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1月16日(土) フランケンシュタインを想う

 

 ついつい本屋さんで釣られるように購入した「ヒトラーの共犯者(上)」半分くらい読みました。
 結論。「一冊の本の中に答えはない」
 そこには欠けたピースがあるだけで、しかしそのピースは次のピースの在処を導く。
 というような、ミステリで誰かが言いそうな結論に至りました。
 今回この本になにを期待したのかというと、それは著者が冒頭で問題提起しているように「ごく普通の人間」はそれぞれの特殊な条件の下で、どのような犯罪者になるのか。
 人間を非人間的にするものは何か?
 ということでした。
 まあ、言ってみれば虐殺器官で語られなかった虐殺の論理を解明したかったわけですね。


 浅はかです。はっきり言って、浅はかです。


 そんなこと、この70年をかけてホロコーストを調べた学者が心血を注いで解明しようとしたことですし、すでにどこかで誰かが答えを見つけているでしょう。
 その答えをたまたま手にとった一冊の中で見つけようと思うほうが間違いというか。
 ただ、ホロコーストを考えたときに、ナチスは全員が凶器じみた人間だったというおよそリアリティに欠ける言説は、「ない」わけで、そうなったときに、私が一番思ったのはヒトラーその人よりも彼を補佐する側近達にこそ力があったのではないか、と思ったのでこの本に惹かれました。
 ただ、結果、この本ではなかったという感じです。
 この上巻で扱っているの側近はゲッペスル、ゲーリングヒムラー、ヘス、シュペーアデーニッツで、はっきり言って明日の有楽町での宴にも呼びたくない人々ですが、彼らはナチスの側近中の側近です。
 ただですね、彼らの半生をつづったちょっと長いウィキでしかないこれらの文章を読んで感じたのは、彼らはまさにヒトラーの断片でしかない、ということです。
 この本がホロコーストナチス体制の答えの一つのピースでしかないように、側近達もまたそれのピースでしかないのですね。
 つまり、ピースをいくら集めてもそれは死体の寄せ集めでしかなくて、最後のエンジンをかけるのは、強烈な一人の意志でしかなかい。
 言い換えれば何かを成し遂げるのは一人の強烈な魂でしかない、ということ。
 その魂の持ち主こそ、ヒトラーであるのだろう、という憶測にたどり着くしかなかったというか。
 
 読書はそれ自体でも楽しいですし、世の中には目的をもって読書をしたり、本の中に何かを見つけようとして活字を追うなんて愚の骨頂だという人間もいます。
 いいたい奴には言わせておけ、ひまじゃないんだよ。
 と、思いましたが、でもですね、やはりそうして躍起になって答えを求めていると、答えのかかれた本を探すということになってしまうんですね。
 別にそれでもいいと思いますが、そうすると、はっきり言って自分の考えを補強するために論文を引いてくる、論文思考様式で読書をしているということになるんですね。
 もっと胸に手をあてて考えてみると、本を手にとる前から結局自分の中にうっすら答えがあるわけです。
 なので、答えがほしいなら、探すのではなく、作るほうが正しいのかなという結論になるわけです。
 答えは、思考の最終形態で、イコール物語、イコールフィクションです。
 結局、答えは小説を書くこと。
 時代と社会とその中で人を描くことでしか、答えがないんだまたしても誰かに言われたそんな読書なのでした。

 結論。
 側近は、ヒトラーの手足でしかなかった。言い過ぎじゃないと思う。
 側近だけならば、怪物は眠ったままだったはず。