのように。
 九条のよく知る女だった。
 舞原飾里、二十五歳。性別は女。
 髪型は赤毛の刈り上げ、アシメというパンク調だが、こいつの職業は列記とした公務員だ。唇にピアスをしていないだけまだマシと言えるが、こんなキメたスタイルでどうやって役所の窓口対応をしているのか想像がつかない。
 採用担当者の知見を疑わざるをえないが、採用して数年立てば組織としては自己責任論を振りかざすしかないのかもしれない。 
 そんなことはどうでもいい。
 とにかくなんでこいつがこんなところにいるのか。
 九条は凝った首をまわしながら考えた。
 こきこき、といやな音がした。
 疲れがたまっている。
 これは幻だろう。
 もしくは人違いだ。
 地元の不良少女がちょっと年上の男に絡んでもらいたくて、声をかけてきただけかもしれない。
 ああ、説教をするのか。この俺が。めんどくさすぎだ。
 まどろみそうになる目をこすりった瞬間、女の両手が九条の首にかかっってぎりぎりと締め上げた。
「九条、あんたまさか私に隠れてクスリ使って原稿書いてるんじゃないでしょうね。私より先にそんなおいしい経験してずるい!」
 女の怒号にひきつづき、幻影にしては喉仏にかかる圧力がリアリティがありすぎる。
 苦しい。
 「なにすんだよ、このばか女!」
 九条は女の両腕を乱暴にほどき、逆に首をしめにかかった。
「あんたを地獄の底から救ってやろうとしたんでしょうが! この薬中が! 僕は依存症のKですってか?」
 涙目になった飾里が九条の腕をほどこうと爪をたてた。
「うるせーよ、ただ単に眠かっただけだろうが!」
「眠い?恥ずかしいこと言うな。まだ十時だぞ。夜はこれからだ!」
 突然、なにかが落ちて割れる音がした。
 音のしたあたりを見ると中年のウェイトレスがこちらを盗み見しながら割れたガラスのコップを片づけている。
 二人は無言のまま顔を見合わせた。 
 立ち上がったものの、とても今すぐにドリンクバーにコーヒーを取りに行く気にはならない。


 九条はソファにもたれた。
「おまえも座れよ。完全に痴話喧嘩に思われたぜ」
「出会い頭にけんかふっかけるのやめてよね」
 飾里は首のこりをほぐすように肩を回した。
「そっちこそ普通に声かけろって」
 九条は白湯の残ったコーヒーカップに視線を落とした。
「だいたいなんでこんなとこにいるんだよ。おまえの通勤路から遠くないか?」
 九条の問いに飾里は持っていたポメラを取り上げた。

 ポメラはB5サイズを二つ折りした折り畳み式のデジタルメモで軽さと軌道の早さから物書きたちに重宝されているアイテムだ。
 九条は自分のテーブルの上に広げられた自分のポメラをみた。
 どうやらこいつもここに原稿をするために来たらしい。
「あー、つまり」
「金曜の夜はすいてる」
 二人でハモった。
 最悪だ。執筆の場所がかぶるとは。
 九条は気を取り直して言った。
「わかったよ。とにかくおまえの主張はわかった。おまえの席は禁煙席だな?おれは喫煙席。世界が違う。どうぞ、魔界にお帰りください」
 おれは右手をひらひらさせて侮蔑の態度をとり、左手で愛用のポメラを開いた。
「なによ、その態度。ちっとも原稿が進んでないようだったから心配して声をかけてあげたのに」
 半分図星だけにいらっとする。
「そうだよ。おれにも悩みがあるんだよ。仕事とか女のこととか女のこととか女のこととかな」
「うそだ」
 飾里は無表情のまま反論した。
 うそ? ふざけるな。
 三十五歳のフリーライターの男の悩みと言えば収入と異性のことしかないだろうが。いや、女については悩んでないが。
 九条が反論しようとしたとき、ふいに飾里の背後から声がした。
「あんたが九条龍二か」
 飾里がふりむくと、二十代半ばぐらいの男が立っていた。
 どちらかと言えば痩せ形のすらりとした男で、紺のPコートにジーンズ姿。ニット帽の下からこちらを見定める両目が必要以上に鋭いのは気のせいか。
 一見して地元のヤンキーには見えない。

 だが、いったい誰だ。
 九条は見知らぬ男の登場にいくらか狼狽した。
 こいつはおれの名前を知っている。
「そうだけど、あんたは?」
「一瀬千早(いちのせちはや)だ。あんたは知らないだろう」
 一瀬をなのる男のいうとおり、聞いたこともなかった。
 一瞬、前の職場の関係者かと思った。
 目の前の男にはこの土地特有の喧嘩ごしのなまりがいっさいない。九条は自分が名刺を配った相手なら必ず覚えている。だがこの男には見覚えがない。
 とすると、やはり編集者時代の関係だろうか。
 九条が頭をフル回転させていると、一瀬に向かって飾里が意外なことを言った。
「あなた、前に私とどこかで会ったことがある?」
 一瀬が意外そうな顔をした。
 そのまま無言でおれのほうに視線を移す。
 くそ、話をややこしくしやがって。
 おれは、ため息をついた。
「いや、気にしなくていい。そいつは近所のかわいそうな子なんだ。今言ったことは忘れてくれ。いや、あんたがまんざらでもないなら、別席で二人でじっくり今後について語り合ってもらってもいい」
 一瀬が突然小さく吹き出した。
 笑うと普通の二十代の、つまり年相応に見えた。さきほどまではこちらとしては言われのない殺気をむけられていたような気がしていたのだが。
「いや、申し訳ないけど、あなたとは今夜が会ったのがはじめてだ」
 一瀬は飾里に向かってやけに丁寧な口調で言った。
 どうやらこいつのターゲットは完全に自分のようだ。
 九条はあきらめた。
「だってよ、飾里。ほら、行けよ。彼はおれと話があるらしい」
 手で払うしぐさをすると、飾里は冷たい目でこちらをにらみつけて自分の席に戻っていった。
 やっと追い払えた。
 これで男同士の会話ができる、もといしなければならなくなった。
 ことと次第によっては、きっちり初対面のわきまえと、年上に対する礼儀を教えてやらねばならないだろう。
 全く気がすすまない。
 九条は一瀬にむかって席を指した。
 自分は、ソファに深く座る。
 話を聞いてやるというジェスチャーだ。
 一瀬は無言のまましばらく九条を見つめていたが、唇のはしに笑いを浮かべると九条の向かい側に腰をおろした。
「あんた、あいかわらずだな」
 一瀬がニット帽をとった。
 黒髪、短髪。これできちんとした職業についてる可能性が出た。いったい、こいつの目的はなんだ。というか、誰だ。
「あいかわらずって、どういう意味だ」
「さっきの子だよ。ポメラ持ってたよな。あんたの目の前にあるそれもポメラ。ふたりして原稿のかきっこか」
「いや、おれはあいつに偶然遭遇して、からまれていただけだ」
 九条の答えに一瀬は肩をすくめた。
「あの子もものかきのはしくれなんだろ。あんた、ここまで逃げてきたけど、結局書くことからは逃げられないらしいな」
 一瀬の言葉が一つずつしかし、重い銃弾のように九条に食い込んだ。
「なにが目的だ」
 無関心を装ったつもりだが、声に警戒が強くにじんだ。後悔したがもう遅い。
 だが、意外なことにあせりだしたのは一瀬のほうだった。
「いや、別にあんたにけんかを売りにきたわけじゃない。ただ、たんにあんたに会いたくて来たんだ」
「いや、まじでそういう冗談は勘弁してほしい」
「いや、冗談じゃない。おれは自分の前任者がどういう奴だったのか、知りたくてあんたに会いにきたんだ」
 前任者、という言葉に九条は太い杭で心臓を一突きされたような衝撃を受けた。
 一瀬はそんな九条に気づかずに続ける。
 九条の中ではパズルが一つになった。
 初対面でおれの名前を知っていたこと、飾里の持っているポメラから彼女が物書きの端くれだと見抜き、そして、飾里のような女とつきあっていることを、「あいかわらず」だと言ったこと。つまり、こいつはおれの前任者であり、つまり……
「まさか、忘れてないよな、七瀬玻月(ななせはづき)。あんたが見捨てた作家の卵だ。俺はあいつの担当編集者だ」
 一瀬は静かに言った。
 九条はゆっくりと白湯のはいったコーヒーカップに手をのばし、残りの冷たくなった水を飲み干した。
 一息つかないと、口を開けそうになかった。
「玻月のことは忘れたことはないよ」
「そうか、ならいい」
 一瀬はそれだけで、自分の用は済んだというようにソファにもたれた。
 七瀬玻月のことは、実のところ忘れたくても忘れられないことだった。 玻月は、一年ほど前に九条が担当をはずれた新人作家だ。
 彼女の祖母が文学業界の押しも押されぬ重鎮で、九条は出版社勤務の一年目からその大御所作家について文学と編集のノウハウを学んだ。毎日のように通ったその大御所作家の家には当時十四歳の孫娘の七瀬玻月がいた。それから九年後、彼女が新人作家としてデビューしたとき、担当編集者として彼女についたのが九条だった。
 新人につく担当編集者というのは良くも悪くも作家の成長に大きく関わる。九条は少女時代から玻月をよく知っていた。よく知っていたが、彼女を作家として本気でのばそうと思ったことなど一度もなかった。
 なぜなら九条の担当していた玻月の祖母である大御所作家が、孫娘が作家になろうとする事を許さなかったからだ。
 実際、それは彼女の家族の問題であり、同時に玻月自身の問題なのだから、そんな大御所の言うことは玻月が無視すればすむことだった。そして、九条が彼女の味方になれば済むことだった。
 しかし、それができなかった。
 九条は顔をあげた。
 一瀬は窓の外を見ている。
 本当にもう何も話すことがないもかもしれない。
 こいつがなぜおれの顔を見に来たのかはだいたい想像がつく。
 玻月は今でもおれを恨んでいるのだろう。
 あいつがかけなくなった要因の一つがおれの言ったあの言葉にあるのなら、カウンセラー兼コーチ兼おそらく彼氏役でもある一瀬はおれという疫病神を玻月の精神から排除するために、おれという人物を知る必要があったのだろう。
 こいつはきっとこのあと、最終電車か明日の朝イチの電車で東京に舞い戻り、玻月にこう言うのだ。
 あいつは、故郷にしっぽを巻いて逃げ帰った負け犬だ。
 あいつの言ったことを気にするなんて、時間の無駄だ。
 おまえは天才作家の血を引く天才だ。さあ、かけ、かくんだ。

 かくんだ玻月!とかなんとか。


 だが九条の妄想は一瀬の一言で終わりと告げた。
「もしも、あいつがまた書けるようになって、さらにそれがベストセラー入りなんかしたら、あんたまたあいつの担当編集として戻ってきてくれるか?」
「なに?」
 意味がわからず、聞き返す。一瀬は繰り返した。
 九条は首を振った。
「意味がわからないんだが」
「どこが。玻月がベストセラーを出すことか?」
 一瀬が興奮気味に言った。どうやら本気らしい。
「あー、まあそれもあるけど、おれがまたあいつの担当になるってことがだよ」
「それは、もう話をつけてある」
 一瀬はおれから目をそらさずに言った。
 おいおいうそだろ。
「まさか、奥島さんがからんでるのか?」
「それはおれの口からは言えない」
 一瀬はしらをきったが、ほぼ奥島が絡んでいることは間違いなかった。
 奥島万里、四十二歳。九条が新人の頃からずっと世話になった先輩であり、最後は出版部の次期統括と目されていた人物だ。そして、同時に……
 おれはため息をついた。
 一瞬そうなる可能性さえ考えてしまったおれは編集者という職業にまだ未練があるのかもしれない。
 忘れようとしてもこうして誘われて動揺するのは、あしかけ十年もおり、長くあの業界に骨を埋めてもいいと思っていたせいだろうか。
 いや、だが、もうそんなことにはならないだろう。
 おれの気持ちうんぬんよりも、一瀬が今いった条件がかなり厳しい。
 玻月が作家として復活するのも、ましてやベストセラー入りすることなど夢のまた夢だ。
 文学的才能という言葉の定義自体が不明確なものを大御所作家の祖母から遺伝子として引き継いだからといって、そこから先は本人の努力だ。その努力と未知のものに挑み続ける精神力。孤独な作業の連続。それを、あいつができるだろうか。いや、きっとできない。できなかったあいつをこの目でみた。
 それをこの目の前の若者が可能にしてみせると?
 みたところ、二十代半ばにしか見えない。
 それとも、実は三十代半ばとか? いやいやそれはないだろう。アンチエイジングにもほどがある。
 だとしたらいったいこいつこそなにものなのだ。
 いわゆる出版社のドル箱になるかもしれない新人担当に新人同様にしかみえない編集人間をつけたようにしかみえない。
 いったい、なぜ奥島さんはこいつを玻月につけたんだ。
 いずれにせよ、茶番だろう。
 九条は穏やかな声でいった。
「もし、そうなれば考えてやってもいい。だけど、期待させないでくれ、苦しいから」
 九条が最後に笑いをにじませたことに気がついて、一瀬が立ち上がった。
 激昂するか、と思いきやそうではなかった。
 一瀬はニット帽をかぶると、九条を見下ろした。
 その目には静かな意志と、驚いたことに正反対の感情が混じっていた。そう、深い同情だ。
 九条は混乱した。
 こいつはなんでおれをこんな風に見つめる。
「九条さん、また会えることを期待してるよ。次に会うときは、玻月をあんたに引き渡すときだ」
 そう言うと、一瀬は背を向けた。
 九条はその背に向かって言った。
「引き渡すってなんだよ、おまえの担当だろうが。無責任なこと言うな」
 一瀬が振り向いた。
「その言葉あんたにそっくりかえすよ」
「……」
 なんだあいつ。煮え切らない思いのまま九条の背中を見ていると、そのまま一度も振り返らずに出口に消えた。
 九条は立ち上がった。
 すかさず、飾里が走ってきた。
「九条、わかった」
「なにが?」
 九条はすっかり冷たくなったカップを手にとると、飾里をよけてドリンクバーに向かった。
 気持ちがむしゃくしゃしていた。
 いったい、なんだっていうんだ。
 ありえないことが次々におこりやがる。
 原稿を書こうと思ってここにきただけなのに。
 飾里と遭遇。
 つぎに一瀬と遭遇。
 くそ。
「ねー、九条。さっきの人、なんで会ったことあるような気がしたのかわかった」
「あー、そう」
 まとわりつく飾里をうまくよけて、コーヒーメーカーに近づく。
「あの子さあ、九条に雰囲気がそっくりなんだよ」
「なに?」
 九条が振り向くと飾里がその鼻に指をつきつけた。
「それそれ、その表情。いっつも問題抱えてそうで、それから逃げるためにきゃんきゃんほえてる犬ってかんじ?」
 九条は飾里の首をしめた。
「独断と偏見に満ちた下手な人物描写はやめろ」
「痛い痛い、暴力反対!」
 飾里が大声を出したところで、背後でがちゃんと、何かが割れる音がした。
 振り向くと、例の中年のウェイトレスが肩をびくつかせて、立ち尽くしていた。

 足下の床にグラスが二つ、粉々に砕け散っている。
「あー、すんません」
 ふたりして謝る。
「おまえがよけいなこと言うからだよ」
「九条が素直に認めないからでしょ。で、なんだったの?」
ヘッドハンティング
「うそつけ」
「うそだよ」
 九条は注ぎ終わったコーヒーを手に取った。 
 苦みの混じった湯気が鼻孔をくすぐる。
 これを飲んだら眠れなくなる。
 だが、飲まなくても今夜は眠れない気がした。
「ねえ、たまには私の原稿読んでみない?」
 飾里が上目遣いに九条をみた。
 珍しく遠慮がちな表情だ。
 期待と不安の入り交じった目。
 ふいに九条はこの表情を見たことあるな、と思った。
 なつかしいような、めんどくさいような感情と連動するその記憶の先に玻月の顔が浮かんだ。
 そうだ、いつも書き上がった原稿を渡してくるとき、こんな顔をしていたっけ。
「おまえ、昔おれが担当していた売れない甘ったれな作家にそっくりだな」
「なにそれ。そういう独断と偏見に満ちた人物描写やめたほうがいいと思う」
「でもまあ、今夜だけ原稿みてやってもいいぜ」

 九条が指を鼻先につきつけると、飾里はとたんに歓喜の声をあげた。
 それを無視して九条は席に戻った。
 自分のポメラを閉じる。
 今晩も自分の原稿どころではない。
 窓の外を見るとはいつのまにか雪がちらついている。
 どうりで寒いわけだ。
 いやおうなく今夜は長い夜になるだろう。

 飾里の原稿はさっきほ出来事を忘れさせてくれるだろうか。
 いや、逆になるかもしれない。

 まあ、いい。
 どっちにせよ、今夜は眠れないだろうから。