2月1日(水)メンテナンスは男まかせ

 ここに来て何年になるだろう。

 美砂はゆっくりと寝返りをうつと目をとじた。
 首筋と肩胛骨の間にゆっくりと男の指がふれる。
 美砂の身体にふれる男の指に垂直に圧力がかかり、それが痛みと快楽の感覚に消化していく。
 小さなうめき声がもれた。
「痛いですか?」
 男の太い声が背後でささやく。
 心の中のつぶやきだと思ったが、声に出ていたようだ。
 施術の最中はけして寝ないと思っていたが、どうやら今日はさすがにむりらしい。
「ごめん。一瞬意識飛んでた」
「実際、首のあたりはイッちゃってますよ。どうしたんです。また、原稿?」
 男は心配そうに言った。
「また原稿。妹が最近、やたらと書き殴るからさ、その校正をするのが一手間」
 美砂のぼやきに男が関心したように笑った。
「また、誤字脱字だけじゃなくて、文章一文一文の効果とか考え直してあげちゃってるんですか」
「まあね、見るに耐えないからね」
「前から思ってたんですけど、美砂さんが書いちゃったほうが早くないすか?」
「だめだめ、私はもの書きの才能がないから。読むほう専門。すでにできあがったものにちゃちゃをいれるのとゼロからイチにするのは別次元のテクニックなんだって。私は分析専門、妹は創作専門。どっちがすごいかなんて、はじめからわかりきったことよ」
 美砂はめんどうな会話をきりあげるように早口で言った。
「でも、年間400冊ぐらい読んでるでしょ」
 男の声がかぶさるように言う。
「読んでるって言うか、めくってるっていうか」
「そんな謙遜意味ないですよ。僕が読もうとする本なんか全部先に読破してるじゃないですか」
「そういう『耳すま』みたいなこと言わないでよ」
「なんですか、その耳すまって」
 美砂はしくじったと思うと同時に、10歳も年上であきらかにジェネレーションギャップが想定される相手にジブリ黄金期の映画の比喩を使うべきじゃなかったと反省した。
 反省したが、いまさら遅い。
 ここで
「あー、なんでもないわ。忘れて」
 と言えば話がとぎれることになるし、中途半端に
耳すま、せいじ、図書カード、ストーカーで、ググってみよう」
 と言っても回答をさきのばしにするだけだ。
 美砂はあきらめて、耳をすませばのざっくりしたストーリーを説明した。
 説明が終わると、男は朗らかに笑った。
「美砂さんの場合は俺のストーカーとかじゃなくて、俺が読むパンピー受けのいい、いわゆる最大公約数的な本はとりあえず読んでるってことでしょ」
「あー、まあそれでもいいけど」
 美砂は大きくを息を吸い込みながら、こんなことになるなら男が読破した本を報告する旅に「え、それは読んでなかったなあ」と適当にかまととぶっておくのだったと思った。
 読書なんて、読めばいいってもんじゃない。
 年齢も三十代半ばになると大量読書の功罪というものについて一冊書けそうな気がするものだ。
 だいたい、読書傾向と読破リストをオンラインで各自が公表できるようになってから、美砂はこの国にいかに読書中毒者が多いかを知り、気が滅入ったものだ。
 美砂の知るかぎり、読書を効果的に生活にフィードバックしている大量読書者というのはほぼ皆無だ。
 大量読書、ようするに年間400冊から1000冊を読んでいる人間の大半がひまな学生や主婦やニート、もしくは学者か作家志望者だったりする。
 通常は子供のとき、読書は大切だと言われたが、大人になると「本ばかりよんでないで・・以下略」というフレーズに変化する。
 大人になればなるほど、大量読書に対する罪悪感は膨れ上がり、事実読書で逃避をしている人間は多い。
 いわゆる中毒だ。
 読書は、文字を通じて普段口に出したら大問題に発展するような考えやセリフやはたまた社会制度が語られており、退屈な日常からの逃避にはもってこいだ。
 そして逃避をすればするほど、その逃避が楽しければ楽しいほど日常に戻ってくるのが困難になる。
 作家志望の妹の飾里はそれが高じて、今度は自分が人々の逃避先を製作すると言い出した。
 読書はそれ事態が目的化すると恐ろしいことになる。
 美砂もそれはわかっているが、ほかに時間のつぶし方を知らなかった。
だから、この場合は完全に男が正しい。
 美砂の場合はストーカーするために好きな男よりも先にベストセラーを読みあさっているのではなく、ストーカーする男がいないから本を読みまくっているということになる。
 再び男の太い指が再び背中と腰の間のツボに入る。
 痛みを伴った快楽が全身をかけめぐり、美砂はふたたびうめいた。
「やっぱり、美砂さんが書いたほうが早い気がするなあ」
「考えておくわ」
 そっけない声でいうと、男の苦笑が背後で聞こえた。
「書いてくださいよ。そしたら俺、添削しますよ」
「あのね、先生。どうやって添削するのよ?」
 美砂は一瞬、自分が原稿を書く姿を想像し、次にその原稿を男に渡すシーンを想像してふと思った。
 今自分の体を指圧している男の視力の低下はもはや読書ができるレベルではなく、すべて音声ソフトで読書をしているはずだ。
 だから、原稿を添削するとなると、まさか。
「そのまさかですよ。音声ソフトに変換して、朗読してもらいます」
「勘弁してよ、めちゃめちゃ恥ずかしいじゃん」
「何言ってるんですか、いまさら」
「なしなし、この話はなし」
 美砂はあいているほうの手で空中をぱたぱたさせた。
 あっちにいけ、の合図だ。
 男の声が笑いを含んで言った。
「わかりました。じゃあ、今度はうつ伏せぶになってください」
 美砂はいわれたとおりにした。
 男の太い指がゆっくりと肩胛骨をさぐりだし、ちょうどいい圧で押してくる。
 圧がかかるたびに背中が押し返そうとする。
 自分でも凝っていると思うが、実際に指圧をされて、より凝りが実感できる。
 そのたびに、もっと早く来るべきだったと後悔する。
 しかし、美砂のなかでは男の元にくるのは二週間に一度と決めていた。
 それ以上でも以下でもない。
 指圧師である真山頼智は開業して三年になる。
 通勤路から三キロほど離れた通りにある真山の施療院は住宅の一階を改装しただけのこじんまりとした個人経営の店で、いつも住宅の前の駐車場に車がなかった。
 つまり、客がほとんどいなかった。
 ほんのきまぐれから一度行ってみようと思い立ち、それから三年も通い続けている。
 三十四歳になる美砂は独身であり、自由になるお金も時間にもことかかない。
 それでも月に二度、三時間以上マッサージをすれば万単位になってもおかしくないところ、なぜか真山は三十分、二千円の指圧時間を二倍増しにしてくれる。
 客がいないの事実だったが、美砂は「なぜサービスしてくれるのか」を聞いたことはない。
 理由がだいたい推測されるからだった。
 おそらく、真山はエネルギーを持て余しているのだ。
 真山は指圧師として本来もっと働きたいはずだった。
 それが視力の低下のせいで、ほとんど一人で外にでることができず、小さな部屋で自営業をすることになった。
 年収は病院につとめていた頃の三分の一以下だろう。
 お金がないことは苦にならないが、客のこない日中はひまで仕方がないという。
「なら、読書がいいよ」
 と、美砂のすすめで読書を始めたが、小学校の国語の授業ですでに「主人公のこのときの気持ちは?」
 と、聞かれて
「いや、そう言われても」
 レベルの読解力だった真山は美砂が勧める本のなかでも読みやすいものにはまった。
 ライトなノベルだ。
 真山は一時期、月にライトノベルを五十冊ほど読んでいた。
 ツインテールや妹が席巻するライトノベルに四十歳にして真山がはまるというのは意外だったが、ひまがつぶせたこと事態は悪くない。
 そういうわけで、真山は時間とエネルギーを費やすことに飢えており、おそらく商売さえもひまつぶしの一部である可能性があった。
 家族は連れ子のいる妻と三人だったが、全員がそれぞれ仕事を持っているから、食べるにこまらないだろう。 
 ゆえに、家族も真山の労働生産性に口出しをしてくる気配もない。
 これまで美砂は2000円で一時間以上も指圧をしてくれる真山の店に通いつめていたが、それだけが理由ではなかった。
 それは、当初から感じていたことだったが、美砂は真山が好きだった。
 好きというのは、セックスしたいということではなく、まあ、してもいいかな、とは思ってはいるが、それ以上に真山と話をするのが好きだったのだ。
 これまでもそうだったが、美砂が通い続けられる店というのはたいがい会話が心地よい店員がいるところだった。
 美容院しかり、指圧師しかりだ。
 それも、店員が男であることが多かった。
 別に女性でもかまわないのだが、ここ数年は体のメンテナンスというと男性があてがわれる傾向があった。
 もちろん、男性店員だからいいという訳ではなく、つまるところ会話が穏やかにすすみ、ときにヒートアップしてきてメンテナンスに来ているのかカウンセリングに来ているのかただ単に会話を楽しみに来ているのか、議論に来ているのかわからなくなることもある。
 だが、髪を切るにしても、指圧をするにしても、美砂の話を聞いてくれ、ときには男たちの話を聞いて、その場を楽しめることが店に通い続けられる条件だった。
 それに気がついたとき、美砂は自分が男たちの間を飛び回るような娼婦のようだと思った。
 もちろん、それはうぬぼれでもあり自虐でもあり、費用を払っているのは美砂である以上そんな考え方は本来はあり得ないのだった。
 それでも、自分が男遊びをしているような妙な気持ちになるのだった。
 二週間に一度、もしくは一ヶ月に一度、ひとりの男と客と店員という立場以上にも以下にならず、その枠組みのなかで最高に楽しい会話と関係性が維持できるメンテナンスにお金を払う。
 これが男遊びと本質的にどこが違うというのだろう。
 それでも、そのことがこのうえもなく幸せだと感じることがあった。
 こんなことは決まった異性のパートナーがいないことからくる代償行為なのかもしれない。
 かもしれないが、気の合う自分を丁寧にメンテナンスしてくれる男たちと持つことは、孤独と引き替えの快楽でもあった。
 だから美砂自身、その快楽との距離の取り方を常に考えていた。
 考えなければ、何かを踏み外しそうだった。
「先生」
 ベッドに座り最後の軽い指圧になったとき、美砂は真山の名前を読んだ。
「なんです?」 
いつもの真山の穏やかな声。
「いつも延長してくれてありがとう」
美砂の声に真山の指先に一瞬空中でとまる。そして、すぐに何事もなかったかのようにもとに戻る。
 最後の軽い肩たたき。これでフィニッシュだ。
「いや、こちらこそ美砂さんはうちのお得意さまですから」
「まあね、こんなに体にがたがきちゃっている以上、定期的にこないとね」
「再来週もお待ちしておりますよ」
「うん、来たくなくてもそうなっちゃうだろうね」
 美砂が替えをすません、玄関で靴をはきかけたとき、背後で真山が言った。
「本当に、書くこと考えておいてくださいね」
 まだ、言っている。
 美砂は肩をすくめた。
「わかった、わかった。書くよ、書く。だけど、ヘッドフォン推奨だからね。奥さんに聞かれたら恥ずかしくここもうこれないから」
「承知しました」
「じゃあまたね」
「お気をつけて」
 玄関の外はすっかり日が落ちて、住宅街の淡い光の上空に数えるばかりの星が瞬いていた。
 首回りの凝りは完全とはいかないまでも、少しだけ軽くなり、その分気持ちも心なしか軽いのだった。