10月29日(土)肉体というより魂の創造について

 

 人を人というとき、肉体ばかりでなくその意識もセットとして想定される。
 先ほどのレビューで死者から生者を創造するフランケンシュタインについて書いた。
 映画ではヴィクター・フランケンシュタインが生命活動を始めた死体の継ぎ合わせである怪物の目を初めてみたとき、そこに人間的な知性の光が宿っていないことに気がついて、「失敗」だと言う。
 それから激しい戦闘をして、怪物を殺害することになるのだが、

よくよく考えれば生命を死体から作ることと、

そこに人間の意識が宿ることはどう考えても別だ。
 ちょっと深く考えれば当たり前の「このこと」は意外に忘れられがちで、

死体が動き始めてから、その動く肉体(ゾンビと言ってもいい。

最近はゾンビが人間並の人格を維持して、恋愛するものもあるけれど)がやっと、

求めていた愛する人間でないと気付くというシーンがフィクションではよくある。


 つまり肉体が動くという最低限のレベルは達成できたとしても、

それを人間らしく作動させたり、その人らしいふるまいというのは魂との連動になり、そちらの再生までは無理だったということだ。


 この手の片手落ちの例は古いところで、スティーブン・キングの「ペットセメタリー」がある。
 なんとももの悲しい話で、

主人公が次々に家族を失い禁断の墓場に死体を埋めに行くのだが、

その墓から蘇った家族やペットは性格が凶暴になり、

生き残った家族に襲いかかるというものだ。
 また、ちょっと昔だとアニメ化されたマンガ「鋼の錬金術師」では

主人公のエドと弟のアルが魔法陣に肉体の構成物をおいて、

人体錬成というこれまた禁断の術を使って死んだ母親を創造しようする。

しかし結果、無惨な肉塊が出来上がってしまい、彼らはそれぞれ肉体の一部、

もしくはすべてを失ってしまう。

そしてそして、最近は、どうだろう。


 今、私が企画中の物語も死者の蘇りをテーマにしているが、

これらのフィクションの歴史をふまえてもどう考えても

蘇るためには最低限二つのもの必要だ。


 それは肉体と魂だ。
 ちょっと昔のフィクションに描かれている科学者はひたすら人を

作ろうとして肉体の蘇生のみに熱中してきたが、

本当は人が人になるためには意識であり、心であり、

精神であるところの魂が必要になる。


 で、魂はどこにあるのかという話は置いておくにしても、

肉体そっちのけで魂というか心に似た機能をつくるとしたら、

それはAIになるかもしれない、と思ったりする。
 独断と偏見とただの印象なんだけれど、

私は生命というのは一回限りのものだろうな、と思っている。
 その人や動物でもいいけれど、その人(動物)らしさ、

というのは肉体と肉体を動かすもって生まれた嗜好というか価値観が連動していて、

それが肉体の外の環境から日々影響を受けて、

その人のアクションをとる。
 そうなると、その人らしい生き様というのは生まれてから

死ぬまでの連綿と続くけれど、完全に有限な時の中でしか再現できないもので、

それは二度と代替できるものではないのでは、と思うのだ。


 ときに、あったらいいなというのは死んだ親しい人が

いたらこう発言するだろうな、というようなシムだが、

これこそ上記の理由で難しいんだろうな、と思われる。
 人格というのは肉体と心がセットである上に、

外界との接触で日々更新されていくものだとすると、

死んだ時点ですべてが消滅してしまうし、

たとえばデジタルデータとして再現できたとして、

この日々アップデートが激しい世の中で死んで一ヶ月もすればすでに過去の人となりかねない。
 であるならば、死んだと同時に生者の世界になんらかの方法で接続し続けねばならない。


 ひとごとだが、死んでからも仮想人格として延命され、

生き続けて日々、データの海にさらされ続ける彼らにお疲れさまだ。


 そういうわけで、もし死者が生き続けることになったら、大変だろうし、

死ぬことである意味、残された人々は自分で決断し、

考えていくんだろうな、とかっこいいことを考えてしまうわけだ。


 ま、それじゃつまらないので、性懲りもなく死者を蘇らせるストーリーを企画中なのだが。