12月25日(日)電通自殺事件によせて ~極限を乗り越えるための二つの世界~

 

母がこのところ、例の電通の自殺した東大卒の女性のニュースについて、

私に嘆くことが多い。
私はこのニュースを見て、判断する材料がないな、

と思いつつ一言で自分の思いをまとめるなら「

やめちゃえばよかったのに」となる。


電通がどんな風土か知らないけれど、

おそらくみながみな割といっぱいいっぱいで

仕事をしていたんだろう、と思う。
誰も助けないし、誰もがライバル、

というようなそんな世界に近いんじゃないだろうか。


このニュースに関しては推測の域を出ないけれど、

私は職場の改善とかよりも、やっぱり彼女が

「逃げちゃえばよかったのに」と思う割合が多い。


自殺する人間に対して、私は半ば同情よりも怒りがわくことが多い。
それは、死ぬほうがずっと楽である一方、

残された者たちの苦しみを少しも考えないことへの怒りというか、

まあ、とにかく腹が立つということになる。
実際、二十代前半は自分に無限の能力があると思いがちだし、

事実東大を出てしまうと、その傾向は高まると思う。


だから、周りがその未熟さをサポートしなかったのは、

不幸だし悲劇だと思うけれど、

そういう世界に飛び込んだ彼女にも責任がないわけじゃない。
こういうことを言うと、本当に冷たいと思われるかもしれないけれど、

でも、会社をやめても生きていける。

ただし、自分はできなかったんだ、という挫折と等価交換にはなるけれど、彼女は

自分ができないということを認められなかったんじゃないだろうか。


でも、本当は人生はそこからがスタートなんだと思う。


普通、人はもっと早い段階で、

努力では到達できない能力を持った人々と出会い、

挫折を経験するんじゃないだろうか。
それが、東大に入る子たちは大半が、暗記能力に優れており、

その能力と家庭の経済力さえあれば十代の大部分は

本人の自覚のあるなしに関わらず、ちやほやされてしまう。


そのちやほや度合いは想像を絶する。


大学入学後、自分のレベルは大学内に掃いて捨てる

ほどいることに気がついて、

心理的なダメージをイヤと言うほど受けることもあるだろう。


私の東大に入った友人は自分がいかに東大集団では

「たいしたことがない」のかを思い知らされて、

ショックを受けたというような話をしていた。


私からみれば、勉強ができないことなんて、

もっとずっと前からわかりきっていたし、

勉強で勝てないなら、なにでなら勝負できるのか、

十代のもっとずっと早い時期に気付かざるを得なかったけどね、

といいたくもなるんだけれど、

優秀な人間には優秀なりに悩みと挫折がある。

人生は挫折が早すぎてもつらいけれど、遅すぎるともっとつらい。


自分が知らずに心理的に依存していたものが暴落してしまえば、

足下が崩れるような不安と危機にみまわれることは想像できる。
私の場合はそれが16歳だった。


東大に入った友人のうち一人は19歳にそのアイデンティティクライシスをむかえ、

その年に自殺をした。
友人が自殺したことについては、例によって憶測の域を出なかった。


けれど、東大に入学するまでちやほやされていたことは間違いないし、

それが彼らの挫折への耐性を弱めていたのかと思うと、

それは本人だけではなく周囲の大人の責任かもしれない。


私は高校の時に、勉強以外に自分の自尊心と

生きる目的を持つための何かが必要だと強く感じた。
それが私にとっては、文章を書くこと、思考することだった。


それを磨くことで、自分よりも「できる」人間をうらまずに

認められるようになった気がする。


実際、学校から逃がしてくれたのは、両親だったから、

私が一人で逃げられたわけではない。
だから、自殺した電通の彼女が今回のことで

全責任があるわけでは、もちろんないと思う。


思うけれど、彼女にも責任がある。


それは、東大になぜ入ったのか、電通に入って、何をしたかったのか、

自分の人生のビジョンを少しでも持つべきだったんじゃないか、

ということだ。
それがあれば、自分が目の前にある書類に押しつぶされずに、

「これは自分の求める人生じゃない」と判断できたんじゃないだろうか。


国の責任とか親の責任とか言うつもりはないけれど、

やはりこの国の大人は子供たちに勉強する意味や目的を考えることを

教えてこなかったんじゃないかと思ってしまう。
あと、もう一つは子供に勉強だけでなく運動でも、

芸術でもいいから、何か勉強以外に違う世界を持たせる。


違う世界を持っていれば、自分のいる学校教育や成績という

ごくごく限定された評価基準を「なめてかかる」こともできる。


母が、彼女のニュースをみるたびに「もったいない」と嘆く。


私は、複雑な思いがする。
自分ができると思っていた時期が、長すぎたんだな、と。
あまりに長すぎて、この世には越えられないハードルなんてないと、

思ってしまったんだな、と。
まるで二十代の自分を見ているようだと思って、切なくなる。


そして、能力が高いと要求されるタスクのレベルも高くなり、

いつか、自分もできなくなる日がくるのは当たり前のことだと、

彼女を諭したくなる。


でも、本当なら誰かがもっと早く彼女を助けるべきだった。


死ぬくらいなら、誰かが「もうやらなくていい。できなくていい」
と、彼女を生きているうちに挫折させてあげればよかったと思う。


仕事ができたり、勉強ができるのは、

生きる能力のうちの大半を占めるかもしれないけれど、

幸せであったり、長く厳しい人生を生き抜くにはほんの一部の

能力でしかないと、誰かが教えてあげればよかった。


彼女にはきっと、そこがタイミングだった。


できない自分がいる。
でも、生きているだけで、

いいと思えるまっさらな無力な自分を受けいれてから、

すべてははじまる。


そうして生きていくうちに、みじめでも無能でも、

少しはまともに生きていこうと思うしかなくなる。


両親だけではなくて、友人や、

社会や歴史が自分を生かしてくれると気づいたら、

なかなか死のうとは思えなくなるから。

それでも生きていこうとなんとかもがくから。