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10月29日(土)映画レビュー ヴィクター・フランケンシュタイン(2015製作)

 

 これでもかというくらいにリメイクされてきた、フランケンシュタインものの映画。
 またか、と思いつつ、一度は観るのをやめようと思ったが
今構想中の作品が、死者を蘇らせるという部分を含んでおり、そこらへんを掘り下げているうちに、観よう、という気持ちにさせられた。
 感想は、う~ん、という形容詞がたい消化不良のうめきと、

 うそ!!?という呆れていいのか驚いていいのか、

それとも両方なのかのせめぎ合いに終始


 いつも思うが、いい映画ってなんだろうね、ということ。

 私は映画の専門的な勉強はしていないし、正当なる映画の「見方」や「批評」もわからない。
 なので、画面を作る映像上のテクニックなどは素人でしかないんだけれど、

この映画が映像だけに限って言えばクオリティが高く、

まさに18世紀だか19世紀初頭だかの蒸気機関全盛期の魔都ロンドンを怪しく華やかに演出できていることはわかる。
 映像も衣装も蒸気の時代のグレーの色調で統一されており、

メランコリックで同時になまめかしい雰囲気がよく伝わってくる。


 そう、世界観はすばらしい。


 で、たいがいのハリウッド関連の映画すべてに言えることなのだが、

映像はすばらしく、内容は既視感なのだ。
 このことから考えて商業上の誓約や意図はわからないが、

こうもフランケンシュタインものがリメイクされ続けるというのは、

つくれば必ず飛びつく層がいると見越しているからなのだろうか。


 実際ゾンビものの映画の量の多さは半端なく、

アメリカ人はマクドナルドと同じ消費量でゾンビ映画をみまくり、

ゾンビは彼らの衣食住に組み込まれているのではないかと思うくらいだ。


 とはいえ、ことフランケンシュタインものはそれほど制作量は多くない。
 むしろ、「忘れたころにやってくる」程度の頻度でしかないのだが、

それにしても、もっとやりようがなかったのかな、

という気がしてならない。


 なにを隠そうこの映画、タイトルに「ヴィクター・フランケンシュタイン」というあのメアリー・シェリー原作時に怪物をつくった狂気の博士の名前が

そのまんまついている。
 しかし、内容はヴィクターが怪物をつくりました、ということと

産業革命後のイギリスを舞台にしているという以外は完全に違う物語になっている
 映画では、ヴィクターが怪物を作り上げるところがクライマックスであり、

ラストになる。
 一方メアリーの原作では、ヴィクターが怪物を作り上げることになった過去、

そして怪物が目覚め、生みの父であるヴィクターを追いかける課程で様々な経験をし、やがて創造主であるヴィクターを殺害するところで終わる。
 原作の筋は怪物と創造主ヴィクターの葛藤がメインだ。
 死体のつぎはぎによって生まれながらに醜い生物として迫害されながらも、

自分がなぜ生まれてきたのかという謎を真摯に解明しようとする怪物があまりにも人間じみていて哀切を誘う。


 一方、創造主のヴィクターは母の死に衝撃を受け、正当な学問や家族を放棄してまで、死から生への創造に精力を傾ける。
 そして、できあがったのがあの醜い怪物だが、ヴィクターは己の創造した怪物を目にしたとたん、あまりのおぞましさに怪物を放置したまま逃げてしまう。
 物語を通して、共感をするのは何の罪もないのにかってに生み出され、その理由さえも教えられないまま永遠に迫害されつづける怪物の悲しさだ。
 怪物は自分で言葉や常識というものを学んで、自分の出生の秘密をヴィクターの手記から理解し、自分を生み出したのがヴィクターであると知る。
 迫害の課程で深く傷ついた怪物は誰も自分を認めてくれないのなら、花嫁となる怪物をつくってくれればおまえ前から姿を消す、とヴィクターを脅すが、ヴィクターはそれを拒否。
 怪物はうらみに思い彼の家族を次々と手にかけてゆく。
 そして、最後は創造主のヴィクターさえも殺害し、その遺体を抱いて極寒の北の大地に怪物が消えるところで物語は終わる。
 メアリーの原作は人間の罪の物語であると同時に、ヴィクターと怪物といういびつな親子の激しい感情のぶつかりあいの物語でもある。
 だから、読んでいて色々つっこみどころはあるものの、読ませる物語であり、また科学で人間の宿命である生老病死を乗り越えたいという科学を手に入れた人間なら誰でも思う普遍的な欲望を描いているが故に200年経ったいまも読み継がれている、と私は思う。
 メアリーの原作にもっとも忠実なものは94年のものだと思うが、今回の映画をみようと思ったとき、忠実でなくても「おもしろいもの」を期待していた。
 だが、映画が終わり、スタッフロールが流れ始めたときに感じたのは、言葉にならない、疑問の山だった。
 そこで、よい映画というのはなんだろう、ということになる。
 私は映画を脚本の点からしか眺められないという因果な性質があり、

その視点から行くとこの映画の主人公であるヴィクターはキャラ崩壊している。
 怪物を作って瞬時に後悔し、バトルになってさんざんな目にあったにもかかわらず、ラストのラストで、共犯者であるイゴールダニエル・ラドクリフ君)に

「今回は失敗しちゃったけど、次でリベンジwテヘペロ」と、

まったく反省していない手紙を送りつけちゃって、

旅先でうきうきした笑顔で終わるのだ。


 え?
 ってかんじだ。
 あの怪物を作るのを躊躇した涙のシーンとか、あれ何だったの?
 みたいな。


 別に人様が作った作品だし、あーだこーだ言ってもはじまらないんだけど、

それでいいの? という感じがあまりにもしたのだ。


 まあスーパーポジティブに話を受け止めて、

こんな不思議な気持ちになるなんて、映画ってやっぱりいいですね~w

さよなら、さよなら、さよなら~ってなるなら話は別ですけど、

まあならないでしょう。

 

 しかしだ、この映画、観客への配慮も一部にはあって、

冒頭でもクライマックスでも「有名な物語だ」という前置きがある。
 しかも2回もわざわざ、あるのだ。
 この独白は狂気の天才科学者ヴィクター・フランケンシュタインが雷の激しい雨の降りしきる夜に、死体の継ぎ合わされた怪物に命を吹き込むシーンで、入る。
 観客としては「そうだよ。とにかく知っているよ、その話。

でもさ、なんかびっくりするような仕掛け、用意してくれてるんだよね」
 と、当然思う。
 しかし、その当然がどうもなかったのだ。

 

 映像も衣装もハイクオリティのため、世界には疑いなく入っていける。

そして、狂気のヴィクターと、天才医師でありつつサーカスでせむし男と

して奴隷並みの扱いを受けている男、ラドクリフ君。
 その二人が出会い、ヴィクターの相方となったイゴールラドクリフ君)が

語り手となるとき、ヴィクターの狂気がより浮き彫りになるだろう、

もうこれはおもしろくなるしかない!!!

と、思うのだが、、なんとも驚きがあるどころか、

疑問符ばかりが並び立つラストとなってしまった。


 こういう映画をみるとき、思うのはもはやフランケンシュタインという作品はジャンルとなってしまい、舞台とメインの行動だけ「合っていれば」なにをやってもいいという時代が来てしまったのかな、ということだ。


 映画としては映像がしっかりしていれば、観れてしまうものというのもある。
 でも、よい映画の余韻というのは、やっぱり人の生き方や感情を描ききっているものではないのかな、と思うのだ。
 二次創作並に設定やストーリーが変わっていてもいいけれど、キャラの動機がちぐはぐなのは、一番避けなきゃいけないでしょ、プロならさ、と思うわけで、がっかりしつつ映像美を堪能したわけです。。

 で、ほかの映画になくおもしろいな、

と思った点はヴィクターが怪物を作るにあたって

協賛してくれた人物が企業家だったこと。
 死者から生者を生産しようとうするのは、個別対応を越えて量産するという発想で、伊藤計画と円城塔の「死者の帝国」に似ている。
 いまの時代から言って、コストのかかる人間よりも死者を労働力にしよう、という思想がかいま見えるこの映画の発想はうきうきするものがあった。
 運用できたら、けっこう便利だと思うんだよね。
 資産によると、今世紀中に地球は破綻しないまでも、豊かさとは無縁になるらしいので。
 とまあ、こういうことを平気で考えるのが人間の業じゃないでしょうか。