3月17日(金)取り立てのタブー(1):行政の給食費・学校教材費の取り立てについて

 

  

 フローがきっちりしているからと言って、

なんでもやってもいいというわけではない。

 私は事務屋にむいておらず、

基本的には要所を押さえて、あとはざっくりでいいというタイプだ。

 だからたいていのことに目くじらは立てないし、

それがミスではあっても、基本的に人の命や名誉がかかっていないのならば、

「まあ気にすんなよ」と思うタイプの人間だ。

 

 だから、今回のテーマについても本当は

「絶対やっちゃだめだ。それだけはだめだ」と言いたいけれど、

別に内部告発するわけではない。

 それは、かつて自分が犯した過ちであるし、

実際、その過ちはこれからも幾度となく繰り返されるたぐいのものだ。

 しかし、できるだけ少なくしなければならないと思っている。

 なぜならば、この過ちには人の命がかかっているからだ。

 

 

 前にも書いたが、役所で取り立てるお金関係で、もっとも見逃されやすいものに給食費がある。

 それから、学校関係で言えば、学校教材費等の費用がある。

 これらは、徴収に対する法律的なフローが整備されていないので、

地方自治体ごとに取り立てのフローを条例・規則・内規等でつくる必要がある。

 それがないために、ただでさえ異動が多い役所では、

担当者ごとに徴収率のばらつきがあり、基本的に低空飛行だ。

 これを整備しなくてはならないと思っているところだが、

むしろ取り立てフローに遊びを持たせなくてはならないのではと思った。

 

 そもそも、なぜ給食費や学校教材費等の保護者負担費に対する

厳しい取り立てフローが存在しないかというと、

その理由は支払うのが当たり前という倫理的な問題よりも、

給食費を支払えないのはよほど」のこと、

という認識が実は当然のようにあるのかもしれない。

 

 実際、給食費の未納者は、世間で言われている「身勝手な保護者」はほとんどおらず、その日の生活にも困る生活保護レベルの水準であることがほとんどだ。

実際、そういう保護者に対して、就学援助制度という制度がある。

 給食費や学用品、宿泊学習旅費等を負担するこの制度に認定されている児童生徒は、全体のうちの町で2・5%にあたる。

 この世帯のほとんどが所得100万円~200万円の母子家庭だ。

 問題は、そういう家だからこそ、

 取り立てのフローがきっちりできてしまえば、

彼らを追い立てることになるということだ。

 

 取り立てのフローを整備することは、取り立て側である行政にとっては自分を守る盾のようなものだ。

 しかし、この盾を使って取り立てを100%にすることは

本質的ではないのではないかと、思ったのだ。

 

つづく:

hagananae.hatenablog.com

3月17日(金)不意うちから学ぶ (映画:闇金ウシジマ君・ザ・ファイナル)

 6年続いてきたウシジマ君シリーズがついに、去年、完結をした。

 その完結版の映画、ついつい見てしまった。

 見てしまったが、まさかこの後に及んでヤンキー抗争ものだは思わなかった。

 映画『闇金ウシジマ君・ザファイナル』はまじで、あの泣く子も黙る、日本が世界に誇るダサッせえ、ヤンキー抗争映画以外のなにもでもない。

 くどいようだが、繰り返す。

 

 ヤクザでもマフィアでもなく、ヤンキー映画である。

 

 このシリーズはもともと、ヒサン(一日で3割)トゴ(十日で五割)という金利で、金貸し業を営む丑島馨率いるカウカウ・ファイナンス闇金取り立てを描くキレキレのマンガが原作だ。

 私がドラマにはまった理由は私が仕事で税金取り立てをしたことがあり、金をツンだ人々の生活と素行に『あるある』を感じたことと、ウシジマ君を演じる山田孝之の演技が内容以上にキレキレだったからだ。

 そういうわけで、このシリーズにはまり、やがてまさかのヤンキー抗争ものを見てしまうという結末を迎えたわけた。

 

 何度も言うが、ダサい展開だ。

 

 とはいえ、私はこのドラマが大好きなのだ。

 大好きだけでなく、思いがけず見終わったあとにああ、これが私がやりたかったことだ!と確信した。

 なのでこの作品には実はものすごく感謝している。

 私がやりたかったこと。

 それはもちろん、闇金業ではない。

 金の取り立ては役人になってからずっとやっている。

 そうではなく、私はこのドラマの構成、つまり連作短編形式の小説を書きたいのだ。

いわゆる、一話から複数話簡潔で、次々に事件を解決していく、ドラマ形式、もしくはマンガに似た構成だ。

 具体的には、謎の多い魅力的な主人公に据えて、その主人公を一話、もしくは複数話ごとに事件に当たらせる。

 なんのことはない、いわゆる刑事もののドラマのシリーズのような感じだ。

 ずっとずっと自分がどういう物語を書いていきたいのか心の中に描いていたが、このドラマというか、マンガ形式の小説スタイルに必要なもの、たとえばネタとか、テーマとかそういうものがこのウシジマ君を機軸として見えてきたのだ。

 

 これは本当に大きかった。

 

 だから、である。

 このとことん避けて通りたかったヤンキーの抗争を眉間にしわをよせながら、「ダッセエな」とぼやきつつ、ただただ2時間を無駄にしたわけではないと、言いたい。

 

 ああ、自分も連作短編をやってみたい。

 魅力的な主人公とそれをとりまく、やばい仲間とやばい事件をやってみたい。

 やってやる。そう思わせてくれた作品、それがウシジマくんなのだ。

 

 ヤンキー映画万歳。

 このインスピレーションをくれたウシジマ君制作委員会と原作者に感謝感謝である。

3月13日(月)モテる男の二つの恋 :第5回 恋はよいもの、はかないもの

 第5回 恋はよいもの、はかないもの

 

 モテる男の二つの恋

 小説:舞台吉原御免状(劇団新感線)

 

 フィクションのモテ男は、だいたい本妻と愛人を持っている。

 そうでないとモテ男ではない、のではなく、男というもの、本質的に二人の女を好きになるようにできているのではないだろうか。

吉原御免状』は原作が隆慶一郎、劇団新感線が演劇化した吉原を舞台にした伝奇アクションだ。

 主人公は宮本武蔵の直弟子という剣豪で、やがて吉原で二人の女と出会う。一人は、仙台高尾の名で有名な雅で、情の深い美貌の花魁であり、もう一人は丹前勝山という湯女上がりの外八文字、勝山髷を吉原に流行させた小股のきれあがった義侠心のあるいい女である。

 勝山は主人公と敵対する柳生の女刺客だが、この敵対関係がまた恋を燃やす一因になる。

 そんなわけで、モテ男の主人公は、吉原でツートップと関係を持つ。

 一人は妻のように情の厚い女であり、もう一人は敵対しながらも孤独を抱え主人公のために命をちらして戦う同士のような女だ。

 この二人の女に同時に恋をされて、また恋を返し、主人公を見てるこちらとしてはは、おいどっちかにせーよ、といいたくなるが、それは私が女だからだろう。

 男が主人公の物語では古今東西問わず、二股をかけるのはモテ男の条件にさえなっているが、モテ男にかぎらず、現実の世界でも男は浮気をする。

 だいたい見ているとしっかりした奥さんを持っている男ほど、頭が弱い、どこか頼りないような女を好きになる。

 どうして、あんないい奥さんがいるのにと不思議に思うが、これは全然不思議ではない。

 男はしっかり者の女房を持つと、自分がしっかりできなくなり、誰かを守ってやりたくなる生き物なのだ。

 つまり、父性を発揮する相手が欲しくなる。

 この奥さんしっかり、愛人微妙なパターンがあまりに周囲に多く、私は男がいい女を二種類にわけていることに気がついた。

 つまり、一つは同士・仲間タイプ。もう一つは、幼児・妹・子供タイプだ。

 私は社会人として、外で戦う男の顔と、自分の前で素の顔という二つの顔をもつ男しか好きになれないし、一つの面しか持たない男など魅力がないし、戦っている男だからこそ、魅力がある。

 しかし、これはけっこうレベルが高くて、なかなかこういう男とは出会わない。

 そういうわけで、男が二人の女を好きになるというのは、わからなくもないのだが、男が描くロマンには、鼻持ちならないところがある。

 それはやはり、自分が一番でないと気がすまない私のプライドの高さに由来しているのかもしれない。

 だから、浮気をする男はやっぱりいやなのだ。

 まさに、独占欲の強い浮気されそうなタイプの女ではないか。

 私がこんな女を恋人に持つ男だったら、絶対こっそり浮気をするに違いない。

3月12日(日)働く女性はライトホストに恋をする:YOUTUBE 耳レイプの殿堂『ジェルボイス』

3月12日(日)恋愛コラム 恋はよいもの、はかないもの

 

第4回:働く女性はライトホストに恋をする

    YOUTUBE 耳レイプの殿堂『ジェルボイス』

 

 最近一瞬はまりそうになったのが、タイトルのジェルボイスである。

 いやはやどういうリンクでたどり着いたのかは定かではないのだが、世の中にはすでにこういうポルノが存在する。

 

 いわゆる耳レイプだ。

 耳レイプは映像なし。

 音声のみで語りかけてくるタイプのポルノで、リスナーはまるで異性に耳元でささやかれたり、キスをされたり、と二人でその場でいちゃいちゃしているような臨場感が味わえる仕様になっている。

 で、ここまではいいのだが、問題はそこで語りかけてくる男性のキャラクターの一人でホスト仕様の彼に、私が一瞬でもはまりかけたということだ。

 いや、ホストクラブに行ったことがないので、イメージでしかないのだが、私の思う優秀なホストのイメージは8割従順、2割強引だ。

 これが、7:3でも、6:4でもいいのだが、基本は女性をお姫様扱いしてくれる癒し、甘やかしが主な業務でで、時々、強引というのが肝だ。

 ただの強引は、めんどくさいだけだ。

 

 私は基本的にフィクション的なキャラクターに二次元でも三次元でも「はまる」ことがないのだが、自分があまりに、こんな男がいればいいのに! と一瞬でも萌えたため、このことは記録しておきたい。

 そして、私がいい、と思うように、このジェルボイスにどはまりしている婦女子が多いのである。

 腐女子と書かなかったのは、リスナーの多くが普通の女性ではないかと思ったからだ。

 女性も男性並に働くようになった昨今、抱える責任やストレは半端なく、生きていくために女性もどんどん強くたくましくならざるを得ない。

 どんどんたくましくなっていく自分を時に嫌悪して、こんなかわいくない私は本当の私じゃないのに。

 なんて、(実際はそうだとしても)そう思い込みたいとき、このジェル君はお手軽に癒しを提供してくれる。

 

 女性は本当は甘えたい。

 でも、時には強引にしてほしい。

 そしてああ、私はこういう男が好きだったんだな、となれば、追っかけるキモオタな非モテの男性と負けず劣らずファンタジーまっしぐらの心理と変わりない。

 

 女性はたくましくなる一方、ますます男性はアイドル的・幼児的な女性を求め、女性はますますホスト的な男を求めるというスパイラルが今後始まるのではないだろうか。

うーん微妙すぎる。

3月12日(日)第3回 恋の終わらせかた (恋愛コラム)

恋愛コラム「恋はよいもの、はかないもの」というテーマです

 

第3回:恋の終わらせ方

    史実:カノッサの屈辱からの連想

 

 書庫整理で「チェーザレ」というマンガを見つけた。

 この作品はルネサンス前夜のイタリアが舞台で、途中、世界史的に有名な「カノッサの屈辱」のシーンがある。これは神聖ローマ皇帝ローマ教皇庁のトップ教皇グレゴリウス7世に破門の許しを請うため、雪の中三日間も裸で飲まず食わずにいたという皇帝的には文字通り屈辱的なエピソードであり、世界史的にはローマ法王の権威の絶頂を象徴する逸話だ。

 

だが、ここまで説明していてなんだが、そんなことはどうでもいい。

 どうでもいいのだが、このエピソードである話を思い出した。

 それは職場の女性の先輩の話で、彼女はもうとっくに結婚もして子供もいるが、今の旦那さんと出会う前、学生時代長くつきあっていた男性がおり、結婚指輪まで渡されたが、彼女は考えに考えてその指輪を返した。

 つまり、最後の最後で、別れを切り出した。

 つきあいも長かったから切れずにいたのだろうけれど、結婚となれば一生のことだ。よくよく踏み切れなかった理由があるのだろう。

 それについては詳しくは聞いていないのだが、学生時代、先輩は彼と喧嘩したとき、雪の中で土下座したことがあるそうだ。

 しかも、彼は家の中に入れてくれず、先輩は一晩だったか、頑固に雪の中で過ごしたらしい。

 理由はたいしたことではなく、どちらも引くに引けずこんなことになった。

 要するに意地の張り合いだ。

 こういうエピソードのあるカップルであるから、似たもの同士のテンションで離れられなくなっていったのかもしれない。

 しかし、先輩はぎりぎりでその男性を切った。

 男性にしてみれば、身を切られるような話だ。

 

 私の場合、学生時代の恋愛は長すぎた春だった。

 当時、私は好きになった彼への片思いを2年ぐらいしていると思った。

 だが、どうやら彼のほうもずいぶん前から私のことが気になっていたらしい。

 私はゼミ内に彼女がいる彼に対して、初めから終わりまで彼との友情を保とうとした。

 だが、今ではわかるが、男と女に友情なんてない。

 はじめから私も彼を男として見ていたし、彼も私を女として見ていた。

 しかし二人とも傷つきたくなくて、気持ちを言えなかった。

 そして当時の私は認めたくなかったが、ただ性欲と自分のコンプレックスのために彼に惹かれていただけだった。

 それでも私はSEXだけの関係はイヤだとはじめから言い張り、彼は私とSEXだけがしたかった。

 それについて喧嘩もした。

 今思えばバカな話だ。

 男性から性欲を感じられることは、実際に肉体関係がないまでも、女性にとっては名誉なことだ。

 だが、今でもそうだが、やはり私はそれだけの男とはつきあえないし、まして肉体関係なんて吐き気がする。

 

 そういうわけで、私はただ一言、嘘でもいいから好きだと言ってほしかった。

 しかし、彼は私にむかって一度もその言葉を言わず、したいとだけ、言いつづけた。 

 私は拒み続け、しかし同時に彼を忘れることができず、彼と知り合って二年目で、彼と恋人にはならないままSEXをした。

 

 SEXをすることで、彼は私が彼の女になったと思ったのだろう。

 私はそのタイミングで彼と二度と会わないと言った。

 今思えば、私が本当に別れたかったのは彼ではなくて、彼という体を求めていた何もない私自身だったのだとわかる。

3月11日(土)恋にだとりつきたくて:恋の罪(映画)

恋愛コラム:恋はよいもの、はかないもの

 

第2回:恋にだとりつきたくて

   恋の罪(映画)

 

 急に思い立って園子温監督の「恋の罪」を観る。

 でも、この映画に恋っぽい内容は出てこない。

 父に近親相姦的な思いを抱きつつ、それがかなえられないために売春を繰り返す大学助教授の美津子。

 セックスレスな夫婦生活に我慢のならないいずみ。

 夫婦円満でありながら、不倫を続ける和子。

 彼女たちは恋にたどりつきたくて、恋の周辺をぐるぐる回っているだけで、恋にたどりつかない。

 

舞台は渋谷丸山町。

 

 渋谷は不思議な町で、どの町も駅から離れるほど喧噪が穏やかになっていくものだが、渋谷の場合はそれが極端すぎる。

 スクランブル交差点には音と映像が幾重にもレイヤーを重なり、発狂しそうなほどだが、道玄坂の途中から人も減り始め、突如としてかなり静かな一帯になる。

 

 そこが丸山町だ。

 

 この物語の美津子といずみは恋を求めて、立ちんぼと呼ばれる、売春でも後ろ盾のない底辺の娼婦をすることになる。

 しかし、当然売春は売春にしかならない。

 売春は愛ではなく金銭と体をトレードしているからだ。

 恋はSEXを誘発するけれど、SEXは恋を誘発しない、と思う。

 それでも、人間に肉体がある以上、体のつながりが恋という感情を誘発しないともかぎらない。

 

 一度だけ、丸山町のラブホに泊まったことがある。

 ラブホのスイートを貸し切って、パーティーをするというバカな企画があった。

 そのときその夜初めて会った年下の男の子と意気投合した。

 3時間もお酒を飲んで、王様ゲームやコスプレの罰ゲームをしていると、複数いる異性からなんとなくお気に入りができる。

 それが彼だった。

 お酒も回って全裸でジャグジーに入ったり、下着で抱き合ったり、とことんバカみたいなことをしたが、それでもほかにも男女がいる部屋でまさかSEXなんてできない。

 けれど、よくよく考えればそれが目的であったのだ。

 そのとき、ベッドに横たわる彼がぼやくように「こんな出会いをしなければ」と言ったのが、妙に心に残っている。

 たしかに私も彼のことがほんの少しお気に入りになっていた。

 いたけれど、ラブホで出会い、ディープキスまでしたからと言って、その先を思い描くことはできなかった。

 こんな出会いかたをしなければ、彼と私は出会うことさえなかったのだ。

 しかし、しぶりにしぶったディープキスで、彼が妙に喜んでいたので、

私も少し嬉しくなった。

 けれど、会ったよの日の夜にした彼とのキスは本当に好きになった人とするキスとはまったく違う次元のものだった。

 

 キスは積み上げた切なさがなければ全然おいしくない。

 でも、だからこそ、彼の言葉が耳に残る。

 こんな出会い方をしなければ。

 しなければ、私たちは出会わなかったよ。

 口に出したら、みじめさに拍車がかかるような気がして私は彼の胸に顔を埋めることしかできなかった。

 私はラブホで遊ぶような女じゃないんだよ。

 言ってみたところで、無駄だ。だから、そのセリフを飲み込んだ。

 

 丸山町のラブホにはそんなダサい思い出がある。

 

 

3月10日(金)恋はよいもの、はかなきもの(映画:花酔道中)

 コラム:恋はよいもの、はかなきもの(映画:花酔道中)

     ★恋愛をテーマにしたコラムです。

 

 

 第1回:再び恋に恋するターン

    映画:花宵道中

 

 ふいうちの恋に弱い。

 恋を全面に押し出した映画や小説には見向きもしないどころかアレルギー反応さえ起こすくせに、殺人事件にちょこっと恋愛、アクション大立ち回りに恋愛、刑事ものに恋愛、完璧なエロマンガに恋愛のプラスアルファ恋愛映画に徹底的に弱い。

 もしかして、自分は恋愛ものが好きなんじゃないのか、と思うがやはりそこはそこ、あくまでもプラスアルファ、ふいうちでないとだめなのだ。

 

 それがどういうわけか、いかにもな映画を観てしまった。

 

 「花宵道中」という吉原の遊女の話だ。

 主人公の遊女朝霧は、はじめて男と相思相愛になるが男は朝霧を守るために殺人を犯し、やがてつかまり、処刑されてしまう。

 主人公朝霧は彼の死を悲観し、後追い心中をする。

 ストーリーはべったべたで、映像的にも低予算で同じような風景のカットばかりがつづき、少し息苦しくなる。

 映画の唯一の見所は、安達祐実扮する朝霧が無粋な客をはねつけるときに、極道まがいの台詞を吐くシーンだろう。

 キレッキレである。

 そういえば、かつて安達祐実は「家なき子」のとき、よく「同情するなら金をくれ!」と小学生の身空で連呼していた。

 映画ではこのシーンまでは年期のはいった遊女を演じるには舌足らずでかわいすぎる声と幼すぎる美少女っぷりで違和感ありありなのだが、このシーンで一気に遊女としての貫禄というか、吉原ならぬ芸能界という苦界で生き抜いてきた彼女の女優魂が全開になり、すげええ、安達!となる。

 

 というか、それだけの映画ではある。

 

 しかし、どうしてどうして、めちぇめちゃ泣けてしまったのである。

 泣いたらもう理屈ではない。

 映画に泣かされたのだから、こちらの負けだ。

 ではこの映画のありきたりな展開で、どうして泣くのかとなれば、それは私が泣くのを待ちかまえていたからということになる。

 

 主人公朝霧は、救いのない日常に突如と現れた相思相愛、自分を大事にしてくれるイケメン、それが引き金となり、生き甲斐を見いだすが、奪われると同時に、命さえ不要になる。

 失恋直後ならば、毎日がそのような気分だが、私も含め並みの女ならやがて男で死ぬなんて馬鹿らしいとなる。

 私自身最後の恋をしてから、ずいぶん長い間そう思ってきたが、ここに来て失恋直後のことばかり思い出す。

 おそらく体調が悪いから、気分もあがっていかないのだろうが、だからこそ本音のふたが開いた今の気持ちをじっくり見つめ直している。

 

 結局、女は男なんじゃないか。

 結局、私は男がほしいんじゃないか。

 そう思う。

 そういう私の本音がそのまんま出ていた映画だった。

 だから泣けだのだ。

 よい映画は感情と記憶をリアルに喚起させる。

 この映画はまるで私の今のひとりぼっちを映し出す鏡のように作用した。

 長く孤独に生きるよりも、好いた相手と心中する。

 少し前なら、なにを甘えたことを、と舌打ちをするところ、今は心底そう思う。

 恋に恋をしている私なのだった。

 そんな男と出会うことは、最大の幸せであり、最大の不幸である思う。