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1月25日(水)姪っ子の魔法

 

 家には三匹猫がいて、その一匹は私にしかなつかない。
 今年の10月に、我が家に迷い込んできて、祖母があわれに思い、外の納屋で餌をやりはじめたら、いつのまにか我が家の周囲にいつくようになった。

 赤毛のトラネコは、がりがりにやせて、毛は抜け落ちていた。
 目尻は猫のくせに下がり気味で困ったような顔をしていた。
 
 その猫は、えさがもらえるようになっても、警戒がとけず、昼間は稲刈りの終わった田圃から我が家を眺めていた。


 その猫を私もまたあわれに思うようになった。
 雨の日に草むらのなかでやせた体を丸めているのをみたとき、この猫を家で飼おうと思った。
 その猫ははじめ、私にもよりつかなかったが、私がかいがいしく世話をしたせいか、私にだけはなつくようになり、私の部屋を自分の居場所と思うようになった。


 名前をリオという。
 そのリオが、名前を覚えるのが早かった。
 「リオ!」と名前を呼ぶと、部屋のどこにいても返事をする。
 飼ってみてわかったが、リオはかつて家猫だったふしがある。
 人間に対する警戒心はあっても、野良猫特有の人間を敵視する視線がない。

 あるのは、極度のおびえだ。

 よほどひどいめにあったのだろう。
 目尻が下がっている表情もそれを加速させる。


 早く名前をつけて、呼んであげよう。
 そう思ったわけは、リオがかつて名前を持っていたような気がしたからだ。
 思ったとおり、はじめはネコさん、と呼んでいただけで反応したリオが名前を持ったとたんに返事をするようになった。
 よほど、名前をよばれたかったのだろう。
 
 名前は不思議なもので、それ単体で魔法のようだと思うことがある。
 つまり、世界一、短い魔法の呪文というか。
 それを最近実感することがあった。

 人間関係は失って、そしてまた新しい関係ができあがるのかもしれない。
 それでも、たとえば、学生時代の友人と社会人になってからできた友人が自分を呼ぶときの呼び方は違う。
 恋人が自分をよぶ、呼び方はちがう。
 呼ぶときの声質が違う。
 友人によばれる、呼び捨て。
 恋人によばれるときの、甘い呼び捨て。
 三十代のはじめに、私はこの二つをほぼ同時期になくした。
 友人たちは結婚をして、疎遠になり、恋人とは別れた。
 だから、私を友人として、恋人として、呼ぶ存在がなくなった。

 残された呼ばれ方は、家族のなかの娘として、姉として、そして職場で部下として先輩として、同僚として。
 そのことが当たり前となり、それに慣れたと思っていた。


 名前は呼ばれなければ、忘れてしまうものだ。
 だから、妹の子供が生まれて、言葉をしゃべるようになったときも、ほんとうに「人間は言葉をおぼえるようになるんだ」ぐらいにしか思わなかった。
 その妹が、姪っ子に私を紹介するときに、「おばちゃんですよ~」と言っていたのだが、おばという関係性を2歳の子供に説明するのが難しかったらしく、けっきょく「ななえちゃんですよ~」と、私の名前で説明するようになった。
 姪っ子は言葉を覚えるようになると、
 私を「ななえちゃん」と呼ぶようになった。
 当初はふーん、としか思わなかった。
 たぶん、私の名前と姪っ子が発する言葉がどこかちぐはぐな、感じがしたからだろう。
 私は姪っ子が言う「ななえちゃん」がただの言葉の羅列にしか聞こえなかった。

 

 6月のある日、一日だけとれた平日の休みの日に近所の川に2歳になる姪っ子を連れて行った。
 姪っ子は昼間は名古屋の小さなマンションで保育園にもいかず、昼間は妹と二人きりだ。
 田舎にきたときだけ、にぎやかな家族に囲まれ、自然にふれることができる。
 姪っ子は私の幼いときによく似ていて、私はまるで子供時代の自分と会っているような気分になる。
 それでも、似ているな、ぐらいにしか思わず、特別に姪っ子がかわいい、と思うことがなかった。
 かわいいのは、かわいいのだが、たとえば、リオは私がいないと、だめだ、という親的な切迫感が姪っ子に持てないせいか、あくまで妹の子という意味で、遠い存在だった。


 その姪っ子の手をひいて、川に向かう。
 川は東側がサイクリングロードになっており、姪っ子の手をひいてゆっくりと歩いていく。
 舗装された階段をおりていくと、目の前は幅15メートルほどの川が流れている。
「入ってみる?」
 姪っ子に聞くと、はにかんだ。
 入りたいのだ。
 私は姪っ子を抱き抱えると、足下に気をつけながら10センチほどの深さの河原に足を踏み入れた。
 水が冷たかった。
 足下の石ころはこけ蒸していて、すべる。
 姪っ子をそっとおろして、後ろからだっこして、川の中を歩かせると、とたんに奇声があがった。
 はじめて、入る川に興奮したらしい。
 「つめたい!」
 姪っ子は何度もさけびながら、ゆっくりと川を進んでいく。
 私は抱きかかえる手をはなさない。
 川を進んでいくうちにふたりともスニーカーは水を含んでおもくなり、姪っ子のズボンはまたの近くまでぬれてしまった。
 ほんのすこしだ。
 時間にすれば、ほんの5分。
 夕方のその時間、私は姪っ子を抱き上げると、川をあがった。
 びしょぬれの二人の靴跡がサイクリングロードに点々とつく。


「楽しかった?」
 私がきくと、姪っ子が「うん!」と大きな声をだす。
「すごく、楽しかったよ、ななえちゃん」
「そっかー、よかったね」
 姪っ子の手をつないだ瞬間、よほどうれしかったか、姪っ子が両手をあげて大声でいった。
「ななえちゃん!」
 私はびっくりした。
 「なあに?」
「ななえちゃん!」
 姪っ子はまた空に向かって言った。
「なあに!」
 私も姪っ子にあわせて大きな声で言った。
「ななえちゃん!
 ななえちゃん!」
 姪っ子は呼び続けた。
 その瞬間、私はふいに涙があふれた。
 なぜだろう、と思う間もなく涙がでた。
 姪っ子は私の名前を呼び続けている。
 私は、返事もできずに姪っ子の手をにぎりしめた。
 それは、たしかに魔法だった。
 何かを壊したようにも、何かをつくったようにも思えた。
 ななえちゃん!という姪っ子の言葉に私は、家族でも職場でも呼ばれたことのない、存在である自分を感じた。
 それが、なんなのかわからなかった。
 でも、その新しい呼ばれ方は私の中の何かを壊し、何かをつくった。

 それが、涙となった。

 不思議な感動だった。
 川沿いの西山に夕日が沈んでいく。
 6月の夕暮れは遅い。

 やがて、姪っ子は落ち着いたのか、スキップをしながら私の先を歩き出した。
 私は姪っ子とサイクリングロードを歩きながら、
 今日この日のことは忘れないだろう、と思った。
 姪っ子は忘れてしまうだろうと思った。
 でも、私は忘れずにいようと思った。
 そして、つらいときも姪っ子の魔法を思いだそうと思った。
 誰かに名前を呼ばれるという感動を忘れないようにしようと思った。