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3月9日(木)私は隠れM(マゾ)

コラム

 

 自分に対する認識はずれがちだ。

 私はずっと自分のことをエスだと思っていた。SMでいう、エスだ。

 人に指図は聞かないし、聞いているふりをして自分のしたいことしかしないし、

人をコントロールしようとはしないけれど、うまく扱うことにエネルギーをそそぎたいと思うし、とにかく自分流でその日をクリアすることになんの依存もない。

 ただ、誰かをいじめるほどその誰かに関心がないという点で一般的なSではない。

 

 だが、ここのところ前回のブログでも言ったが体調が絶不調だ。

 体調がいまいちだと、判断力がにぶるし、そもそも判断するエネルギーそのものを捻出しにくい。

 だから、信頼できる人間に最終的判断をゆだねたくなる。

 そして、ゆだねられる人間としかこの時期つきあわなくなる。

 体調悪化の期間は最悪だったが、おかげで自分が信頼できる人間を見極めることができた。

 そして、私自身自分に対する認識が180度変わった。

 

 私は隠れエムだったのだ。

 

 体調が悪化すると、本音が見えてくる。

 それは、私はエネルギーのある人間のふりをしているが、本当はなにもやりたくないし、ぼーっとすごすのが好きな人間だということだ。

 ただ、何かしないと人間生きていけないし、やるとなると短期的に人より熱血し、どうせやるなら、楽しく行こうぜ!というこれが、時になあなあな人々をなぎ倒し、説得するエネルギーに誤解されて、エス的な人間に見えるのだ。

 

 しかし、本当の私は自分のやりたいようにやりながらも、大事な部分、最終的判断は相談して決めたいタイプなのだ。

 体調が悪いなか、私にとっては大事なことを二つ決断した。

 一つは病院にいくために欠勤をするということ。

 一つは、やっぱり髪をカリアゲ続行、もっとカリアゲて、髪もアッシュ系に染めるということ。

 どちらも自分の体とデザインを職場とうまくバランスをとることが判断の肝になっている。

 

 体調が悪いと判断がつらい。

 自分のなかではやりたいことは決まっている。

 もちろん、体調をいち早く万全にするために、多少納期がタイトになろうとも休養をとること。

 そして、世間の女性らしさや役所的な保守スタイルを逸脱して、自分らしいスタイルを続行することは決まっている。

 しかし方向は決まっているのに、その最期のゴーサインがでない。

 でないから、誰かに「やれよ」と言ってもらいたくなる。

 この時期、それをしてくれたのは、私の体と髪をメンテナンスしてくれている整体師とスタイリスト二人の先生だった。

 

 今回は、彼らに泣きつくまでとは行かないけれど、相談をした。

 すると、「やりましょう」となった。

 このときの安堵感はひとしおだった。

 私はやりたいことは誰に反対されようともやる。

 けれど、いつもやれるわけではない。

 だから私がやりたいと思っていることを心底見抜き、それを後押ししてくれる人に命令されたいのだだ。

 そう、私は隠れエムだったのだ。

 隠れエムは隠れエスとうまくいく。

 隠れエスのような人を私は人生に一人でも多くほしい。

 それが、豊かな人生だと思う。

 

3月8日(木)つきあいたくないタイプ~今季の風邪くん~

コラム

 

 つきあったことのないタイプはどうつきあえばいいのかわからない。

 こちらはつきあいたくもないのだが、離れてくれないので、うまくあやして距離をとっているつもりで最低限の「おつきあい」をする。

 しかし、こちらに気がないとわかれば、そのうち離れてくれるだろうというもくろみはここ2週間ことごとく失敗している。

 細く長く、だが着実にこちらを屈服させようとするそいつの名前は「風邪くん」だ。

 彼とのつきあいは2月20日にさかのぼる。いまいましいことに、もう19日間もつきまとまれている。

 

 つきあったことのないタイプだ。

 そもそも私は風邪くんとは十年ぶりに遭遇した。

 通常、多くの人は風邪くんとおつきあいがあるが、どういうわけか風邪くんは私を避けて通るので、ま、こっちもタイプじゃねーし、と関心さえよせなかった。

 しかし、彼とは普段は決していかないお祭り騒ぎのパーティーで出会ってしまった。

 そこは小学校の英語でアソボの課外授業であり、私はそこにALTを伴い、授業をしに行ったのだ。

 丸一日、全部で4つの小学校を訪問し、授業後、二日目に風邪くんが私につきまとっていることに気がついた。

 彼は地味なストーカーのようだった。

 風邪くんの熱烈な体温上昇攻撃は一日で引いたが、そこから怒濤のような咳が出て、からからの咳に変わったころ、咳のしすぎて骨がきしみはじめ、寝返りさえ打てなくなった。

 骨のきしみは3日間で緩和したが、今度は咳が地味につづき、ときおり呼吸もできないほど激しくなる ←いまここ。

 

 

 彼と離れたいんです。

 

 ストーカー相談に訪れた場所は、内科、耳鼻科、整形外科。

 どれひとつとっても、攻撃力に低いというか、ほぼ皆無の薬を処方され、ついに私は彼らの助言を聞かず、薬を放置した。

 

 だって効かない異物を体にいれるのはやなんだもん。

 

 そして、今ついに咳がぶりかえし、今日もまた内科に行くことに。

 ほぼ気管支炎にまちがいない症状だ。

 現在は改善にむかっているとは思うが、風邪くん

のストーカーぶりはまことに地味で粘液質で着実だ。

 それでも、彼とのつきあいは私の体内では免疫くんをつくり、私の思考内では「小学校には必ずマスクをしていく」という経験値を築き上げた。

 だから、いまでは彼に感謝さえしている。

 

 

 つきあったことのないタイプとは、しょせんうまくいかない。

 経験をしてもうまくはいかない。

 だから、私は彼らをとことんつきあわないために小学校に行くときは必ずマスクをする。

 医者なんか、あてにならない。

 はじめから、断固として風邪くんとおつきあいしないという態度こそ、信頼できる処方箋だ。

3月9日(木)コラム・シリーズ化の構想

コラム

 

 「コウソウ」と打って、「抗争」が優先的に変換された今朝、このコラムをもっと掘り下げたいという欲求にかられた。

 そこでタイトル通り、コラムのシリーズを思いついた。

 主要となるテーマに絞って複数回、同じテーマで書いてみようという企画だ。

 3回から5回ぐらいに回をしぼり、発展しそうならもっと回数を増やしてもいい。

 たとえば、ぱっと思いついたのがわたしが追っかけをした人というテーマだと、二人くらいしかいないのだが(おいおい、シリーズになんねーよ)、空海義経なんかは、関東を超え、四国・東北を抜けて、モンゴルと中国まで追っていったので、そのフェチぶりと彼らの魅力が何回かにわたって書けそうだ。

 楽しいかどうかはともかく(おい)

 

 そもそも同じテーマで、複数回違った角度から書いてみるシリーズ化の理由は二つある。

 つい先週からはじめた1000字コラムだが、毎回思いつくままに日記のようなものだったが、すぐに退屈になってしまった。

 内容が散逸しているし、もっと掘り下げて書きたいと思うようになった。

 だが1000字では、テーマの掘り下げはなかなかできないし、できたとしても内容が難解でくどくなりそうだ。

 だったら、そのテーマを何度か書いてみればいい。

 それも、違った角度で書けば、自分にとっても読者にとってもいくらかまとまったトリビアを持てるのではないか。

 そこで、ぽつぽつと抗争じゃなくて(昨日のヤクザの回が響いている)構想を練りながら、少しずつ移行していこうと思う。

 途中、頓挫するかもしれないが、それはそれで。

 私にとっては知識の進化を兼ねて、スタートをしてみたい。

3月8日(水)男が男に惚れる

コラム

 

 ついに任侠映画に手を出しはじめた。やくざと博打打ちの世界を描いたこのジャンルは、ジャンルとして確立されているが、私にとっては未知すぎていままで手を出さずにいた。

 ところが、観たい映画がなくなってしまい、有料動画サイトで任侠映画を検索したら、なんと170本近くある。もしかしたら、はまってしまうかもしれないと思いつつ今観ているのが、「修羅の群れ」(1984松方弘樹主演だ。

戦前戦後の熱海を舞台にしたやくざ映画で、タイトルまんま男が男に惚れてしまうような強くて謙虚で優しく血気盛んなヤクザが主人公でその親分を慕い、お勤め(刑期を何年か親分のためにくらう)も厭わない子分たちがあれよあれよという間に集まり、抗争に発展していくという話だ。

この映画では私の知っている世渡りと金策にはじまる営業力だけでヤクザ組織をのし上がっていく現代的な男たちは登場せず、本気で弱気をくじく心意気を持った人間が、それを見る目のある上にひきあげられるという、古きよき時代のある意味単純で心がじーんとなる男達ばかりが出てくる。もう、はまるしかない感じだ。このまともな目をもった男がまともな男を引き立てるというやくざの世界が単なるロマンなのか、当時のリアリティだったのか、私には不明なのだが、とにかく燃える映画だ。

 そういうかっこええ主人公を演じるのが松方弘樹で、松方弘樹といえば、遠山の金さんぐらいしか印象にないのだが、若いころからぎらぎらしつつも、立ち振る舞いがパーフェクトなスターというのが、液晶を通してさえ伝わってくる。たぶん、生で観ていたら悶絶死したに違いない。松方弘樹演じる主人公は見る目のある親分に引き立てられ、また子分たちに敬愛され、あっという間に組織は大きくなる。とくに子分たちの中には、親分のために人生をなげうつ連中もでてきて、この映画を観て私ははじめて、実感としてそういうことをしてしまう男たちの気持ちに触れられたような気がした。

 この親分のためには命さえ厭わないというよくあるフレーズが、感覚としてわかったような気がしたのだ。それは人間が人間に惚れ込むという熱い感覚で、話は変わるが、私は司馬遼太郎吉田松陰を師にもった弟子たちが、「こういう師匠をもったら、弟子は不幸にならざるをえない」的なことを言っていたのを思い出した。つまり、師匠を愛し、尊敬するがゆえに、その身までなげうってしまうという話だ。

 男が男に惚れるくらいなので、女もまた惚れてしまうわけだが、そういう男に惚れて添い遂げるというのは、幸福であり、同時に不幸であると思う。とはいえ、どんなにつらい目にあったとしても、激しい感情を味わえる人生は、長く退屈な人生よりもよほど生き甲斐がある。だから他人のために命をなげうつことは、自分自身のためなのだろう。親分の見る理想を自分も一緒に見ているのだから。ああ、そういう人生を生きたい。

3月8日(水)歌がうまいってなんだろう

コラム

 

 

 図書館で、CDをかりて聞いているが、今週は演歌のターンだ。今は、島津亜矢の2000年ぐらいのアルバムを聞いている。美空ひばりの曲ばかりを歌っており、島津亜矢だから歌えるラインナップだ。

 ことさら亜矢ちゃんのファンではないのだが、亜矢ちゃんは本当に歌がうまくて、演歌界の中でも歌唱力ではトップなのではないかと思う。だからひばりを歌えるのだが、このアルバムはなんだか「ん?」となることが多かった。

 なんだかどの歌も聞いていてもぴんとこないというか首を傾げてしまうのだ。端的に言って歌が伝わってこない。リズム感もピッチも安定しているけれど、歌として説得力がない。

 ひばりは天才と言われるだけあって、どの歌もまるでその人生を生きたかのように歌えるというヤバい才能を持っていた。比較するわけではないのだけれど、特に「川の流れのように」を聞くと、歴然とする。なんだか流れていかない感じなのだ。いや、十分うまいのだけれど、感動まで行かない。

 歌を聞いていて「上手い」歌い手はそれこそ吐いてすてるほどいる。しかし、「感動」させる歌い手はなかなかいない。プロでもいない。それは歌がうまいことと、感動させることが、違う次元のものだからだと思う。

 おそらく上手いは技術。感動させるのは、思いなのだ。思いは伝えたいという切実な感情であり、歌い手がそういう感情を技術で昇華させたところに、聞き手の感情や記憶が喚起され、感動が起こる。

 だから、下手をすると上手いのは当たり前で、もしかすると、上手くさえなくても、歌は伝わるのかもしれない。その思いさえあれば。

 だから、カラオケ番組を見ていて私なんかは、痛々しいなっときがある。いくら歌が技術的に上手くても、それが伝わるとはかぎらない。せいぜい、上手でしかない。感動を伝えるのは、究極その歌の人生をいきることでしかないのだと思う。それができるのは、人生の積み重ねや経験であるし、今の亜矢ちゃんのアルバムはきっとすばらしい出来なのだと思う。

 むかし知り合いの俳優がこんなことを言っていた。

「あのときはまだそのセリフを言える体じゃなくて大変だったよ」

 そうかもしれない。

 経験にないことを、想像力で補うには凡人には大変な努力が必要で、それができるから、天才は天才なのだろう。

3月8日(水)物語における事件ってなんだろう

コラム 【小説 読書ログ】

 

 

 殺人事件、戦争、命の危機、抗争。とにかくヤバい事件がない物語は物語じゃない。それで小説が読みたくなるとミステリコーナーに行くのだが、最近は読みたい小説がさっぱり見つからない。

 海外ミステリのコーナーは最近、北欧ミステリが大流行だが、私はしらけた気分でそのコーナーを見つめている。というか私はミステリ全体が嫌いになったのか、とさえ思う。それとも単に北欧ミステリが苦手なのか。このジャンルは今までに20作品ぐらい手にとってみたけれど、どれひとつとして読了したことがない。

 最近は厚い上下巻が主流だが、とにかくあんなに長いの読めない。おもしろければ読めるけれど、無意味にだらだらしているとしか思えないし、本当に読んでいる人がいるのだろうか(いや、普通にいるから)たまに1冊に収まっている作品があっても、事件が地味すぎてページをめくる手が凍りつく。北欧ミステリ。もう完全にアウェーなのだ。

 で、最近は事件がおこらない人情本を読んでいる。ただし、人情本はだるいものがほとんどなので、私が今愛読しているのは、エロ本だ。エロ本というと、語弊があるが、花村萬月氏の「よろづ情ノ字 薬種控」というセックスに関係する媚薬、秘薬、道具を売る町人の話を読んでいる。小説宝石に連載されていたもので、これがもう地味すぎる展開なのだが、するめのようにかめばかむほど味わい深い。いわゆる市井の人情話はかったるくって、無理な私でも、毎度SEXしまくり、別にそれは仕事ですから、という情の欠片もない主人公が、かっこよすぎる。実は数年前に自分もエロ小説を書いて、小説宝石に出したことがあるのだが、あえなく選外となったあと、この花村氏の小説を読んで、すごすぎる! となった。もう自分がやりたいベクトルであったし、自分が落ちたわけがわかったというか。ここまでやらないとだめだというか。

 そういうわけで、最近は自分にとっての小説のおもしろさは事件のえげつなさではなく、人間の行動や思考そのものなのではないかと思うようになった。もともと命に関わる危機的事件がおこれば、おのずとその人間の行動・思考はあらわになるはずなのだが、最近の私が手にとるミステリ小説はどうも事件がおこっているようで、おこってないものばかりなのだ。とどのつまり、おもしろい小説自体が、なかなか存在しないということなのかもしれない。

3月7日(火)色気ってなんだろう

コラム

  東京タラレバ娘の冒頭をちらりと読んで、閉じた。たら、れば。

 本当に難しいことなので、私はとうの昔にあきらめた。

 好きになれたら、我慢できれば。

 でも、死ぬよりほかないと思えなければ、恋愛なしにお見合いで出会ったスペックの高い人と結婚できるはずもない。というか、デートだって地獄のようだ。

 私は色気のある人間が好きだけれど、けしてタイプではない。

 あからさまに色気がある人間はかっこいいけれど、なにか同類のような気がしてしまう。

 色気がない人間は宇宙人なので、好きになることはないが、暖かい目で見守ることができる。

 恋愛相手としても、親友としても、一緒にいたいと思う男性は色気がないように見えて、その色気がにじみ出ているのを発見できるようなタイプだ。まあ、なかなかいない。

 いったい色気とはなんだろうと考えると、私にとっては、それは属さない人間だということになる。自分がある人間ともいえる。たとえ組織に属していたとしても、自分の理想や夢があるタイプ。なので、自然、自営業やフリーの仕事をしている人に多く、私は実はこの手の人間としか恋愛したことがない。

 色気のない人間の筆頭は、実はまさにいる職場、公務員の現場だ。民間の人間よりもさらに所属している感じ、飼われている感じが強い。法律に飼われているのか、組織に飼われているのか、いづれにしても、私の組織では100人に一人ぐらいしか色気のある男がいない。おそらく、強者と争うよりは、弱者を救うことが職務の大半をしめるからだろう。

 色気は言い換えると野生の感じともいえる。集団でいても、自分がある人間。それが強い人間に私は色気を感じる。

 別に、色気があればいいというものではなく、私はただ色気がないと、つまらないな、と思うだけだ。そして、色気はあからさまであるより、発見するぐらいがちょうどいい。男の色気はやはり、戦うことにある気がするが、女の色気は違う。女は戦えば戦うほどなくなっていく。女の色気は相手と戦わず、自分と戦っていると出てくるような気がする。なんとなく、女は耐えているという感じが色気をだす要素のような気がしてならない。