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12月9日(水)近所の人がテロリスト

 となりのデスクでパソコンの画面を見ていた後輩がため息をついた。
「就学援助の数、また増えたな」
 後輩君はそう言って、憂鬱そうに頬杖をついた。
 就学援助とはある一定の所得水準を下回る児童・生徒の保護者に対して学用品等の経費を行政が負担する制度だ。
 義務教育のおいて、教育格差が出ないように最低限のラインを確保する意味あいがある。
 私は今年の4月に教育委員会に出向になるまで、この制度の存在さえ知らなかった。
 結婚もせず子供もいなのだから当たり前だが、何よりこの制度の意味であるランドセル一つまともに買うことができない世帯が少なくない数いることへが驚きだった。
 
 むろんそうした生活保護は経済水準の底に近いほうであるが、それでもそこに至らないまでもかなり厳しい水準の家庭は多く、その世帯をこの制度は支援する。
 そして、その数が日々増加していると後輩君は言っているのだった。

 

 つい最近読んだ、大学生の貧困化という記事が脳裏に浮かんだ。
 2000年に30パーセント未満だった大学生の奨学金取得者が2012年には52パーセントになったと報道されていた。
 つまり、52パーセントという数字はいまや学生の過半数が奨学金に頼らないと大学にいけないということを意味している。
 さらにその事実からブラックバイトや全身就活という言葉も生み出された、と

その記事は展開するのだが、この話はまた今度。


  話をもとに戻します。

 「その数ってさ、やっぱり年々多くなってるの?」
 私が聞くと、後輩君はパソコンの数字を見たままうなづいた。
「ですね。予想されたことではありますけど」
 後輩君はこの部署にきて3年目である。
 過年度のデータ推移からその事実は一目瞭然だ。

 日本は、本当にもはや「豊か」ではない。
 そう、日々実感する。
 いや、東京のある場所に行けば、まだまだ日本は豊かに「見える」ような気がする。
 この季節にどこでも目に入るイルミネーションや、ウィンドウに飾られたクリスマスの赤や緑のデコレーション。

 だが、それはなんとなくCGじみた嘘くさいものに見える。


 なぜだろう。


 なんというか、この国全体を覆うじわじわとした貧困のディティールがどこにいても目に付き、それと対照的なきらきらした風景をみたとしてもどこかで上っ面のようにしか思えないからだ。

 おそらく、豊かななところは豊かなのだろう。
 だが、格差と言われるようにかつて明治、大正と、昭和と日本の人口のほとんどが貧困だった時代から、戦後高度経済成長を経て一億総中流と言われ、日本全体がなんとなく豊かになってからの格差は昔、みなが貧乏だった時代とは明らかに違うものだ。

 それは中流が下流に流れていくと言われているように、豊かだった世代が少しずつ切り崩されて貧困に落ちていく中で、以前として豊かな隣人や層を横目でみることにほかならない。
 すぐ隣ではないかもしれないが、少し先で豊かな生活をしている人がおり、同じように彼ら豊かな生活者のすぐ隣に毎日をかつかつに生きている人がいる。

 みながみな中流だった時代から、ミドルクラスが切り崩されていく感覚。
 私が思うのは、そういう中で社会の連帯を保つことが非常に難しくなるのではないのか、ということだ。


 すぐ隣で、豊かな生活をしているごく一部の人間がいる中で、その日食べるのも困る生活をしているという実態。
 いつの世も自分の層(レイヤー)とは違う人々の生活は見えにくいものだが、知ろうとすればさまざまメディアがそれを報道している。
 私がいる行政機関は生活保護公営住宅など所得水準の低い人たちをサポートするサービスがあるが故にダイレクトにそのレイヤーの人々の内情を見ざるを得ない。

 貧困化というキーワードで検索をしてみると、ずいぶん前に起こった新幹線で焼身自殺をした70代の男性の記事が見つかった。
 この男性の焼身自殺に伴い、一人の女性が逃げ遅れて亡くなり、けが人も大勢でた。 

 まさか新幹線で自殺をするとは誰も思わないだろう。

 しかも、その男性が生活保護を受けている70代の男性であったことが衝撃的だった。
 70代まで生きてそんな死に方しかできなかったのか、というくらい悲惨な最期だ。
 
 この国はかつて経済的に豊かであり、今はすでに豊かではない。
 その豊かだった世代、豊かな時代を知っている人々が滝のように下流に流れていく。

 実際、子供が貧困ということは、当たり前だが親の世代が貧しいということだ。
 この国が経済的に復興することは、私は難しいと思う。
 つまりみながお金持ちになれるような時代はもう来ないと思うのだ。
 非正規社員が過半数を越えるような時代では、それは無理だ。
 
 だったら、どうやって生きていけばいいのだろう。
 それを考えたときに、単純だが助けあって生きていくというしかないのではないか、ということだ。

 昔は隣近所から味噌や醤油を借りた。
 私の子供時代もそういうことをした。
 味噌や醤油を借りろという、そういうことがいいたのではもちろんなくて、困ったときに味噌ぐらい気軽に借りられるように日頃から助け合いができる社会になっていないとだめなんじゃないのか、ということだ。

 豊かになり、すべてを私有できた時代から私たちはそれほど地域や他人との助け合いをしなくなった。
 そんなめんどうなことをしなくても、お金でそのほとんどが買えたからだ。
 でも、これからはそうはいかなくなる。

 だから他者との助けあいが必要なのだ。
 だが、この国ではその横の連帯が格差によって分断されている。
 いや、そうではなくて経済的な豊かさを優先した戦後から格差よりも前に個人主義が広まっていたのかもしれない。
 
 格差が恐いのは、自分だけが幸せではいられないということだ。


 隣人、近所、となりの人、他人。


 そういう人と一緒に幸せの道を模索しなければ、新幹線に乗っている隣の人が焼身自殺をして自分を巻き込むかもしれないのだ。
 
 ただ、それをどうやったら止められるのかほんとうにわからない。
 今私ができるのは、そういう日本を知ること、そしてどこにこの国が向かうのか政治の行方を見極めることしかない、と思う。

 一人一人ができることは小さいけれど、ほんとうに自分がテロリストにならないためにも考えなければならないと思うのだ。

 言ってみれば利他精神の話だ。
 昔の人はこれをひとことでまとめた。

 情けは人のためならず。

 あなたの問題は私の問題で。
 私の問題はあなたの問題。
 めんどうだけれど、問題を共有しあえたら、少しは気が楽になる。
 なんて、言ってみる。

 

 

 いいえ、そういう話ではないんです。

 これは私が誰かを無視したら、その誰かがあなたに報復する社会にこの国はなりつつあるということを言っているのです。

 それがあなたの近所のひとだと、どうして言えないの?
 そういう恐いはなし。