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つくり話

つくり話(このあとのブログ:映画モールスについての感想と連動しています)

 

 

アックルの話

 

 屋上の少年

 アックルには年の離れた姉がいて、ヤンキーだった。小学生のとき、すでに二十代前半だったアックルの姉は元ヤンだった彼と実家で同棲生活をしていた。アックルは姉の彼を兄とよび、私はアックルには年の離れた兄がいて、兄の彼女が家に遊びにきているものだとほんきで思っていた。

アックルは中学のときにバタフライナイフを持っていることがばれて、担任に半強制的に柔道部に入部させられた。そこは不良予備軍の少年たちの最後の砦だった。アックルは週に三日の練習にまじめに通った。それでも家にかえれば隣の部屋から姉と義理の兄の絡みあう声が嫌でも耳にはいる。だから中学のころ、アックルはほとんど家にいなかった。マクドナルドもゲーセンも何もない田舎町で、アックルはよく町をさまよっては時間をつぶしていた。

十四歳の夏だった。その年は彼が地元の暴走族にかかわっていることがばれて、高校を退学する二年前のことだった。

 夏休みも近いある平日の夜、アックルから電話がかかった。九時半ごろだ。

「いますぐ、ガッコにこれる?」

 アックルの声は暗かった。昼間教室でバタフライナイフを操っている彼の姿が目に浮かんだ。クラスの男子には恐れられていたが、私はアックルを怖いと思ったことはない。小学六年生のとき、授業中にアックルが足かけをしてきて、私がひざをすりむいたときも、あわてて保健室から絆創膏をもってきてくれた。

「……いいけど、どうしたのこんな時間に」

「なんとなく」

 電話の向こうのアックルはくぐもった声だった。

「家にいたくないとか?」

「まあね」

 私は電話の子機を耳にあてながら階段をのぼった。

「いまからだと、二十分ぐらいかかるかも」

「いいよ、待ってる」

 私は風呂上りの髪に軽くドライヤーをあてると、パジャマをぬいで服に着替えはじめた。

 親にはジョギングをしてくると言って家をでた。

 いつも夜中はそうしていたから、親は聞いているのかいないのかという返事をした。

 七月の夜は生暖かい風が吹いており、虫の音があちこちから聞こえてきた。

 私は自転車にまたがり学校にむかった。待ちあわせ場所は南校舎の屋外階段の前だった。

 

 俺はコンビニの公衆電話の受話器を置くと、学校に向かって自転車をこぎはじめた。一瞬家のことが気になった。が、今日にかぎっては誰も自分のことなど気にしないだろうと思った。あねきたちは相変わらず家でいちゃついていたし、母親はパートからもどっていない。親父は出張中。

 俺はクラスメートのエマのことを考えた。エマとはこの町に引っ越してきて以来のつきあいだ。頭はいいが、天然で何もないところでおおげさにころぶ癖がある。六年のときに、転校した学校の六年五組のクラスで席がとなりになった。けなげに教科書をみせてくれたり、引っ越す前まで住んでいた町のことを熱心に聞いてきた。仲良くなったというのはいいすぎで、たんに気があった。今おもえば、あのクラスにもすぐになじむことができたのもエマのおかげだった。

数学の授業のときだった。あいつが指されて黒板に答えを書いたあと、こちらにむかってもどってくるあいつの顔を見た瞬間、ほぼ何も考えずに俺は足をだした。あいつは、俺の足に自分の左足をひっかけて、豪快にこけた。クラスが一瞬静寂に満ちた。あいつはゆっくりと起きあがり、俺をにらんだ。

「なにしてくれんのよ、え?」

 そう、目が言っていた。すすけた単車のヘッドライトに、いま五十年ぶりに火が灯ったみたいな、暗い炎がその瞳に宿っていた。あいつの左足のひざには血がにじんでいて、俺はたまたま保健委員だったから、すぐに保健室に行って絆創膏をもらってきた。あいつは保健室の前のベンチに座って、俺から無言で絆創膏をひったくった。

「悪かった」

 俺が頭をさげると、意外にもエマは自分でもなさけなさそうな顔をした。

「まさかひっかかるとは思ってなかったんでしょ?」

 俺はうつむいたままふきだしそうになるのを必死にこらえた。

「べつにいいわよ。たいしたことなかったし、笑いはとれたし」

 エマはそういうと、俺の右腕にむかって軽いストレートをいれてきた。痛くもかゆくもなかった。

「これでおあいこじゃん」

(変な女)

 そう思いつつも、エマが俺を許してくれたことが伝わってきて、俺は二度とこいつをからかったり、まして傷つけちゃだめだ、なんてほんきで思った。

 

 エマとはそれから中学二年で再び同じクラスになった。別になんとも思っていなかったが、エマは俺のなかでいつのまにか気がねしない異性の友人になっていた。たぶんそれは二年前、はじめて会ったときからだったんだろう。

 エマになら俺の家庭のことも話せたし、進路のこととか、ぐだぐだな友人関係も言えた。

 その手の話は、べつにしたくてするんじゃなくて、たまたま席が近い美術や理科の実験のときに、ふと気がつくとあいつに話しているかんじだった。だから中学二年になって、あいつが「ひとつ年下の後輩を好きになったんだよね」と言ってきたときは正直動揺した。そいつはバレー部に入部しているがっちりした体格の奴で、一年のくせにへんに堂々としていた。バレー部自体の練習がゆるすぎて、うまいのか下手なのかわからなかったが、エマに言わせれば「何をしてもかっこいい」のだった。

「これだから女は」

 俺は昼休みに教室の窓から両手をにぎりしめて、校庭でサッカーをする後輩を見つめているエマに言ってやった。が、エマは俺のことなんか全然聞いていなかった。俺はその瞬間と口をひらいていた。

「あいつより、俺のほうがずっといいぜ」

 エマは怪訝な顔をして俺を見た。

「それ、どういう意味?」

「どういう意味ってきかれても」

 俺はたじろいだ。俺にもなんでそんなこと言ってしまったのかわかなかった。まさに口をついてでてきてしまったのだから。その三日後に俺の誕生日があり、エマは短い手紙と手作りのケーキをくれたが、これは六年五組のときに仲のよかった男には全員あげているものだった。俺はその手紙の裏に謝りの手紙を入れた。

「からかって悪かった」

 と一言書いて。

 だが、数日経ってもエマの機嫌はよくならない。

しかたなく、俺は手紙を読んだのか聞いた。すると、エマは俺をにらんでこう言った。

「アックルは私が書いた手紙ほしくなかったんでしょ? つきかえされた自分の手紙なんかトイレにやぶいて流してやったわよ。どう、これで満足?」

 エマはそういうと、にらんでいた目をほんの一瞬悲しげに曇らせた。が、俺が何も言えずに口をぱくぱくさせていると、「じゃ」と言って俺に背を向けた。エマと俺はそれからしばらく気まずさを抱えて過ごしてきたが、今日になってエマのほうから折れてきた。

 俺が自分から謝れないのを知っていたのだ。

「なんで手紙を返されたのか、わかんないけど」

 とエマは理科の授業のときに言った。

「アックルとけんかするのやだから、仲直りしよう」

 俺は顔が赤くなるのを必死にこらえていた。

 エマの目はまっすぐに俺を見つめていた。俺はどうしてだろうと思った。俺じゃない奴が好きなのに、どうしてこいつはこういう目で俺を見るんだろう。

 エマが口をひらいた。

「だから、アックル言ってよ」

「何を?」

「悪かったって」

「はあ?」

「言うの言わないの?」

「わ、悪かったよ」

 エマは唇の端に笑みを浮かべた。

「私も。ごめん」

 それだけいうと、制服のすそを翻して去っていった。

 俺はその後姿を見送るしかなかった。

 あいかわらずへんな女だ。

 俺は何も言いたいことが言えてなかった。そうじゃない。俺が言いたいのは、そういうことじゃない。

 俺は覚悟を決めると、エマの家に電話をかけた。

エマは呼び出すと、すぐに来ると言った。まさかこんなに簡単に行くとは思わなかった。俺は校門の横の隙間から自転車を乗り入れながら思った。

(きっと、あいつもあんがい同じことを思ってるのかもしれない)

(まさかひっかかるとは思っていなかった、と)

 

 夜の校舎は残骸じみていた。よく写真集で見る廃墟のごとくだ。鉄筋の四角い建物は月明かりの映えて青白く、学校の怪談なんかより、舞台としては吸血鬼ドラキュラに出てくる洋館のようだ。

 俺は校舎の横を自転車で流し、南校舎の階段の前で降りた。階段は幅が二メートルほどで、鉄の鎖が二重に張り巡らされている。だが、そんなものはまたいでしまえばそれで終わりなのだから、まるで公衆便所の入り口でときおりみかける「清掃中です」の看板ほどの拘束力しかもたない。上りはじめる一階部分には「立ち入り禁止」のプラスチックの看板がかかっているが、これも右に同じ。   

俺は屋上まで続く階段をみあげた。階段は四階分。

頭上には青白い月。校舎にとりつけられた時計が針の下に不気味な陰をつくっている。

鎖をまたぎ、階段に足をかける。

風がここちよい。

生暖かかった風がいつのまにかひんやりとしている。

階段はきれいだった。ちょうど二日前に南校舎の掃除をしたからだ。普段はこの屋外階段は使われていない。それは屋上に続いているからで、屋上といはたいていどこの学校でも施錠されている。というのも、なんでも十年前に南校舎の屋上から飛び降り自殺があったからだという。俺はそのころ四歳で、詳しいことは覚えていないが、うわさによると死んだのは男子生徒。

俺はよく校舎の南側に面している音楽室や美術室の窓から下を眺めて見るんだが、一階はコンクリートで、かつてそこが血の海で染まったことがあるとはとうてい思えない。首のむきをかえて、空を見てみるが、たかが十四歳ぐらいで地上に体を思いっきり打ちつけて死ぬなんて相当なもんだと思う。たぶん、それが生きているより楽っていう感覚なんだろう。まったく俺の想像力じゃおいつかない。俺は足元を見つめているうちに、そんなことを思いだしていた。

一階の踊り場で、校庭を見渡したがエマがきている様子はなかった。あと五、六分はかかるのかもしれない。三階分を一気にのぼってしまうおうと、体にはずみをつけた。

 

 

住宅街のむこうに校舎が見えてきた。外灯の光は校庭の入るまでの道でとぎれている。

私は校庭の入り口の前の自販機でジュースを二本買うと、自転車のまま校庭のフェンス沿いに自転車を走らせた。

アックル。

憎めないけれど、なぜか喧嘩ごしになってしまう男友達。

私はそれでもアックルのことが嫌いじゃなかった。人を傷つけるつもりもないのに、刃物をちらつかせて、一生懸命いきがってる。

今日、私がアックルに対して折れたのも、なんだかかわいそうになってきたから。たぶん、アックルはやきもちを焼いているのだ。手紙をつきかえしてきたり、私の好きな人をけなしたり。子供っぽい。

「もう少し、正直になってくればいいのに」

私は思わず口にだしていた。

はっとして、次の瞬間。

(だから?)

 正直になったからって、どうなるんだろう。

 アックルとはただの友達。

 それ以上でも以下でもない。

 でも、と私は思った。

 たぶん、アックルを失いたくない。

 私はかごのジュースをがちゃがちゃ言わせながら自転車をこいだ。

 その日、何が待ち受けているとも知らずに。

 

 

 屋上まで駆けあがったのでいくらか息がきれた。ふらふらした足どりに荒い呼吸のまま、俺は二、三歩歩いたところで立ち止まった。

 月が雲にかげったらしく、あたりが薄暗い。

涼しい風が吹いている。屋上の隅に人でも隠れていはしないかと思ったが、とるものもない場所にくるやつもないだろうと、俺はすぐに視線をもどした。

 屋上はそれほど広くなかった。南校舎自体が扇形の形をしているからだ。右手に屋内階段につづく小屋があったが、当然のごとくそれ以外の人影はなし。屋上は直径が二十メートルの円を三分割したような形。屋上のふちのコンクリートの端には、鉄の太い柵が取りつけられている。俺は鉄柵にもたれかかると、大きく息を吸った。

 墨を流したような空に灰色の雲がかかり、その下の景色は田舎町のそれだった。どこまでも続く田園と、ちらほら見える住宅街。車が光の尾をつけて、走っていくのが見える。

 風が頬をなでる。

 ここがいちばん、町で高い場所か。

 俺は額の汗をぬぐいながら、みるともなく夜の風景を見つめた。そのまま真下には自分の自転車が見えたので、ふとエマの姿を探したが、姿は見えない。

(あいつ、ほんとに来るのかな)

 そう思って、不安になりかけたときだった。ふいに、乾いた音がして俺はさっと音のしたほうに振り返った。

 音。

 それは金属の音だった。なにか硬いものが空洞を持った金属にあたったときのような。俺は一歩踏みだした。

「だれかいるのか?」

 俺は屋上にむかって言った。

 返事はない。

まるで声が空にむかってむなしく吸い込まれるような気がした。

「おい、だれかいるのかって言ってんだよ」

 なにをムキになってるんだ。自分でもおかしかったが、声をださずにいられなかった。気配、人がいる気配を感じたのだ。

 俺は暗闇にむかって目をこらした。

 と、そのときだった。月が雲間から顔をだし、一瞬、屋上が照らしだされた。

 人。

 人がやっぱりいた。

 黒い影の大きさが大人ではない。

 背は俺と同じくらい。暗くてよく見えないが、屋上の鉄柵をまたいでいるところだった。

 あっ。

 俺は思わず声をあげていた。

 そいつはTシャツに半ズボン姿で、ごついスニーカーをはいている。頭に巨大なヘッドフォンをしている。顔は見えないが、音量がそこからもれている。ハードロックを聴いているらしい。甲高い悲鳴と重低音ががんがんもれている。少年だった。

 そいつは、鉄柵を飛びこえると、屋上の向こう側に立った。そして、体を揺らしながら、屋上のふちに沿って歩きはじめた。彼のあるいているこの世とあの世の境界線の幅はそう広くはないだろう。

 おいおいおいおい、死ぬ気かよ!

 そう思った俺の心臓がぎゅん、と鼓動を打ち、それに気がつく前に俺は走りだしていた。

 俺は叫びながらそいつに突進していった。

 が、奴はヘッドフォンに左手を当てながら、体をバカみたいにゆらしている。俺のことはぜんぜん目に入っていないみたいに、体を上下に振りまくる。が、その体が突然がくんと止まった。

そいつが俺に気がついたのだ。俺は走っている。が、あと数メートルはある。追いつかない。

 そいつは俺を見た。屋上の闇を背景にして、こちらに体をぐいと向けた。そしてとっさに両の手をひろげ、背後に体が倒れ、落ちていった。まるで闇に夏の夜に抱き込まれるように、視界から消えていく……。

 俺は声をあげたまま、鉄柵にぶつかった。

 時間差で引力にひかれた少年のヘッドフォンのコードが闇に舞い上がる。

 俺は手をのばし、コードをつかんだ。が、すでに少年の姿はない。

 俺の右手のなかで、コードが何かから外れる衝撃が走り、次の瞬間、地響きにも似た大きな音が階下から聞こえた。

 にぶく、なにか重たいものがつぶれる音だった。

 死んだ。

 俺はコードをつかみながら思った。

 あいつは、死んだ。今、さっき。

 俺はいつのまにか、涙を流していた。いや、汗が額から頬に流れていた。

全身が水でもあびたようにびっしょりだった。

やっとの思いで顔をあげ、鉄柵に身をのりだして下をのぞく。が、校舎の南側に照明はないらしく、闇にまぎれて見えない。

見えなくてよかったのかもしれない。 

 俺は持っていたコードを手放すと、よろよろと階段を下りていった。体が重かった。ほんの数分前、この階段をかけあがった自分の体が信じられない。屋上の一番下にとうとうついた。

 俺はいったん立ち止まると、このままこの場を立ち去りたい気持ちでいっぱいになっていることに気がついた。あと数歩歩けば、あいつの死体、たぶん、血糊のカーペットにうずくまっている姿を目にしなければならないし、顔がぐちゃぐちゃかもしれない。だが、見捨てることなんてできない。俺が最後にやつの姿を見たからだ。

 くそ!

 俺は頭を抱えると、よろよろと歩きだした。そのときだった。

「アックル」

 振り返ると、エマが自転車をこぎながらこちらにむかってくるところだった。

 

 

よほど俺の顔色が悪かったのだろう。エマは自転車をたてかけると、呆然としている俺のそばにかけよってきた。

「どうしたの! 何かあったの?」

 エマは俺がいままで聞いたこともないほどあわてた声で言った。

「いや」

 俺はそれだけ言ったが、あとがつづかなかった。よろめいた俺をエマが支える。

「もしかして、具合悪いの? だから呼んだの? 怪我してるの?」

 いっきにまくしたてる。俺は首を振った。

「違うよ」

 階段の前に座りこみながら言う。そして視界の向こう側に消えていく南校舎の稜線をにらんだ。あの先に、あいつが横たわっている。いったい、どうすれば……。

「いったいどうしたの? 黙ってたらわかんないよ」

 彼女は俺の肩を揺さぶった。

「エマ」

「何?」

 エマが月明かりの下で、不安げに俺を見つめる。

「おまえをこんなことに巻き込こんでごめん」

「なによ巻きこむって?」

 エマは俺を見ると、困ったように唇の端に笑いを浮かべた。

「ほんとにごめん」

「だから、なんなのよ」

「さっき人が死んだんだ。ここの屋上から飛び降りて」

 エマの眉間にしわがより、俺の肩をゆさぶる手がとまった。

 予想したとおりのことだったが、南校舎のどこにもアックルの言う死体はなかった。校舎の近くのコンクリートにも、そのすぐ南にあるプールにも、まさか死体など見つかるはずもなく、私は思いきりアックルの股間をけりつけてやりたかった。あの迫真の演技。一瞬でも、今まさに自殺の瞬間を目撃して、ショック状態になっているだなんて思った自分がはずかしい。

「いや、まじなんだって。ほんとなんだって」

 アックルは私が何も言わないで、彼のシャツをそっと放したときに言った。

 私はできるだけ、怒りを、怒涛のごとく沸き起こる怒りを悟られまいとして言った。

「でも、肝心のあれがないじゃない」

「でも、ほんとうなんだって」

 もろい、泣きそうでさえある声。

 ふざけんな。

「だったら、証拠みせてよ。物証ってやつを。さあ! さあ!」

 思わず声が大きくなる。

「アックルさん、こう言ちゃなんですがね、こちとら死体が見つからないと殺人事件にはならないんですよ。つまり、ヤマとして成立しないんですよ」

 私はいらいらした口調で言った。

「殺人じゃねえよ。自殺なんだから」

「では、遺体は?」

 私はあたりを見回した。

 アックルは、くそ! と言って屋上を見上げた。

「そうだ、屋上にヘッドフォンのコードがあるはずだ」

「自分で持ってきたんじゃないのお?」

 意地悪く言った。なんだかもうどうでもよくなっていた。アックルが嘘をついていたのは間違いないし、そこまでして嘘をつく理由はわからなかったが、どうせ人を驚かしたかったんだろ。いつ、こっちを笑うのか、気が気じゃない。

「俺、コード取ってくる。エマ、そこで待ってろよ」

「ええ? 一人で?」

 アックルは私が情けない声を出したので、ポケットから何かとりだすと、私の手ににぎらせた。バタフライナイフだった。

「敵がきたら、そいつで対応しろ」

 そう肩越しに言い捨てると、階段をかけ上げって行く。

「敵って……」

 私は開き方もわからないずっしりと思いナイフをつかんだまま、あせりにあせっている彼の後ろ姿を見つめた。

 しばらくするとアックルは戻ってきた。肩を落として、手ぶらで。

「なかったんでしょ」

 アックルはうなづきもせずにその場に座り込んだ。

 

「はい、これジュース」

「あ、あんがとな」

 アックルはそういうと、ぼんやりとジュースを受け取った。腑に落ちない顔をしている。

 まだ演技を続ける気らしい。

「あのさ、アックル」

 私は言った。

 アックルは顔を上げた。

「今日、何か話があったんじゃないの? こんな時間に呼び出して。そりゃ、呼び出されるほうもほうだけどさ」

「あ、うん」

 アックルはあいまいにうなづくと、ふたたびジュースに目を落とした。

「そうだよな。俺、なんか言おうと思ったんだ」

「で、それってなに?」

「うん、それが思い出せない」

 アックルが前方の一点を見つめたまま言う。

「なにそれ」

 私はアックルを見、そして屋上を見上げ、そしてゆっくりと階段を伝って、また彼に視線をもどした。

「いや、でもほんとに見たんだって」

 アックルの声がまたしても、繰り返したが、私は夏の夜の空気を吸っては、ため息をついた。

 

 

 以上がアックルの話だ。

 今から十年以上も前の夏、アックルが私を夜の学校に呼び出したときのことだ。あのとき、アックルが何を話そうとしたのかはわからない。実際に少年の幽霊を見たのかも、自殺の話がほんとうだったのかも、今ではたしかめようがない。いや、ある。

 ヒサナ経由でアックルに連絡をとり、「あれってマジだったの?」と聞けばいいのだ。アックルはなんて言うだろうか。「作り話だよ」と言うのか。「いや、まじだったんだって」と言うか。

 あの日、私たちは互いにジュースを無言で飲むと、もう話題が弾まないことに気がついて家に帰った。

 私は彼に腹を立てていることを悟られたくなくて、あの日の夜のことを二度と彼に聞かなかった。彼もまた、自分が目にしたものについて、クラスメートの誰にもしゃべらなかったらしい。十年ぶりに会い、ヒサナがアックルとつきあっていることがわかり、ふと思い出した話だ。

 アックルは嘘をついていたのだろうか。ついていたのなら、なぜ?

 

 ただ確実に言えることがあるとすれば、あの日を境に私とアックルは互いに距離ができたということだ。見るものが違ってくるのを漠然と感じていたのかもしれない。進学に象徴される未来のことが、私たちを前に前に急き立てていたのかもしれない。いずれにせよ、私は今になって思うのはあの屋上の少年はいたのかもしれないということだ。

 あの少年はどういうわけか、私とアックルの間に生じつつあった亀裂を知っていた。だからあそこに現れ、その亀裂にむかって鑿をふるった。一度だけ。それだけで、私たちが二度と以前のようにふざけあったり、冗談を言ったりしなくなることを知っていたように。

 いいか、わるいか?

 それはわからない。

 すべては過去のこと。

 あのときに戻れたとしても、きっと私とアックルは別々の道に行ったのだろう。そんなことを、思う。