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12月25日(日)歴史の海を泳ぐ

今年の10月くらいからか、週に一度は図書館か本屋で新刊本を見に行こうと、思うようになった。

その前までは、その回数は多すぎた。
しかし、10月に速読の本を集中的に消化したら、

本を読むことに抵抗がなくなった。
以前から多くの本に対して読まなくてもいいよな、

という印象だけは抱えてきたけれど、

この時期にそれは確信になり、

読書は、読むべきものと捨てる本があることに気づいた。


そして、どんなに大事な本だとしても、趣旨は2割であり、

そのほかの8割は枝葉や肉付けにすぎない、

という大胆な考えもこの2ヶ月で実感できた。
それを実感するためにも、週に一度は図書館や本屋に意識的に体を運び

、何かしら心に響くものがあえば入手しようと自分を駆り立てた。


楽しい反面、疲れることで、当初はこんなことでも体調を崩したが

、今は週に10冊ずつ借りても心身ともに楽になってきた。
なぜ本を読むのかといえば、やはりほっとするからなのだろ思う。


私が読んでいて、感動したりほっとするタイプの本は

歴史関係がほとんどで、

実は小説よりもずっとすきなのかもしれないと思う。


本に求めるものは実は娯楽ではなく、

知恵であったり、歴史を生き抜いてきた人々の英知を学ぶことであったり、

なんとなくそれは頭でっかちな楽しみな気がする。


一方、つい映画を見てしまうのは、

これは単純に人間ドラマがみたいからであり、

こちらのほうが即物的で快楽に近い気がする。


そんなわけで、今も同時並行して3冊の西欧近代史を読んでいるが、

ちっとも進まない。
その一つは「1989 世界を変えた年」という2010年刊行の

アメリカ人ジャーナリストが書いたルポだ。
ベルリン崩壊までの課程を東側の諸国から見ることによって、

その後のアメリカの外交や政策を冷静に見極めようという趣旨だ。
冒頭と後書きは冷戦崩壊後にアメリカが冷静に自分たちの立位置を確認し、

冷戦後の世界構築のビジョンを描けていたらよかったのに、というもので、

それは実は最近ドラルド・トランプをはじめとするポピュリズム

批判する本でお目にかかったものだった。


トランプが人気を博すると同時に、おそらく多くの人が

「やばいことになった」と思ったと思うが、

あれよあれと言う間に大統領に当選し、

「ここまできたか」という感じがして、

私はそこであわててトランプ関連の本をめくりだした。


なんとなく、「戦争になるな」という直感とともに、

私はいったいどこから間違ったんだろう、

ということをなんとなく考え始めた。

そうしたときに、トランプ本でかかれていたのが、

「冷戦終了時」のアメリカの浮き足だった完全な見誤り、ということだった。


それはそうとして、そのときは「ふ~ん」だったのだが、

今この「1989」の趣旨がまさにそのことを言っているのであり、

アメリカの政策を注意している人たちの中ではおよそ定説だったのかもしれない。


で、私はいまそれを知ったので、冷戦というものを

ゆっくりとおさらいをしている。


何がいいたいのかというと、だいぶそれたが、

週イチで本を入手しようとすると、

無理にでも何か本を手に取らなくてはならないハードルができ、

そのために結局は自分が気になるジャンルの本を縦横無尽に手を出す。


そうした本をめくり続けると、自分の中で気になるテーマが浮かぶ。

それをたぐり寄せるように本の間を冒険する、と言うとなんだか少し楽しい。


こういうことをしていると、

ゴールの見えない果てしないものに挑んでいる気がする。
もともとは小説を書きたいからはじまった読書だけれど、

私の場合はそれが歴史に向かった。


人々は生きている。
環境とともに生きている。
時代とともに生きている。
時代を知れば、人がわかる。
人がわかれば、時代もわかる。
そんな気がして、私は登れないかもしれない山を見つけては入り口まで歩いている。
速読はその入り口を見つける方法で、今少しずつ入り口より先に行ってみたい山が見えてきた。
それは、意外にも私がこれまで興味を持っていなかったヨーロッパの近代史だったりする。

 

もともとは、今年四国を旅し、愛媛で「坂の上の雲」の舞台、そして高知、坂本竜馬の故郷に触れて、江戸幕府を終わりにしたあの時代に少しだけ触れたことがきっかけだった。

二か月後に、会津を旅して、そして心は黒船に帰っていった。

西欧は日本が鎖国をしている間に西欧はアジア諸国がたどり着かなかった文明を作り出した。

その西欧の1000年間をもう一度勉強することで、何かが見えてくるんじゃないかと思ってはじめた読書の旅はまだはじまったばかりだ。