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12月7日(月)砕けろ、役人とはいえ。。

 

 3年前は、リスク管理など考えたこともなかった。


 むしろ、リスクよりも門戸を広げることで利益を、よりよいサービスの拡張をすることを考えていた。
 新人のときはなにかを提案するごとに(それは今から思えば無謀なアイディアがほとんどだった)ほとんどが、上司や先輩の「リスク管理」基準によってやんわりと軌道修正された。
 ときには、あからさまに否定されたこともある。
 それでも当時は悔しいと思うことは少なかった。
 この組織は新しいことを望んでいないのだと、変に柔軟に思った。
 あとからそれが大間違いだと気がついたが、今ではその革新と保守の傾き加減は部署による(単純にいうと事業系か管理系かで)という認識を得た。


 就職しはじめたころは、私は公務員という仕事をなめきっていたし、本気で取り組んでないことから楽しむことさえできなかった。
 やれと言われたことをやるだけで、満足していたし、同時に満足していなかった。そこに自分らしくいられる場所はないと観念していた。
 しかし異動を繰り返し、様々な職場の仲間と出会ううちに、本当に少しずつだが仕事に対して本気で取り組めるようになってきた。
 住民に対して、誇りを持って真摯に職務に取り組んでいる先輩や上司を見て、圧倒されたということがある。
 その圧倒は自分が適当にやっていればやっているほど、見えてくるものでもあり、同時に自分が本気で取り組まないうちにはまったく目に見えないし感じられないものでもある。
 言ってみれば、そこでそれは起きているが、同じ階層にいながらそこには偏見と感受性というフィルターがかかり、そこで起きていることに気がつかないということだ。
 そのフィルターが歳月と経験とともにはずれてきたころから、就職初期に上司が言っていた「それをやって、めんどうなことにならないのか?」
 の意味がわかってきた。
 
 つまり、上司は意味もなく新しいことを否定していたわけではなかったのだ。
 何かこれまでにない新しいことをするときには、必ずその側面の裏側にリスクが伴う。

 利益はリスクに見合うのか?
 話しはそういう単純なことだった。
 問題はその物事に対するスタンスだ。
 保守よりであるか、革新よりであるか。
 それは職場内雰囲気に寄るところが、今の私の職場では大きい。
 
 とくに許認可を扱う部分では、保守的路線を、イベント企画等では革新路線を期待される。
 ただ、その触れ幅は部署だけではなく、立場も関わってくる。

 簡単にいいか悪いかで判断はできない。

 今までは新しいことをしようとだだをこねる役回りは私だった。
 だが、今は同じ職場の役人ではない上司に対しリスク管理をする役回りになった。
 詳しい話しは省くが私のいる教育委員会は学校管理に関する様々の許認可権を有する。

 事務局の組織は行政職である公務員と教員である公務員が分担する。

 学校経営に関して実務を知っている教師はできるだけその許認可の範囲を広げようとする。

 そして、私たち役人は子供の権利を広げようと善意から発する教師たちの法律の「自由な読み方」につっこみをいれる。
 ほんの数年前までは、自分が「堅いこと言うなよ」だっただけに、この教師たちの善意からの暴走は痛いほどよくわかるだけに、

「ないです。

 その読みはまずいです。

 あとで炎上します」

と、はっきり言う自分が非常におもしろくなく、憂鬱でさえある。
気持ちの面で何事も規制をすることが嫌いということもある。

 しかし、条例の幅広い運用やそのときの利益だけを考えていると、将来的に損をし、不平等感を被るのは未来の住民とその子供たちなのだ。( あと、正直に言えば私たち役人の逃げ場がなくなる)


 だから慈愛あふれる教師たちの意見をあらゆる角度から検証し、(それはたいがいポーズになりがちで、だめなものはだめなことが多い)最後には「NO」を言うときの、自分のヒーローとは真逆の頭の堅い役人感がどうしても嫌だ。
 だが、やっぱりそうすることがいまのところ正義、妥当な正義。
 というところに落ち着くとき、自分は大人になってしまったのだな、という憂いとともに、ほんの少しだけ未来に対する負債が減ったと思うのだった。
 ほんと、現場の教師もがんばっているが、役人もそれはそれでがんばっていると思う。
 
 今日も一つ、許認可できない案件を検討した。


 「だめっすね、やっぱだめっすね」
 さんざん法律の抜け道を探したあとに、危ない橋がわたれないことがわかったときに、先生はそれでも悲しそうな顔でまだ考えていた。
 「先生、無理なんだって。悩むなよ。悩むなって」
 そう言って、25歳も上の教師の肩をたたきたくなったが、ぎりぎりまで一人一人の子供の将来を考えて悩み続ける先生の姿を見て、うちの学校の子供たちは幸せだな、とまったり思うのだった。
 と、同時にその尊い先生の姿を拝める今の職場にまじで合唱。

 結局役人がなにもしないように見えるのは、誰に対しても平等であることの言い訳なののかもしれない。