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3月23日(木)必要悪と汚職警官・警察腐敗(2)(映画:日本一わるいやつら)

【映 画】 コラム

 承前(1)

 そもそも、なぜ主人公が犯罪を取り締まるために、犯罪に手を染めたかというと、単純な理由が二つある。

 一つは、警察のノルマ主義だ。

 銃・麻薬の摘発。

 そのノルマは全国の警察の内部抗争にもにて、末端の警官は取り締まりの数字を上げるために、上から強い圧力をかけられる。

 末端の警官は公務員であり、薄給なのが当然で、しかし銃や麻薬のルートを摘発するためには、ヤクザ・暴力団・犯罪者からの情報提供が必要になる。

 その資金源のために借金をしたり、自身で麻薬の横流しをすることになる。

 

 警察官が犯罪に走る二つ目の理由は、警察が組織を守ることを優先しているからだ。それは時に、市民の安全よりも、警察組織の保身が優先される。

 警察が単純にノルマ主義を標榜すれば、その数字達成の前に、手段は正当化される。

 警察にかぎらず、官僚組織は腐敗するのは決まりきったことで、とくに警察のような犯罪をとりしまるためには、自らも犯罪すれすれの暴力と行為をすることもあるだろう。

 それは、必要悪というもので、絶対になくならないし、それをなくして治安など維持できない。

 しかし、暴力の行使が許されるのは、その目的が市民の安全を守るという大儀があるからだ。

 それを見失ったとき、警官はただの犯罪者となる。

 その線引きというのは、おそらくそうとうに難しいはずで、汚職がなくならないのも、警察がきれいごとだけでは犯罪を取り締まれないからだろう。

 いっそ、警察は暴力集団であり、犯罪をなくすための犯罪ぎりぎりの悪者だ、と認めてしまえばいい。

 認めなくても、事実そうなのだから、警察にきれいなレッテルを貼ろうとするから、おかしなノルマ主義が横行するのではないだろうか。

 いや、正直警察の汚職が根がふかく、簡単には語れない。

 語れないからこそ、この映画では、組織に忠実な猟犬ほど、組織に利用され、首を斬られるということを伝えたかったのかもしれない。

 そして、警察にそうさせているのが、国民の意識でないとどうしていえないのか。

 まあ、そこまで考えても何ができるというわけではなく、もやもやが心に生まれるだけなのだが。

 そんな汚職警官の映画をまたしても、観てしまったのだった。

3月23日(木)必要悪と汚職警官・警察腐敗(1)(映画:日本一わるいやつら)

【映 画】 コラム 【仕 事】

 

  ちょっと前に見て、どうにも感想がでてこない映画だった。

 それでも観たあとにいやな気分になったことはたしかで、それを一言「つまらなかった」で片づけてはいけないような気がして、ほとんど白紙の感想メモを数日持ち歩いていた。

 二週間たって、結論が出た。

この映画はいかに綾野剛くんがキレキレの演技をしようとエンタメ映画ではない。

 完璧に社会派であり、内部告発をうすいエンタメでカバーしたきまじめな映画なのだ。

 だから、観たあとにすかっとするわけもなく、もやっとした気持ちが持続するのは仕方ない。むしろ、こうしたもやっと効果を喚起するために作られた映画なのだろう。

 

 

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 ストーリーは、10文字で説明できる。汚職警官が捕まるまで、だ。

 

 綾野剛くん扮する新人刑事は、柔道の能力を買われ、北海道警察に就職する。

 当初は強い正義感を持っていたが、先輩刑事が暴力団とつながり、出世する方法を教え込まれてからは、ノルマ達成のために汚職に手をそめる。

 銃や麻薬の摘発を出世の足かがりにするためには暴力団や犯罪者からの情報提供が必要になる、警官の薄給では立ちゆかず借金を重ね、ついには麻薬の横流しに手をそめる。

 やがて仲間の裏切りや横流しの失敗により、左遷され、同時に自らも覚醒剤に手をだし、ついに逮捕となる。

 どこかでみたようなストーリーであり、後半はひたすら人生が下降していくだけだ。

 

 ああ、もう! 見たかいがない! となる。

 

 しかし、全編を通して最期のシーンだけは強く印象に残っている。

 それは、主人公が覚醒剤所持等により拘留されたあとの台詞だ。

 

 内容は、自分の汚職はすべて警察のためにしたことで、こんな自分を拾ってくれた警察に恩返しをしたくてがむしゃらに仕事をしてきた、というものだ。

 哀れさマックスであり、同時に同情したくも共感したくもないと思い、複雑な気分にさせられる。

 なぜ哀れかといえば、それは彼が警察をまさに野良犬だった自分を拾ってくれたご主人様とおもい、忠実にご奉仕してきたにも関わらず、やがてやりすぎてご主人に疎まれ、首をはねられたからだ。

 同情できないのは、彼が本来の市民を守るという正義を忘れ、ご主人と自分の利益を優先したことにより、犯罪に加担し、汚い金で遊び歩いた時代があるからだ。

 

 しかし、哀れさの部分は、心がざわつく。

 

 それは、立場が同じであれば、自分もそうしていたかもしれないと思うからだ。

 映画を見ていれば、彼の顛末は彼個人の問題というよりも、警察の組織全体の在り方だと誰もがわかる。

 

 つづき → 必要悪と汚職警官・警察腐敗(2)へ

 

3月22日(水)第6回 恋はよいものはかないもの(嫌いから好きへ一気に加速する瞬間)

コラム 【コラム:恋はよきもの、はかなきもの】 【映 画】

恋愛コラム:恋はよいもの、はかないもの

 

 映画「エクスペンタブルズ」「メカニック」

   「ボーンシリーズ」「コンテイジョン」 

 

 やっぱり「嫌い」よりも「すき」なほうが、気持ちがあがる。

 そういうわけで、最近、「すき」になった俳優が二人いる。

 ジェイソン・ステイサムとマッド・デイモンだ。

 この二人、私にとっては全く好きになる余地がなかった。二人とも共通点はかっこよすぎる暗殺者なり密偵の役が多いことがあげられる。

 その押しつけがましい人工的なかっこよさが鼻についた。

 以下、いかに彼らが嫌いだったかの説明をしたい。

 まず、ステイサム嫌いの理由は、私が初対面で彼を「かっこすよすぎて、逆にだっさださ」と、思ってしまったことだった。

 初対面は「メカニック」

 

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 内容はタイトルまんまで、マシンのように人を殺すという非常な殺し屋の役。

 この映画は好きな人は好きという映画で、なんかもひたすらメカニックなのだ。

 たぶん、「かっこええやろ? どや? どや?」という感じなのだろうが、私としては「う~ん、どうでっしゃろ」という感じだった。

 この映画の関係者に「見てね」と言われてみたのだが、正直書き直した脚本の素案を送りつけて辟易されたという顛末も苦しい。

 要するに、初対面で私がステイサムという俳優に抱いた印象は心のない、ひたすら殺人をするかっこいいという噂の、ステイサムだった。

 一方、マッド・デイモンのほうはというと、こちらはもうストーリーとかいう以前に生理的に彼の顔が受け付けなかった。

 なんだろう、このごついゴリラは、から始まり、その見た目で傭兵とか密偵とかボーンシリーズじゃ、全然ギャップないじゃん、まんまじゃん、頼むよ。

となり、もう手の付けられない嫌い様である。

 

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 ところが、この二人を一気に好きになった映画があった。ステイサムの場合は「エクスペンタブルシリーズ」、マッド・デイモンの場合は「コンテイジョン

 

 ステイサムが出演するエクスシリーズは、傭兵ものなのだが、あのいつものクールなステイサムが、いつになく二番手にさがり、常に主人公であるスタローンを支える女房役のような立ち位置にとどまり、主人公を立て、とにかくださくていい奴なのだ。

 

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 しかも、作品中で傭兵仲間からことごとくあの独特のヘアスタイル(はげ)をからかわれ、めちゃめちゃださかわいいことこの上ない。

 一気に惚れ込んでしまったのである。

 かっこいい男がださくなった瞬間ほどかわゆい場面はない。

 もう、なだれ込みである。

 

 一方マッド・デイモンの出演した「コンテイジョン」は感染症パニックの映画で、彼は妻を感染症で失い、あたふたする夫を演じている。

 

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 やつれきっており、常にスウェットか、ネルシャツのようなパジャマが制服のようになり、もちろんアクションシーンなど皆無。

 別にこの夫役はマッドじゃなくてもよかったんじゃないという感じなのだが、このやつれきったださい感じの夫役がみごとにださくて、マッド・デイモン、こんなださい役もできるなんて、まじかっこええ!!惚れた!!!

ていうか、結婚したい!

 と、なだれ込んだのである。

 結論はもう簡単で、

 もう、ださ男、大絶賛である。

 というか、待て待て。

 落ち着け、どう考えても、この二人のおおもとははめちゃかっこいいに違いないだろう、という突っ込みはごもっとも。

 やっと彼らのかっこよさに気が付いたというそれだけの話

3月22日(水)仕事場のできないちゃんをめぐる処遇(2)

  承前:仕事場のできないちゃんをめぐる処遇(1)

 

 

 最近は大人の発達障害学習障害アスペルガーなどが認知されるようになったが、本人に自覚がない場合、周囲はさんざんな目にあって、できないちゃんが「障害者である」と医者の判断なしに判断する。

 そうすることで現場は必死にしりぬぐいの覚悟を固める。

 いままで手を組むことのなかったメンバーで防衛線を築き、この様はまるでできない子供がいるために組織全体のチームワークが向上したかに見える。

 しかし、言ってみれは、これはさほどうれしくないチームワークである。

 なぜなら、ただでさえあそびのない現場で大人の問題児をサポートすることほど無意味で非生産的なことはないからだ。

 さらに言えば、給料を標準値でもらっておきながら、全力でサポートを必要とする人間に人はそれほど優しくなれない。

 

 こういうわけで、普通の神経も欠け気味なできないちゃんもさすがに度重なる周囲の自分をサポートする目をみはる行動力に苦悩することになる。

 苦しんでもできないものはできないのだから、辞職をしたほうがお互いのためなのだが、本当の問題はそこからなのだ。

 結果的に言うと、こういうできないちゃんを徹底的に批判するのはやはり、間違っている。

 実際できないちゃんたちは社会には一定数以上、必ず存在しており、仕事の現場においてあそびの部分がなくなるに従い、目立つ存在となっているにすぎない。

 できないちゃんたちは、能力が根本的に欠けているのであり、はっきり言えば、絶対にその能力は向上しない。

 いつまでたっても周囲の手厚いサポートがあってやっと仕事の形をとっているというような、いわば半人前以下にとどまり、現場においては、完全な障害者だ。

 実は身近でこのできないちゃんは、私の現場でも三人はいたが、そのうち二人はすでに精神的に追い込まれ自主的に退職し、残るひとりは周囲に地雷をまき散らしつつ、日々周囲への被害は拡大するばかりであり、早晩二人と同じ道をたどるのではないかと思われる。

 問題は、社会に一定数以上いるできないちゃんを社会がどう受け入れるか、なのだ。

 まずは、社会が大人の障害を認知することからだろう。

 この認知が遅れるせいで、「当然できるよね。いや、やってないだけでしょ。やろうよ」となる。

 しかし、できないものは、できないのだ。

 できないちゃんの能力は完全に欠けているのであり、それは簡単に言うと誰もが東大に入れと言っているのと同じだ。

 実際、東大には誰もが入る必要もないのだが、職場ではお金をもらう以上、本人にとっては東大入学レベルのことを「当然やってくれ」となる。

 しかし、この「できない」ということを本人に早い段階で認めさせることが、被害拡大を阻止する第一歩だ。

 そのためには、評価制度を導入することだろう。

 いわゆる、足切として、あまりにできない人にはきちんと通知をするのだ。

 それが第一歩だと思うのだが。

 

3月22日(火)仕事場のできないちゃんをめぐる処遇(1)

【仕 事】 コラム

 

 

 職場ではときどき「やる気がないんだよ、あいつは」「もっと真剣にやればできるはずなのに」というフレーズが聞かれる。

 これはケースにもよるが、仕事において結果が求められることは日常茶飯事なので、その結果の前で「できるのにやらなかった」は「できなかった」と同じだ。

 そういう仕事の現場において、とことん仕事ができないちゃんがいる。

 つまり、結果どころか、失敗が多く、むしろその失敗の後片付けもまたしくじるというような手合いである。

 

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(↑話題が暗いので、高知の海 話題と関係ありません

 まだ職場が優しかったり、大企業のように余力があるところでは、こうしたできないちゃんも、細々と生存することができる。

 しかし、御存じのようにできないちゃんのいる余地は年々厳しくなっている。

 コストカットによる現場の少数精鋭戦略により、一人一人の能力の高さが求められるようになってきている上に、

 AIテクノロジーにより、サポート的な仕事はますますマシンに代替されるようになってきたからだ。

 サポート的な仕事もできないようでは、もはや現場にいられなくなるのも当然なのだ。

 さて、できないちゃん、もしくはできない君はどの現場にもいるが、私のいるような役所で「できない」場合、その症状は破壊的であり、

言葉は悪いが、障害に近い場合がほとんどだ。

 事実、障害なのだと思われる。

 なぜなら、本人的には一生懸命やっているのだが、全く成果があがらず、あがらないだけではなく、トラブルの地雷をあちこちにばらまくため、周囲の仲間が被害にあい、そういう場面に幾度となく遭遇しても、本人は改善できないからだ。

 簡単に首を切りたいところだが、それは無理な上に、すみっこに追いやることもできず、もはや現場では組織全体でできないちゃんのために防衛戦略を張り巡らせるしかなくなり、多大なコストになる。

 実際、このできないちゃんが正社員や職員である場合は、この人に辞めてもらってバイトを三人雇いたいのが本音だ。

 いったい、どういう神経をしているのかと、考えたとき、周囲の被害者が考えることは、大人の障害というやつだ。

 

 → つづき 仕事場のできないちゃんをめぐる処遇

3月20日(月)因果!死体回収の趣味 (アカトラ・リオとの出会い )

 

 まだ物心つかない幼児だったころ、私はそれはそれは残虐な子どもだったらしい。

 家の前に小川が流れており、増えすぎたのらの子猫を橋の上から投げて捨てていたというのだ。

 ためらうことなく川に子猫をすてるこの幼児を想像すると、残虐非道というより、サイコパス的な香りがする子供だと思う。

 ま、私のことである。

今でも、脳裏に子猫が川の流れにもがきながらくるくると葉っぱのように流れていく様が浮かぶのだが、それが記憶なのかつくられた記憶なのかはさだかではない。

 転じて、大人になってから、私は極度の猫キチになった。

 現在空前の猫ブームという異常な時代に突入したため、猫キチを自称する人々は多いだろう。

 私もだいぶ、猫が好きだが、それでもどれくらい猫好きかというと、道路で死んでいる猫も回収して、埋めるくらい猫好きだ。

 

 どうだろう。けっこうドン引きするのではないだろうか。

 

 さて、実は去年の10月からアカトラ猫のオス、本名リオ・グランデ通称、リオ子を飼っているのだが、このリオはなんと私が死体から拾ってきた猫なのだ。というのは、冗談だが、実は春頃に、私が通勤路で回収してきた猫の死体がまさにアカトラだったのである。

 

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(↑ 本日 家の庭の梅の木にのぼるリオ子:オス推定1歳)

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(家の蔵の前で警戒するリオ)

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(↑ 庭を歩く私のあとを尾行するリオ)

 我が家では、つい私が道ばたで捨てられた猫を拾ったり、野良猫が子猫を生むため、それの里親を探したりと、これまでたくさんの猫を飼ってきた経緯がある。

 血統書付き以外のあらゆる柄の猫を飼ってきたのだが、不思議なことにいままでアカトラの猫、いわゆるホワッツマイケル的柄の猫を飼ったことがなかった。

 それが、である。

 私が去年の春頃、つい通勤路で死んでいた猫がかわいそうになり、死体をビニール袋で回収してきたのだ。

 その雄猫の柄がまさにアカトラだった。

 じつは以前から私にはやっかいな動物遺体回収の趣味があり、拾ってくると、それを近所の田圃のなかに栗林に埋葬をしていたのだ。

 近所に内緒でこっそりその栗林をペットセメタリー化していたのだが、なんと2年前に農地改良が始まり、栗林が田圃になってしまったのだ。

 しかたなく、私は我が家の鬼門にあたる北西の土手を掘り返して、そこにアカトラの死体を埋めた。

埋葬のときに、花も一緒にそなえてやり、陰陽道的に「式神になって我が家を守ってくれても全然かまわないからね」と軽く祈願した上で、別れを告げた。

 で、それから半年後、今まで飼ったこともないようなアカトラが我が家に迷い込んできた。

 私は死体を回収するくらいだから、生身の猫はもちろん大歓迎というわけで、家猫化したのが、写真のリオ子である。

 というわけで、私はあの道端ではねられて息絶えた猫が、生きた猫となって我が家にやってきたのではないかと思っている。

 当然のことながら猫は言葉をしゃべれないので、本当はどこからリオが来たのかはわからない。

 わからないけれど、いったん天国にいったあのアカトラが今度はあのネコキチのところで天寿を全うしたいと言って、うまいこと受理されたのではないかとひそかに思っている。

 言うまでもなく、リオは私にべたぼれなのである。

3月20日(月)ほんとうの教養とは:司馬遼太郎著「十六の話」中公文庫(97)

【歴 史】 コラム

 

 いやいや、ひさしぶりにあたふたさせられた。司馬遼太郎にである。

 

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(↑私のうんざりする司馬歴)

 司馬の著作「十六の話」はとても、お風呂に入ってワインを飲みながら読める内容ではない。

 もう、大量の知識が凝縮されていて、何をいっているのかわからない。

 ああ、司馬だな、と思う。

 内容は、日本人の話である。

 はっきり言ってとりとめがなく、鉄が自由な好奇心を誘発したとか、そのためには水が必要だった。

 なぜって、鉄の農具をつくるには、木を燃やさないとだめでね、その木が日本はたくさんあってさあ、しかも儒教みたいながっちがっちの道徳教育が島国のせいで中国から入ってこなかったじゃん、あれよかったんだよね。

 みたいな感じで内容はわかるのだが、で、それで? 

 という感じになるのが司馬の本だ。

 もっと言うと、で、この知識というか、司馬先生の考えたそのことって、なんか知っていいことあるんすか?となる。

 

 おそらく、司馬はこういうだろう。

 そんなの、知るかいな。時間かけてよーく自分で咀嚼してみることや。

 

 いらっとくるのである。

 ただし、司馬にいらっとさせられることは、本気でいらっとさせられるということとは実は違う。

 本気でいらっとするのは、「この程度のこと言うのに、本だすなって」という、うすいライトな、本をめくってしまったときだ。

 最近はこの手の本、つまり素人に毛が生えたような著者が本を出すことが多い。

 この現象の背景には知識さえも即戦力が求められており、即戦力故に、わかりやすく、浅くて、ライトではじめから答えがでているようなものを世間が求めているからだろう。

 司馬にはこれらのライトさは全くない。

 まず、司馬は読者の側から言うと、どうしていいのかわからないスレッドを放り投げてくる。

 そもそも日本人とはなにか、ということを一生かかって考え抜いた司馬は、あまりに思想としては幅広く、それなりに深いため、読み手側が司馬の巨大な思想面のある側面からかってに興味をふかめてその、自分なりの疑問をつくらなくてはならない。

 その自主的問題提起をなかば強制してくる文体というか内容は、今あふれているビジネス書とは対極にあり、司馬とつきあうには、まず、読み下すだけでも司馬の大海のような思想の量と思考法そのものに慣れていくことがスタートで、内容が理解できたとしても、つぎに、どうやって自分なりに展開すればいいの?と混乱を極まる

 おそらく、そこまでしなければ、司馬の話は基本、引退した余命いくばくもない年よりが縁側で茶飲み話にするようなトリビアにししかないからだ。

 

 しかしまあ、教養というのはもしかするとそういうものなのかもしれないと思う。

 つまり、すぐに答えの出ない話題こそが教養であり、その知識を、師匠からおまえ自身はどう思うわけ?と聞かれ、弟子としてはそれをとりあえずは胸にしまって、数年すごす。

 場合によっては十年を越す。

 その間、熟成を待つ。

 その間自分で意識的に何度も考え直し、ときには放り投げて忘れた振りをする。

 しかし、とにかく師匠の投げた話題を自分のなかで育てる。

 実際いらっとしつつ、ずっと疑問を追いかける楽しさもある。

 ただし、疑問さえも、自分でつくらなければならないことも繰り返しになるが事実なのだ。

 そして、その師匠司馬からもらった知識が、いつのまにか、自分なりの思考と経験を経て、知恵になっていく過程がある、ような気がする。

 そういうわけで、司馬遼太郎という作家はのらりくらり、フレームワークのない、世間話のようなだべりの達人だ。

 とはいえ、司馬のあふれるばかりの好奇心だけは、役に立つとも経たなくとも自分のものにしたくなる。

 あえて一言で言ってしまえば、司馬は日本人の好奇心的民族性を手をかえしなをかえ、語っているのである。

司馬のいうとおり好奇心こそ、よりよい未来へのスタート地点だろう。

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(↑ いずれ、司馬を読んだら禁断の書として隔離するよていのうちの庭の蔵)