11月13日(日)そばと信州と会津

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 栃木県はそばの生産が微妙に多く、全国でも6位、8位あたりをうろうろしている。

幼いころから家で作ったそばを食べて、そのあまりのまずさに長い間そばが嫌いだった。
 いつのまにかそばが好きになったが、理由の一つは長野で食べたそばだった。

はっきり言ってめちゃくちゃおいしくて、今までそばだと思っていたものがそうでなかった、ぐらいの次元を越えたおいしさだった。


 その後、栃木でもがんばって探して、遠くまで行けばなんとかおいしいものに巡り会えるぐらいのレベルにはなった。

それでも、信州のそばには及ばない。

適当に入ったお店のそばがめちゃくちゃおいしい。


 こういう、いままで○○だと思っていた○○は、○○ではなかった。

ということは、ご当地グルメにかぎらず、先日もどこかでしゃべった温泉にも当てはまったりすることで、なんでもご当地のそれは体験するにこしたことはない。


 そういうわけで、信州のそばは昨年、上田祭りに参加するために長野に行ったときもたまたま選ばずに入ったお店が激うまで驚愕した。
 そこは池波正太郎真田太平記館に隣接するおそば屋さんで、なんだかしらないけれど、めちゃくちゃおいしかった。


 信州、レベル高っ!!
 としか思えない。


 栃木はそばの生産はしていても、そばづくりのノウハウはまだまだなのかもしれない。
 それはそれでいいのだが、ときおり、旅先でおいしいそばにあって、「栃木からきました」なんて言うと、ことごとく「粉は栃木産です」と言われて、ちょっと微妙な気持ちになる。
 珍しいものを食べにきたのに、お国に戻ったような気持ちになるし、同時に、栃木のそばの未熟さに切ない気持ちになったりもする。


 さて、ここまでが前振り。


 最近、旅行雑誌を月に2、3冊買っているのだが、その中で、ふとこんな記事を見つけた。
「そば発祥の地・伊那の高遠そばは会津で生きていた」とういうものだ。
旅の手帳の11月号、85P


 会津と言えば、私が来月の会津一泊の旅に向けて絶賛勉強中の藩だ。
記事の下にはそばの写真が載っている。
 南会津郡の大内宿にあり三澤屋の高遠そばとあり、内側が朱塗りになっている椀にそばが盛られており、三十センチほどのネギがまるごと一本、椀の汁につかるように入っている(上の写真のようなものです)
 これは、実は大内宿の名物で、ネギを無造作に入れてあるのはネギに薬味と箸の二役を割り振ってるからだ。

 まあ、無理がある。。


 一昨年、私は仕事で大内宿に視察に行き、このときこのそばを食べた。
栃木から大内宿は近いため、どちらかというと何度も行っている観光地だ。

 改めて研修でいくような場所でもないと思ったのだが、いざ行ってみるとこのそばのインパクトに負けて、つい頼んでしまう。
 そういうわけで、そのそばの写真を見たとき、あれ、と思ったのだ。
 このそばは会津のものだ。

 それなのに、なぜ長野の伊那のそばが生きていたと、なるのだろう。
 うーん、なぜだ。


 記事にその答えが書いてあったのだが、そういえば会津初代藩主の保科正之は二代将軍秀忠の息子であったにもかかわらず、侍女との間にできた子供であったため、正妻のお江をおそれるあまり、秀忠は早々に養子にだしてしまったのだった。


 正之は信州高遠藩、保科家の養子になったということは、先日読んだ司馬遼太郎の短編「王城の守護者」にて読んでいたので、すぐに「そうであった~」と納得がいった。
 その後、正之は父秀忠の死後、23万国の会津藩主となる。

 で、そのときに、そばの先進国であった信濃の国からそば職人を伴わせて会津に行ったらしい。

 なるほど、そうであったか。。


 私事だが、微妙に感動した。
 自分がなにげなく食べていた食べ物が実はあの正之公も「めっちゃうまいやん」と思って、会津まで職人をつれてきていたから、あのそばが生まれたのね、と思うと親近感とともに世間は狭いのね、という気がしちゃったわけだ。
 で、正之ぃ、あんただけじゃないけん、みんな信州のそばはおいしいって思ってるけんね!
 みたいな、気持ちになるわけだ。


 で、それだけが言いたくてこれを書いている。
 蛇足だが、伊那の高遠そばというのは、いろいろ事情があって、しばらく忘れられていたようなのだが、最近になって会津と交流して逆輸入して復興したらしい。
 里子に出した子から教わるみたいな感じだろうか。
 まあ、そういうわけで、来月会津に行ったら、正之公、よくやったと思いつつそばを食べるしかなさそうです。

 会津と信州保科家に思いをはせて。