4月1日(土)職場の異常は中堅にとってBGM,新人にとっては事件

 

 昨夜は先輩の送別会で、係りの中だけの仲良しメンバーだけでバーに集まった。

 普段、職場のメンバーと飲むとなれば、20人ぐらいであるし、かといってグループ飲みをするほど仲がいい上司先輩がいないため、飲み会というといつも二人か三人飲みだ。

 昨日は、珍しいことに

 

昨年入った新人職員と、25年つとめた上司、先輩、そして6年、9年目の私の6人飲みだった。

 

 

 

 管理職抜きの若手だけで集まり、しかも私ともう1人の職員が6年目なので、組織のあれやこれがみえてきたり、もう体制批判のわりに、どうしていいかその処理方法が見えない、見えていても力学に手が出せないという年代で、飲んでいると基本いらいらしてくる。

 そんなときに、昨年入庁した、新人の26歳の後輩が、突如としてうちの課長(来年定年の愛されキャラ)のものまねをしだした。

 これが大受けだ。

 まさに内輪ネタでしかないのだが、うちの課長のシラフでも常に酔っぱらったようなクダをまくような、くどい展開のしゃべりを見事に演じきっていて、大笑いした。

 飲み会で場がしらけると、ふいに彼女のものまねを思い出して、思い出し笑いをして「気持ち悪!」と、言われたが、それほどこの課長のものまねはウケた。

 

 一般的に言ってものまねは、似ているだけでおもしろいのだが、そもそも、ものまねができる「特徴がその人にあった」という発見に感心させられる。

 その「似ている」と「あるある」が交差して、ウケになるのだが、彼女の課長ネタを見て思ったのは、どうしてこれほど特徴的なしゃべり方をしている課長をこれまで誰も「まね」しなかったのか、ということだ。

 これは、あきらかに新人と職場に慣れきった私のような中堅の目の付け所の違いだと思われる。

 課長のクドいしゃべりかたは、日々業務がマッハで進む事務所においては、私の中では聞き飽きたBGM以下になっており、実際、課長とはなすときも、「課長、まさかよっぱらてないでしょうね」とくどく、切れ味の悪い質問をされるたびに、メンツを傷つけないぎりぎりの先でつっこみをしておくか、ぐらいになっており、その傍目に異常な「しゃべり方」に知らぬ間になじんでいた。

 私の場合ほぼ、仕事の忙しさに忙殺される勢いでこの異常を放置しているわけだが、新人にとっては仕事の忙しさは表面的なもので、実際、どの程度の労力を払わなければならないのか理解している場合の「忙しさ」と、わからないけど、雰囲気的に「忙しい気がする」は、心理的に天と地ほどある。

 私のような中堅にとっては、業務過多の前に課長のしゃべりは相殺されるが、新人は逆にその課長のしゃべりの異常が目につく。目について仕方がない。

 これは、発見だった。

 私のような中堅には、知らぬ間に職場の異常さが当然になり、それが背景になってしまうということだ。

 これは、かなりおそろしいことだ。

 

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(↑ ザックス弟のボウを育てるの図 8年前、私が新人の頃の写真

   私もたくさんの先輩方にそだてられて、今うざい姉御になりました。。。)

 

 このケースの場合は、ただのお笑い話だが、新人の視点というのは組織の中では得難いものだと思わされた。

 課長のしゃべり方なんていうものは、笑いの種で終わるが、そのほかうちの組織でまかり通っている異常さがおそらく気がつかないだけで山ほどあるに違いない。

 これからは、新人の意見にもっと耳をかたむけて、笑いだけにかぎらず、貴重な意見を引き出すキーとして彼らを育てていかなければなあ、と思った次第だ。

4月1日(土)年をとる人間、とらないヒーロー:必殺仕置人(76)沖雅也

 

 

 めったに映画にもドラマにもはまらない私が、ここのところ熱に浮かされたようにドラマを見ている。

 しかも古い。

必殺仕置人」(76)。

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時代劇の中でもシリーズ化されたヒット作品で、恨みをもつ人々の仇討ちを「仕置き」として金で請け負う暗殺者が主人公。

 毎回、お上に隠れてこっそりと仕置きをするというストーリーだ。

 これがもう、今日あるような時代劇とは違って、ストーリーが適度に複雑で見応えがある。

 そしてなにより、俳優がすっごい。

 

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(仕置人たち 左から念仏の鉄:山崎務 棺桶の錠:沖雅也 同心・中村主水藤田まこと )

 

 昔の俳優ってほんとすごい。

 すごみがあるというか、演技がみんなうまくて引き込まれる。

 必殺仕置人では、主演は山崎努演じる、「念仏の鉄」なのだが、やばい!としか言いようのない色気を放っており、あまりのかっこよさに一瞬誰だかわからなかった。

 人間年をとると当然のことだが、恐ろしくもある。

 山崎勉は、私がリアルタイムでみたときは、すでに「おじいさん俳優」だった。

 しかし、今作では、山崎努は油の乗り切った超絶色気のある「悪人」坊主を演じており、まじで「抱かれたい」と思わせる主人公が絶品だ。

 

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(↑ 若すぎるアクに強い山崎努 かっこええ)

 比較して、藤田まことの演じる奉行所の同心中村主水は、若いときから老けてみえるために、このドラマでもさほど変化がなかった。

 それでも若いので、私が小学生の頃見ていた「はぐれ刑事」の穏やかでひょうひょうとした雰囲気よりも、いくらか山っ気のある若々しい荒々しさがあり、新鮮だ。

 加えて、毎回悪人のゲストが出てくるのだが、ときおりあまりのイケメンの登場に、誰かと思えば中尾彬だったり、前田吟はそのままだったりと、ほっとするなんてこともある。

 

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(↑ いい写真。左:藤田まことの角が取れる前。十分かっこいい。

 右:山崎努、その100倍かっこいい)

 そういうわけで、つい好きになった俳優を画像検索してここのところ、楽しかった。 同じ仕掛人のグループの、紅一点野川由美子は、若い頃は本当に美人でふるいつきたくなるほどキュートであるし、三名目のお披露目の半次役、津坂国章は、若い頃は茶目っ気があるが、おじいさんになってからは、まさに別人であるし、藤田まことにいたっては、ずいぶん前に亡くなっているし、それぞれに年を重ねて、歳月というのは残酷というか、などと思い、自分も確実に年をとっていくのだとしみじみしたり。

 しかし、そんなときたったひとり、山崎努と同じように殺しの主演をはる棺桶の錠役の沖雅也だけ、画像検索しても若いときのみずみずしいきりっとした写真しか出てこなかったのだ。

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(↑ お披露目の半次役:津川国章 おきん役:野川由美子

 この二人は情報収集と陽動を担当し、さらにドラマ中でも、ムードーメーカーで暗い暗殺業に彩りと笑いを添える重要なポジション)

 

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(↑ 棺桶の錠役:沖雅也

 

 その鮮やかな写真の数々にああ、やっぱりかっこええ!と思うと同時に、イヤな予感がした。

 若い頃の写真しかないということは、つまりそういうことだ。 

 調べると、やはり若い時に亡くなっていた。

 それも31歳だった。

 死因は自殺。高層ビルから飛び降りたのだという。

 ああ、切ないと思うと同時に心が痛んだ。

 彼が亡くなったのは、遙か昔のことだが、長生きして、老いさらばえてほしかったと思った。

 沖雅也の演じる映像の中の錠はいつでも正義感に満ちて、悲しみを抱えつつ、悪を許さない血気盛んな若者だった。

 でもそれがいつか年をとり、角が否応なくとれてしまい、おっさんになり、おじいさんになり、それが寂しくもあり、そうあってほしかった。

 しかし、31歳で命を絶った沖雅也はヒーローのまま、二度と年はとらず、フィルムの中に収まったままだ。

 それが、悲しくもあり、切なくもあり、人間を途中で放棄した熱血感でありながら、寂しげな配役の錠にも重なるのだった。

 切なすぎる。

 ヒーローの、冥福を祈るばかりだ。

4月1日(土)精神力より生命力・ていうか健康

 

 私の好きな作家である坂口安吾が言っていたのだが、自殺する人間はやはり体が虚弱らしい。

 安吾が虚弱指名をしているのはあの暗さマックスで有名な文豪、太宰治芥川龍之介だ。

 太宰も芥川も私はあの頃の作家では唯一大好きで、なぜなら彼らがうじうじ自分のことを私小説風にかくことをせず、あくまでもエンタメ的な起承転結のある物語をたくさん書いていたからだ。

 とはいえ、私は太宰と芥川が作家としては好きだが、人間としては近寄りたくもなく、逆に二人の友人であった安吾のほうが人間として好きだった。

 この安吾は作家というより、エッセイスト・批評家として頭が切れすぎて馬鹿になれないところがあり、作家としては、やはりトチ狂っている太宰や芥川には及ばないのだが、その切れ味が私は人間として好きだった。

 いつか自分の子どもだできたら、安吾とつけてもいいくらい好きだ。

 

 さて、話をもとにもどすが、その安吾が「不良少年とキリスト」というエッセイの中で、「身体虚弱が自殺を引き起こす」というようなことを言っており、私は長い間、それが心の中にひっかかっていた。

 私は高校生の時に交通事故でむち打ちにあい、3年前にもまた事故り、後遺症に苦しんでいる。

 外傷がないだけに元気に見えるが、脊椎に軽い損傷を起こしているため、低気圧のたびに頭痛や吐き気やめまいがおこるが、これが直りようがなく、歳月と引き換えに身体の地道な回復を待つしかない。

 この脊椎損傷は最悪、身体付随も起こすのだが、その一歩手前で髄液が気圧の変化により寝込むほど具合が悪化し、頭痛、耳鳴り、身体の痛みを引き起こすこともある。この症状に悩まされていた私の職場の先輩が、つい先日50歳を前にして退職を決意した。

 いつも仕事場にきても、具合が悪く、机に突っ伏していることもあり、私もその三分の一くらいは同じ思いをしているので、本当にかわいそうだった。

 しかし、この先輩がよく「よほど倒れて、自殺してしまいたいと思うけれど、身体が最終的にはそこまで悪くないから、へんにがんばれちゃうんだよね」と言っていた。

 

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(↑ 庭のヒヤシンス ピンクの花弁がかわゆい。

  春に咲き出す庭の花はまさに生命力の象徴です)

 

 これは、その通りで私もとことん具合が悪いことがあり、そうすると死にたくなってウツウツとする。

 しかし、元はといえば、がんばりすぎて身体を壊していることもあり、どこかで生命力がありあまり、その回復を待っている状態のようで、最終的な自決というところには行かない。

 ただ、気持ちが最高に滅入っているのだが、身体が最後の部分で元気なのだ。

 

 何がいいたいかと言うと、私は自分の意志力を全く信じていないということだ。

 身体が元気なうちは、気力があり、気力は精神力ではなく、身体の健康そのものだ。 

 難病をして、意志力だけで生きている人もいるのかもしれないが、私は経験したことがないのでわからない。

 私が思うのは、健康第一ということであり、ウツウツとしても最終的に回復を目指そうとする元気な身体が生命力の源泉であり、意志力なんてものは身体の後付けなのではないかということだ。

 いずれにせよ、頑健な躰に生んでくれた親に感謝しなければならない。

4月1日(土)私の労働生産性の極意 3箇条(アイデアひらめき術)

 

  2月後半から約一ヶ月、有給を使い切りそうな勢いで、週休4日、週勤務2、3日というサイクルが続いたが、ここにきてやっと体調が元にもどった。

 いったい、なんだったのだろう、と思われるほど長い長い風邪ひきだた。

 病を得て、体と向き合い、まるで地獄のふたがあいたように、吹き出した気持ちと向き合い、結局もう少し、楽してみようかな、と思いたった。

 肩の力をぬいて、所詮はこんなものなんだという自分を認めてみる。

 たぶん、それが退屈になってまたがんばるターンがくることになるのだろうが、しばらくは深呼吸して上を求めないことにしようと思う、そんな新年度だ。

 

 そういうわけで、しばらくぶりに春の野原を車で通勤しながら、ふと思ったのは、やっぱり脳がすっきりするためにはよく寝ることだなということだ。

 積んだ仕事を猛スピードでやっつけるには、脳を最大限に使わなくちゃいけないわけで、体調を整えるためにも、ここのところ読み書きは控えていたが、やっぱり10時間ぐらい二日連続で寝ると、脳がものすごく活性化して、逆に創作のアイディアや日々の気づきの思いつきがすごい。

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(↑ 先週の読んだ本 ついに仏教に手をだしました(笑))

 

 よく知的活動する人たちは8時間は寝ろ、と言うが、私はこれに二つ付け足したい。 

 アイディアやひらめきを得るためには、やっぱり地にもぐるぐらい、知識や情報を入れて、もういやになるくらいインプットして、ウツウツとすることが第一段階だと思う。

 そして、そのあと、すべて忘れて、ままよ!と寝てしまう。

 私の場合はだいたいこのへんで体調を崩すのだが、ここをうまく見て見ぬ振りをしてだらだらすごして、10時間ぐらい二日連続で寝る。

 ここが、知識が体になじむ期間だ。

 そして、起きたら、すこし体を動かして、ドライブする。

 ドライブと言っても、通勤なのだが、この移動の感じがひらめきをうながす。

 昔から、トイレと馬の上でアイデアが湧くと言ったもので、トイレは私の場合はお風呂になるが、とにかく自分で車をぼーっと運転するときに、アイデアが湧く。

 もちろん、毎日わくわけではなく、さきほどの気の遠くなるようなインプットと、そのあとの鎮静期間が必要なのだが、このサイクルはどうやら私の中の黄金フローだということがわかった。

 まとめると

 

 ①インプット期間 死ぬほど知識・情報をアウトプットする

 ②鎮静期間    インプットをやめて、通常の生活にもどり、よく寝る。

 ③ひらめき期間  よく寝たら、移動する。家や仕事場から離れる。

          適度に遠く、30分から1時間ぐらいのドライブがいい。

          手元には運転中だろうが、メモ用意。

 

 以上が、私のひらめきフローだ。

 実際、代償の大きな学びだが、世にあふれている様々のライフハック術や労働生産性は、こうした人々の犠牲の上になり立っているのだろう。

 ただし、それを自分流に最適化=カスタマイズするには、実戦(実践)を通して、一通り修羅場をくぐるのは当然というわけだ。

 みなさんも、自分流の効率術を編み出したら教えてほしい。

 まねできるとはかぎらないのだけれど。

 

3月25日(土)スピリチュアルの先には新興宗教・新興宗教の先にはビジネス(5)にゃるほど!教祖よりも、ビジネスでいいんじゃにゃいか!

 (1)はこちら

 つまり、スピリチュアルは、個人の幸せに終始し、個人のお悩み相談からは抜け出せないということだ。

 しかし、スピリチュアルと言えども、江原氏のカウンセリングの背景には救いの体系である宗教が存在している。

 江原氏がスピリチュアル業界で成功しえたのも、やはりこのきちんとした救いの体系を身につけていたからだ。

 しかし、個人から他者への幸せに導くまでにスピリチュアルが拡大されなかった理由は、利他精神はスピ界ではなく宗教界のマーケットだという証拠ではないだろうか。

 つまり、個人の悩みはあくまでも、スピリチュアルだが、そこから幸せを他者に広げるとなると、体系を学びと実践を繰り返すことを売りにしている宗教の範疇になってくるという仮説が成り立つ。

 

 であれば、占い師にできることも、見えてくる。

 それから、占い師が世間(メディアや潜在的ライバルの宗教界)からいるべきだとされるポジションも見えてくる。

 つまり、占い師はあくまでも個人のカウンセラー止まりであり、いくらもうけようとも、顧客に利他精神を持たせようとすれば、それは宗教の開祖ということになる。

 つまり、そちらをめざすのであれば、宗教の開祖になったほうがいいのだ。

 そして、もっと飛躍して、宗教といえども、他者の幸せを満たすことが目的であるならば、それはなにも宗教でなく、エンタメでもいいわけだ。

 なあんだ、そういうことか、と一巡したのがつい昨日のことだ。

 

 まあ、普通の人なら一巡しないのかもしれない。

 しないのかもしれないが、私はどうも宗教も占い師も仕事としては、ちょっとやってみたく、ちょっとかじってみたいと思っているのだ。

 さて、宗教の開祖は無理でも、儲けるということは、書いて字のごとし、人が信じる、と書く。

 自分がつくった物語、文章なりを人が面白いと思いお金支払ってくだされば、それが儲けになる。それは、もう信者をつくることと同じだ。

 にゃるほど~、となにやら皮算用をしている病床なのであった。

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(写真のにゃるほど猫は、太公望という名の通称ボウくん:数年前に家出したきりです)

3月25日(土)スピリチュアルの先には新興宗教・新興宗教の先にはビジネス(4)スピリチュアルもまた食いたらない、どうせなら教祖がいい

 (1)はこちら

 そういうわけで、勉強をするなら、本は原典ということで、いよいよ仏教書などを読むに至っている。

 どうせ頭の中ではかなりポップに意訳されてしまうのだが、それはそれ、自分の中にあらゆる開祖の救いのノウハウ、救いの体系をインストールできれば、誰かにだまされないで、心安らかになれるのではないかと思うのだ。

 実際、そんな知識を入れたところで、どうになるものでもないのだが、こればかりはやってみなければわからない。

 宗教をインストールするなんて、考えただけでもわくわくするのだ。

 

 しかし、あんがいお金儲けにつながるのではという気持ちもなくはない。

私は今でも、「占い師」になれば、と冗談とも本気ともつかないことをよく知り合いからも本業の占い師からはことごとく言われて、なかば本気になって転職しようかと思ったことがある。

 しかし、私は根が小心なので、ただの金儲けで人を操ったらかならず、天罰がくだるというどこから持ってきたのかわからない道徳律を固持している。

 もしやるなら、完全な人助けを目指して占い師をしなければと思っているのだ。そのためには、救いの体系をきっちりと勉強することもフローにはいっており、その一つが仏教だったりする。

 まじでここのところは、修行をして、その仏なり神なり、如来なりを味方につけられれば、後光がさすように、「私には菩薩がついてるから、なんでもいってね」とか平気でいえるような気がするのだ。

 しかし、である。

 占い師って、楽しくなさそうなのだ。

 だって、悩める人間の相談をひとり、いくらでやるわけで、どう考えてもうきうきしないのだ。

 そもそも人助けなのだから、うきうきしないのが当然だが、そこに果たしてやりがいがあるかどうか、どうも心が踊らない。

 よし、ここはすでにその道で成功している人を調べてみようと、思い立って読み始めたのが、スピリチュアル界の普賢菩薩こと、見た目はトトロ、心もトトロの江原啓之氏の著作だ。

 

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 そもそもスピリチュアルってなんだろう、ということなのだが要するに「自分が幸せになる方法・考え方」に宗教カラーをほどこしたものらしい。

 一般の宗教と違うところは、宗教が利他・人々の幸せを願うものであるのに対して、スピリチュアルはあくまで「個人の現世利益」にとどまるものであるらしい。

 江原氏がテレビや雑誌で取り上げられていたピークは2006年ぐらいだったと思うが、このころ江原氏は個人的な面談によるカウンセリング、つまり、個人の幸せ相談から、靖国問題日中関係という社会問題にまで発言の幅を飛躍させたらしい。(出展香山リカ スピリチュアルにハマる人、ハマらないひと)

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 私は個人的にはまったく覚えていないのだが、香山氏が指摘しているとおり、江原氏がそもそも目指しているところは、宗教体言者が目指すように人類平和・利他精神であり、発言が社会的になるのは当然とのことだ。

 だが、当時の日本は内向き思考であり、また江原氏のスピリチュアルワールドは社会問題への発言として取り上げられることなく、無視され続けたらしい。

 ここのいきさつは検証していないので、なんともいえないのだが、今から十年以上の前のころであるから、現在の江原氏の著作等を調べてみれば、そちらの方面の活動がうまくいったかいかないかは一目瞭然だ。

 調べてみると、結果、十年前と江原氏のスタンスは変わらず、社会問題に言及した著作は皆無だったのだ。

 これはやはり、香山氏が指摘したとおりにことが進んでいったように思える。

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3月25日(土)スピリチュアルの先には新興宗教・新興宗教の先にはビジネス(3)こうなったら、自分で空海をインストール

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 死後の世界や神や仏は、証明しようのない話なのだが、私はあったらいいな、という意味で信じている。

 やはり、生きていると、ああ、このままだとあれもこれもできないな、と思うことが多々あり、私はそれほど欲深い性質なのだが、ふと親や祖父母や自分の人生を見渡して、まあ、私の代でできなくても子供ができたら、子供の代でできればいいかな、とか、来世の宿題にしてやってもいいよね、私だって前世からの宿題をしてるんだし、などと根拠はないが、前世・来世という輪廻を持ち出すと心がすっと軽くなるのを感じていた。

 日頃より、こういう考えをしているので、私が仏教やらキリスト教やらイスラム教なりに近づいていくのは時間の問題だ。

 そこで読み始めたのが、真如苑開祖の真乗氏の物語だ。

 この本の内容は真乗クロニクルになっており、1人の人間であった男性が出家し、やがて自らが開祖として立つまでの記録でもある。

 いや、すごい人だ。やはり、開祖というのは無私であり、どこまでも人々を救済するにはどうあるべきかを真剣に考えた人なのだな、というそんじょそこらにはいないカリスマと偉大さを感じさせる記録だった。

 自分の幸せを越えて、他者の幸せ(利他)を思う心を広める、これが宗教の存在意義だ。

 だが、この本はクロニクルである以上、開祖のカリスマと慈悲については語られているが、どうすれば救われるのか、どうすれば日々活力をもって生きられるのかまでは語られていない。ノウハウについては、おそらく「だったら真如苑、カモン」なのだろうが、そうは問屋が卸さないのである。

 この本を読んで思ったのは、やはり、開祖というのは半端ない忍耐力と救済の信念のある人間であり、まさにカリスマが宿っているということだった。

 そして、それが結果として教団の拡大につながっていくのだが、私が切実に求める「救われる。心が平安になる」というノウハウは全く得られなかったのである。

 思ったのは、こうなったら密教を学び直すかということであり、密教仏教もざっと勉強して自分が気に入った教理(フィクション)があったら、それを自分のものにするしかないということだった。

 つまり、宗教を自分にインストールして、困ったとき悩んだときに、瞑想しながら、その宗教の知恵と知識に特化した講師(たとえば、真言宗でいえば、空海とか)を脳内で呼び出して、

「ねえ空海さあ、ちょっと聞いてよー、今日、最悪なことがあって~」と相談すればいいのだと思った。

 

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 もちろん、脳内とは言え、真言宗の教えにのっとったアドバイスをしなければならないということは、私自身が真言宗の教義をインストール(猛勉強とも言う)しなければならない。

 これがけっこう大変な作業で、まずは仏教密教を網羅してから、好きな教義を特化して深く掘り下げていくという感じになる。

 気が遠くなるが、あんがいこれが宗教を勉強する意味では早道なのではないかと思う。

 下手に入信するよりも、猛勉強をして、ちょいちょい、お寺に出入りして、教義でわからないところがあったら、「教えてや」とその筋の人に聞いたほうが、いいのかもしれない。

 そういう感じで、今は空海をおさらいしているのだが、しているうちに、少し咳も治まり、元気になってきたところである。

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