12月19日(土)加害者と被害者

 

 加害者と被害者が見えづらい関係がある。
 もちろん、身体的、精神的被害を被った側が「被害者」なわけだが、本当はことはそう単純ではない。

 

 今も世界のどこかで起きている一方的な虐殺や、この日本でも日常的に行われている親が子に対する育児放棄や虐待。
 私の場合は職務上、アラウンドティーンの子供たちが被害者になる事件に遭遇する。
 まだ十歳にもならない子供たちがたどたどしい言葉遣いで、まるで最後の頼み綱というように電話をかけてくるとき、まずは保護すべき子供たち、という気持ちが先立つ。

 そして、一歩、二歩と一歩その家庭の状況に立ち入るような情報を得ると、さらにその彼らの親の未熟さを憎み嘆く気持ちが強くなる。


 しかし、時間が経つうちに不思議なことがおこる。
 その未成熟な親をなんとかして救えないものか、という背中に疲労が食い込むような命題があらわれてくるからだ。

 

 先日からずっと心に引っかかっていることがある。
 現代思想の「安保法案」特別号で言われていたある一説だ。
 それはほぼ一方的な虐殺が行われているパレスチナガザ地区のことだった。
 パレスチナに対し、イスラエル国家が幾度も容赦ない爆撃を加え、それを国際社会が擁護するようなシステムが成立している。
 現代思想によるとパレスチナは完全なる被害者であり、イスラエルは虐殺を正当化するために様々な手を打ってきたとのことだ。
 まあ、実際そうなのだろうな、と思う一方で、ある思想家が言った言葉がある。


「問題はこれほど荒廃してしまったイスラエルの人々の魂をどう救うかなのです」


 虐殺をしている側のイスラエル人の魂を救う?
 ん?
 と思い、すぐさまメモをとったのが一ヶ月前だろうか。
 意味がわからず、ずっと脳内の継続案件の隅っこに存在感を示し続けるこの問いが、今日、昨日の日常の中でうっすらと理解が進み始めた。

 

 わかりやすい被害者、それも圧倒的な被害を受け続ける無力な被害者、それがイスラエルに虐殺をされているパレスチナ人であり、未成熟、精神錯乱、アル中を煩った親に虐待され、ニグレクトされる子供達だ。
 二者の関係が隣同士、血縁者であるという点において、被害者を加害者から完全に隔離することは難しい。
 かなり無理をして物理的な壁を二者の間に構築したとしても、おそらく心理的、精神的な痛みものはおそらく、きっと高い確率で被害者の中に残留するだろう。
 その感情とはいつかは向き合わなくてはならない。
 それを考えたとき、被害者が救われるためには、加害者が救われなくてはならないということになる。
 もっと言えば、加害者自身は他者を傷つけることで自分自身も傷つけている可能性が高い。加害者がサイコパスなら話は別かもしれないが。

 

 おそらく、現代思想で言われていたことは、そういうことなのではないかと思った。
 昨日は、職場内(教育委員会)に警察、児童相談所から電話が相次いだ。

 詳しいことは私のセクションではなく、基本的にナイーブな問題なので必要以上に情報共有はされないほど事件性が高かったのだが、なんとかセーフのラインだったようだ。
 例によって、子供が一番の被害者なのだが、子供をそういう立場に追いやった親たちの話を聞くと、私はどうしても彼らをただのロクデナシだとは思えない。
 それはもう、ロクデナシなことは確かなのだ。
 だが、そんなロクデナシなことを自分の子供に対してしてしまう親の心は荒廃しており、やはり原因はどうであれ、やはり救われなければならないのだ。
 おそらく、イスラエル人の魂を救うということは、そういうことなのではないかと思った。

 もちろん、一人の人間の生き方が荒廃しているのと国家が荒廃しているのでは、そのスケールが違うに決まっている。

 被害もまたしかりだ。
 だが、その二つの出来事は同じ地球の上で起こっており、同じ時に起こっている。
 イスラエルが国際社会を巻き込んで国家的虐殺をしている一方で、一人の親が自分自身とその子供を傷つけている。
 まったく違う次元のことだが、私が思うに、何かを傷つけるということはきっと魂にとってよくないことなのだろう。
 それが、善とか悪とかそういう次元を越えて、生きていくという意味において、生存というただそれだけの意味において、なにかまっすぐではないようなそんな気がしているのだ。