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1月27日(金)現世人類という低スペック

【効 率・能 率】 【仕 事】

 

 現場というところは、本質的なものしか通用しないと思ったら大間違いで、

実はなあなあで非効率で、同時にスピードが重視されるわりに、

相手の期限をとるためだけに膨大な時間とエネルギーをロスしたりするきわめて、カオスな空間だ。


 なぜ、カオスかというと、現場であればあるほど、人間が多くかかわり、人間というものがそもそも不合理的な生き物だからだ。


 本当にここ二日ぐらいだが、人間にとっての本当の効率とはなんだろうか、と考えるようになった。


 結論から言うと、効率は奥が深いということだ。


 人間は効率的ではなく、不合理な存在で、あまりに計画経済的にやると、

共産主義が崩壊したように国家が70年単位で崩壊せず、

あまりに欲望を刺激して資本主義経済に走るとアメリカ経済のように、

医者や教師という職業が転落する悲劇的な社会になってしまう。


 おそらく、効率というのは人間のできなさ、非効率さも含めてうまく回転するようなシステムを構築することなのだろう。


 ほんとうに、ここ二日のことなのだが、職場で激しい焦燥感だったものが、

まあ、いいんじゃね、に変わる劇的大改革が脳内でおこった。 

 それは最先端の技術や世界の行く末を論じた数々のほぼ、SFと言っていい文献から生じた、私のなかの妄想みたいなものが発端だった。


 AIの発達による極度なオートメーションは人間から仕事を奪い、

そこまでいかなくとも、じょじょにマシンに仕事を委譲していくオフショアリングが急速に進んでいく。

 オフショアリングとは本来海外のやすい労働力を期待して工場などを移転することだが、このオフショアを現地から海外ではなく、人からマシンへの意味で使う日もそう遠くはない気がするのだ。


 話をもとに戻して、業務のオートメーション化だが、とくに早期に乗っ取られやすい業務は半分マシンに片足をつっこんでいるようなものだ。


 おそらく、私がやっているような入力業務的なものだろう。
 もちろん、単純な入力ではないのだが、そこまで複雑ではない。

 言ってみれば、個人の確定申告レベルのものだ。
 確定申告はいまや国税庁がオンライン化を促しており、わざわざ税務署や、役所の税務課に行かなくてもパソコン一つあればできるようになった。

 これだけでも、役人の業務はかなり減った。

 役所レベルでいえば、平成23年から始まった地方税国税のデータ連携のおかげで、地方の役所はこれまでその連携業務をする人間が一人いなくてすむようになった。

 私がいた税務課は当時地方税担当は四人だったが、国税連携システムが完了したおかげで、人員が一人削減されてもうまく回るようになった。

 これは、確定申告の所得データを国と地方が共有し、そこから国税地方税を徴収するため、互いの場所で申告されたデータは互いに送付し、各自で入力しなければならなかったことに由来する。

 役所で申告されたデータは紙ベースで、すべて税務署にあげ、税務署の申告データは紙で役所に送付されていたが、これを紙からデータで連携されたのが、平成23年の地味な税務処理データ革命だ。

 

 実際、オートメーション化のすばらしい事例だ。

 この手のオートメーション化は防ぎようがないし、やりたい業務かといわれるとそうでもないのだから、なくなって大いに結構かな、と思うところではある。


 しかし、たとえばコミュニケーションの場合は、近くにいるのに常にオンライン的な仮想空間(電話やメール)だけで済ませようとすると、どうにも現場との隔たりがあり、逆に伝わらない感じがする。


 私の業務の場合、現場は学校であり、学校でなにが起きているのかを知るには、現場の職員と顔をつきあわせてみるのが一番だ。

 とはいえ、顔をつきあわせるのが、非効率だと思うこともあった。
 その一つが財務システムが、学校にない、ということだった。
 学校や役所は課ごとに予算をもっており、なにか購入しなくてはならないものがあると、そのお財布システムから、お金を引き出して、業者に振り込む。
 データ処理をして、紙で打ち出して、それを課内で決裁をして、それから会計課で決裁をして、最終的に業者にお金が振り込まれるというものだ。

 イメージ的には100円の買いものをするのに、20日がかりで、約十人の職員が書類に押印するという感じだ。ちなみに、振り込まれるのは、買ってから早くて一か月。


 このお財布システムが学校にないために、学校の事務職員はわざわざ役所まで来て、半日ぐらいかけてシステムでデータ処理をしていく。


 非効率だろ。
 学校にシステム導入しろよ、


 と、つい昨日ぐらいまで思っていたのだが、いや、あんがいそうでもないのかも、と思うようになった。


 学校事務担当が来てシステムの前に座ると、ちょうど私の担当する給食費システムの入ったパソコンと背中合わせになる。
 そうすると、気のあう事務担当などとは、世間話になる。
 これが、実は学校が抱えていて、かつ世間話でしか言えないけれど、実は重要な話につながったりする。
 たとえば、私が学校に流したFAXには私の個人の携帯が(まちがって)記載してあり、それを校長がうはうはして、「電話しちゃうぞ~」って言ってたから、「深い意味はもちろんないですよ」って言っておいたから、と事務担当に言われて情報流出の失態に気がつくとか。。
 これは、まあ全然重要ではないが、電話もメールでも当然のことながら、会話よりはスレッドの内容が厳選されたオフィシャルなものになりがちだから、こうして顔をつきあわせて、はじめて言える話があるというのが、現場の真実なのだ。

 このくだらない会話こそが、たとえば、学校でインフルが流行しつつあるとか、ノロウイルスがはやりすぎて、現場は同時多発ゲロの様相を呈していて危険区域指定だとか、子供がゲロをするときは、下でむかず、真横ではくので、それはまさにシンガポールマーライオンのようであり、かつ爆心地が拡大するというような、めっちゃおもしろい(失礼)話を聞けたりして、灰色の事務生活に華やぎをくわえ、午後の事務がはかどる、ということにもなりかねない。
 これこそ、たのしい事務の効率化ではないでしょうか!!

 と、私は声を大にしていいたい。。


 と、まあ、結局人間はやっぱり、顔をつきあわせないといいたいことも言えないのであって、それも含めて現世人類なりの低スペックな効率を考えていかないと回るものも回らないのかも、と思ったしだいだ。


 役所は競争がなく、マシンによるオートメーション化は遅々として進まない。
 しかし、進まないからこそ、人間らしさの残る現場とも言えるのかもしれない。
 この現場の感覚はおそらく、様々な人々が様々な業界で感じていることであり、しかしそれをある意味で理論化していかないと、この手の部分はどんどんなくなっていくような気がする。
 人間がある意味で非効率で不合理だからこそ、システムも人間の非効率のよさというか、不合理の利点も考えて作っていかないとうまく機能しない。

 ぜひ、どなたか権力のある方が人間の低スペックを全面的に認めて、かつそれを大衆にわからないようないい感じのフレーズで広めて回り、事務の効率化に歯止めをかけてほしいものだ。