8月21日(日)感想 戦場から生きのびて(08)   イシメール・ベア

 1993年、アフリカ西部シエラレオネで内線が勃発し、当時12歳だった著者が少年兵となり、3年後にユニセフに保護され、アメリカ人夫妻の養子となり、現在に至るまでの自叙伝。

 半年前に、96年に起きたルワンダ虐殺事件について何本か映画と著作を読んだ中で、子供たちが内戦を経て、どれほど悲惨な末路をたどることになるか、というフレーズがあった。(→12月24日(日)映画レビュー ルワンダの涙(05) - 地下階層言語化プロジェクト


 一昨日、図書館でこの本をみたとき、その言葉が浮かんできて、つい手にとってしまった本。
 実はぱら読みで、内容はそれほど頭に入っていない。

著者が私と2歳しか違わないこと、私がこの本で知りたかったことは実は内戦状態の細部ではなくて、なぜ虐殺が起きるのかという例のあの問題だったということが改めて認識された本。

 毎年8月になると意識的に気持ちが戦争のことに向かうのだが、今年は創作に集中していて、あまり勉強ができなかった。


 それでも、稲川さんのホラーで「カンボジアのホテルの怪談」を聞いていると、

結局ポルポト政権の200万人虐殺の部分が幽霊よりも気になりはじめ、

今読んでいるのも結局ナチスの話だったりする

(こちらは有名な「HHhH」いまさら読んでるあたり、笑)


 というわけで、時間差で戦争、虐殺の問題に心が向かうようにできているらしい。


 で、虐殺について。


 あまり、このことについて勉強していないので、

すでにどこかで誰かが言っているかもしれないけれど、

やっぱり、その国の歴史の浅さと、

他国の植民地支配が関係しているんじゃないかと思う。


 ルワンダシエラレオネに関しては、どちらも19世紀から西欧の支配を受けており、そのあと居座った政権が民主主義ではなく、独裁政権

それで反発勢力がクーデター。

国を二分する。


 民主主義が最善ではないけれど、つまり、民主主義という自分のことは自分らで決めようよ、せめて、という感覚だ。


 だから国民のレベルがある程度以上ではない成立しないもので、ある程度その国の風土も歴史も積み重ねが必要なことは致し方ない。


 日本はこの意味で明治後にむりやり民主主義的な国家制度を作ってはみたけれど、

やっぱり日本風の民主主義であって、西欧の生粋のあれとは違うわけだ。


 それでも、日本はなんとかデモクラシーの形態を手にいれ、それに日本風になじんできたわけでそれはそれで尊いものだと思う。


 それができるだけでの、素地や底力がやっぱり日本にはあったんだな、と思うけれど、一方で牙をむき出した西欧列強来るタイミングがずれていれば、アフリカのように問答無用で割譲ということになる。


 で、アフリカは事実そのようになってしまった。


 そもそもアフリカと簡単に言ってしまうけれど、あの巨大な大陸はそれぞれにいったいどんな風土や文化があるのだろうか、と考えるといまいちつかめない。


 そもそもいわゆる世界史にあまり顔を出さないけれど、アフリカはずっとそこにあり、人類も住んでいたわけで、しかしよくわからない。


 イメージとしてあるのは、進歩の形態もその国の中で完結していたやり方も、

大航海時代産業革命とともに、崩壊する運命にあり、それに飲み込まれてしまったアフリカは、時空も価値観も越えた、一見高度に見える種族に支配され、その時代が200年も続かないうちに、自立をせざるを得なくなった。


 そうなったとき、まあめちゃくちゃだったろうな、ということだ。


 自分たちの価値観や文化や文明レベルとは全く違う、つまり肌なじみ感が極端に薄い人々に支配され、その間、その土地に住む人々の平均的な国家観はどの程度西欧化されたのか。


 結局、支配されるままでは学べないこともあるわけで、

いざ第二次世界大戦後、国の体裁をとったところで、

国民の総意が事実上存在しない、

もしくはしても消されるような脆弱な「国」で、クーデターもすきを見ておこる。


 おきてしまえば、国は二分され、昨日までの味方が敵になる。


 そこに、文明の利器が加わり、とんでもない数の虐殺になる、

といいたいけれど、ルワンダで虐殺が起きたとき、

その凶器はマチェーテと呼ばれる鉈(なた)だった。


 つまり、銃などなくても、人は大量に人を亡き者にできる。

脳が相手を敵だとみなせば、それをやってしまえるということだ。


 90年代後半になって起きたこうした虐殺はやはり、一定の図式があるとんじゃないだろうか。その図式は国によって細部は異なるかもしれないけれど、大まかな道筋は同じような気がする。


 問題は内戦のあと、国は国として再興できるのか、ということだ。
 民主主義が最善の形態ではないにしろ、その国にあった政体で自由にやっていろという時代はとうにすぎてしまった。そもそも国としてまとまること自体が外部に他国を想定していることになる。


 地球内での境界線がいまのところ、国民国家というフィクションになっているからしかたないのだろうけど。


 こういうことを考えていると、国家間である程度関わらないでいるべきだろう部分と関わらざるを得ない部分がでてくる。


 人間のスペック的に全地球レベルで一つの国家みたいな感覚は難しいと思うけれど、今後文明の利器が超高度に進化すればある程度はいけるのかもしれない。


 それでも、やっぱりそんな時代がきても人間は相変わらず争う生物で、他人のものがほしくなることが多い、動物だと思ったほうがいい気がする。

しょせんは猿で、だから、その欲望をできるかぎり内省できるような方法や制度を考えていったほうが延命になるんじゃないかとそんな結論。