5月29日(日)「空へ ~エベレスト遭難ルポ~」

 

 小学生の頃、両親につれられて山に登って以来、私は登山が嫌いになった。

母はもともと体育会系で、雪渓も登ったことのある山女だったが、父が体を動かすことを仕事プライベートに限らず厭うタイプだっただめ、我が家の登山の歴史は20年以上前に幕を閉じたことになる。
 あまり覚えていないが、両親が言うには頂上に対しての私の興味はほぼ皆無であり、二歳下の妹はあくまでも頂上にこだわったという。
 山登りで覚えているのは、山小屋の徹底的な狭さを不潔さであり、山肌に取り付けられたぼっとん便所の穴から見えた恐ろしいほどの人糞の山と強烈なにおいだった。
 4畳の暗くて狭い山小屋に家族四人が押し込められ、湿った布団で寝た記憶はある。だが、登山時の足を一歩一歩あげて苦痛をこらえた記憶は削除されている。

私は確かに言ったらしい。
「もう登らなくていいよ、帰ろうよ!」
対して、妹は顔を真っ赤にした。
「ぜったい、のぼる!」


夏は登山、冬はスキーが我が家のセオリーだった。
スキーに対しても、楽しいと思えたことがなく、これについては今でも雪山に行くのなら、とにかく温泉で読書をしていたいと思ってしまう。
それが、20代をすぎてどういうわけか山岳小説や山登りマンガに興味を持つようになった。


思うに、山登りと小説創作、そして人生には共通点が多い。
登山と人生の共通点は第一に、始まったら途中で引き返すにも結局は自分の体力を使うことがあげられる。
登山をあきらめたとしても、降りるために足を進めねばならず、それは誰も代わってくれない。
人生も、何かに挫折したとしても自殺でもしないかぎり、つづいていき、どちらにしても生きていかざるを得ないこと。
ゆえに上でも下でも前向きでも後ろ向きでも進むことを結局は選ばざるを得ないということ。
第二の共通点は登山と創作をする人間にある。
彼らは日常生活では満たされない圧倒的で不合理な欲望を抱え、それを不合理な形で満たそうとする。ときにそれは、代償を伴い、生活を破綻させかねないこともあれば、命を支払うこともあるということ。
 少なくとも、私にとって創作とは楽ではないし、徹底的に自分の力を出し切らなければ形にならず、それだけ全力投球したとしても、食べていけるかは定かではない。
 登山もまた、常に死との危険が隣り合わせであり、スポンサーのつく登山家である場合、そのプレッシャーとリスクはアマチュア登山家の数倍にもなるだろうし、アマはアマでリスクを犯して登山する目的はとどのつまり自己満足でしかない。
 それでも、そこにあるから、という理由で登る人間と、書きたいからという理由で書く人間に隔たりはないように思える。
 そして、そういう理由で自分は登山に興味があるのだな、ということに築かされたのが本書だった。


 作者はジョン・クラカワー。
 映画「エベレスト 3D」では、2つの登山グループが遭難するが、その一つに参加していたアウトドア雑誌のライターである。
 クラカワーの名前がでたときに、私は数年前に読んだ「荒野へ(原作邦題」を思い出した。すぐに映画「荒野へ~IN TO THE WILD」の著者と同一人物だとわかった。
 「荒野へ」は、中流階級の青年がそのすべてをなげうち、一人自給自足をするために、アラスカに赴き、今で言えば荒野で「孤独死」をした事実をルポしたものだ。
 サリンジャーライ麦に冒険精神を加え、最後は監獄ではなく荒野で命を落とす青年の現実は、私には若気の至りと片づけてしまう以上に心に突き刺さるものがあると同時に、大きないらだちも起こさせた。
 それが死んだ青年への嫉妬だとわかると、そんな自分に自己嫌悪になった。都会、文化、人工的なレジャー。

その作られた消費文化に嫌気がさし、与えられた豊かさのレールを走ることを拒絶し、ひとりで何かを始める。豊かさの頂点にたったアメリカ文化への反発の一つだろうが、青年のしたことは極端だった。
 その極端さがうらやましくもあり、またその程度のことで解消できると踏んだ青年の浅はかさに説教したくもなった。

その時点で私は「大人」になってしまったのであり、だから彼の若さっぷりに嫉妬した。
 クラカワーは経済的に豊かで将来を約束された青年がなぜ自ら荒野で死を選んだのか、その謎を追ったのが「荒野へ」だった。
 私の二十代半ばまでの、そうしたライ麦感を体現したのが青年であり、言語化したのがクラカワーだった。
 彼の文章は明晰で、かつ情緒的で、私のお気に入りのライターになった。と、同時にこれほど身につまされいらだちと嫉妬を喚起するテーマもなかったため、私は回復期間をもうけるため、あえてクラカワーの本を追わなかった。
 追わなかったにも関わらず、私はまだジョン・クラカワーに再会した。
 彼が追ってきたのか、私が追ってきたのか。
 ともあれ、自分の問題にヒントを与えてくれる人間は師と呼ぶにふさわしい。
 「空へ」もまた、期待を裏切らなかった。
 1996年にエベレストで起きた遭難事故の当事者となったクラカワーは仲間たちの死がいかにして起こったのか、多面的な視点で描いている。
 1990年代に始まったエベレストという「秘境」のガイド付きツアー。平たく言えば6万ドル程度の費用さえ負担し、「基礎的」な体力があれば、ベテランガイドと物資に輸送をするスタッフのサポートによりてぶらでエベレスト登山を可能にするというものだ。
 こうした営業遠征隊により、1990年代半ば、エベレストには登山者が殺到し、渋滞が起こることになった。
 ここに登山が個人に要求するクライマーとしての熟練度は消滅したかに見え、事実クライマーとしての技術、判断能力、責任が、ガイドとスタッフに分散されていった先に、今回の事故の一つの要因がかいまみえると、クラカワーは言う。
 実際、個人の技量がなければ登山は不可能だが、それをプロに委託することによって可能にするという論理は、適度なレジャーならばリスクは少ないのかもしれないが、エベレストではそのリスクはけた違いになる。
 リスクを避けるには、個人の技能の委託をすべきではない、ということになるが、そもそもエベレスト登山をする人間に合理を求めてはならないのも真実だ。
 クラカワーは登山をする人間の圧倒的な意志力、決断力、信念を病的なものであるとする一方(彼もまた登山への欲望を押さえきれない人間)、エベレスト登山にまつわる快楽を超越した苦行に耐える登山家達の意志を尊敬し、崇拝に近い念も抱いている。
 私は、当初登山家や創作者に業のようなものも感じていたし、今もそれは拭いきれない事実だと思う一方、なにかその業をある意味救いととらえることもできたような気がした。
 本書で私がもっとも心を打たれたのもこの部分であり、私はどこかでずっと誰かがこう言ってくれるのを待っていたのかもしれない。
 言ってしまえばエベレスト登山は私にとっては、人間の業のあるいみ善といえるような側面を見いだす一つの例でしかなかったのかもしれない。
 そこにあるから、登る人間をおそらく誰も止められないだろうし、そもそも誰も頼んでいない登山をする人間を止めるのなら、完璧に山を封鎖するしかない。 
 そして、そこに山ではなく、市場があるかぎり、人は自分の能力を外部のサポートで補い、それによってリスクを軽減した気になって山に登り続けるだろう。
 登山において、命のリスクを軽減するかしないかは、結局登る権利と安全策のバランスになり、それは時代の価値観に左右される、また登山テクノロジーの発展にも左右されることだ。
 ただ、クラカワーが言うとおり、ガイドの先導、スタッフの荷物輸送、自分はてぶらで登るだけという「登り方」で本当に頂上を制覇したといえるのか、という疑問はもっともだ。
 登山は本来、個人の技能によるところが大きいものだった。
 それが、分散され、委託された現在、その疑問さえ持たない登山家がいるかもしれない。 
 頂上という結果はもちろん、大事なのだが、どう結果を出したのかというところに疑問がたつ登り方は、いかがなものか。
 クラカワーが疑念に感じたこの一点は勝ちではなく、勝ち方に重点を置いた大事な視点であると思う。
 本書は、解説にもある通り、多方面から遭難事故に切り込んでいる。
顧客、ガイドの経歴、私生活。営業遠征隊をになう会社の性格。かれら競合会社同士の関係。そしてメディアとの関係。登山という個人的な行為が営利と市場が入ったとき、そしてそれが人を拒む巨大な自然という舞台で繰り広げられるとき、そこでなにが起きるのか。
 人間の業と、それでもエベレストという神々の山に魅せられた人間の愚かである意味神にもっとも近い心理に今作では、「荒野へ」で感じたいらだちに対して、私の中で静謐で澄んだ風が吹いたような気がした。