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12月5日(土)効率・目標設定・暑苦しい奴

 

高い山の裾野は広い。意識は広大な無意識の氷山の一角である。
急がば回れなどなど。
これらが座右の書になりかねない人間は、博覧強記をめざしつつトリビアで終わる可能性が十分ある輩ではないだろうか。

私である。


目標にまっすぐ向かうことができないというか、好奇心が分散しているというか。ジャングルで迷い込むというか。
目的と手段をいつのまにか逆転させるというか。

このスタンスは時間とエネルギーがかかるわりに、効果や目標が表にでない。
そう思いつつも、のんびりかまえてきたのは性格と恵まれた自由があるように思われたからだ。
実際はさほど自由ではないから、ほんとうにしたいことが少しずつできなくなってきているのを感じる。

とはいえ長年やっているせいか、仕事も創作も質やテクニックで勝負できるようになってきており、要領をつかむうまさだけは身についた。
しかし、要領というのはおもしろくないし。完全に広がりがない。
よけいなことや迂回から大事なものが見える。
自分の行動のいいわけをそんな風にしてきたけれど、いい加減急がないとなという気持ちになっている。
要領や手段や方法の効率化を仕事と私生活のどちらでも実践しなければという気持ちになっている。
人生が忙しくなってきたのだ。

 

富士山に無意識で上った人はいないと言う。
つまり、目的がなければそんな大変なこと、達成できないことだというのだ。

だから目的を明確にしろ、ビジョンを持てと世間は言う。
だけど、たまたま歩いていたら、富士山に上っていたというのが一番かっこいいし、逆に自然なんじゃないかと思う。
いや、不自然なんだけど、自分の道を歩いてたら、なんか富士山だったみたいよ、というのがすごくいいと思うわけだ。

だって、目的を持って富士山を上るのって大変だし、つまらなくないかなということ。仕事だったら、そうなるのも仕方ないけど、仕事で富士山上っている人と自分の内側から沸いてくる情熱をぶつけてたら、あ、なんかのぼっちゃってて、、っていうのが広がりがあって楽しいと思う。

そういう人がのぼった富士山はもう富士山じゃないというか。

彼、彼女ののぼってきた富士山は景色も登り方も超オリジナルというか、作品というか。

要は時間も迷い道も多くて、結果はでなくて、ジリ貧になる可能性はあるのだけれど、私は自分のやり方がこうでしかなかったのではないかと改めて思っているわけだ。
と、同時に無駄は無駄だとわかったというかね。


また、収穫逓減の法則。
同じ土で同じ作物を作っていると、収穫率が落ちていくという法則。

あるやり方はある段階を境にして、効率が悪くなる。
私は、いまそういう時期にさしかかっていて、広げていた視野を狭めて深くしていく課程。広く速読していたものからいくつかの要素を精選し、深く潜ること。狭めるのだから、いわゆる選択と集中というわけで、リスクが伴う。
だから、何を目的としているのか、ビジョンをきちんと持っていないと八歩ふさがり、四面楚歌になる。
自分の選択と価値観の先に何を求めるか、そこをきちんとしないともう進んではいけない。
そういうことが暑苦しいと思っていたけれど、人に言わず自分にこっそりと課すのならば、いいよね。
というわけで、暑苦しいビジネス用語のオンパレな一人ミーティングが始まっている。 
来年の目標も今のところ順調につくれている。
今回までの章はまさにいらぬ序章。
つぎからが、つれづれ無意識をひっぱりだすお話のはじまりだ。