9月16日(土)ドリーム(16)彼女は言う。スカートのおかげで今の仕事についたんじゃない。でも、やっぱりそのスカート、まねしたい!

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 久々の感動作でしたよ。

 いやいや、けっこう常に感動してると思うよ。

 このブログを読んでいる読者の皆様は、そう思われるかもしれません。

 いや、しかしこの映画はよかったです。

 私はやっぱり、脚本(ストーリー)がいいものに惹かれるな、と。

 しかし、この映画は映像(とくに60年代の働く女性たちのファッションがキュート)も同じくらい魅力なのです。

 

 

 

 ■ストーリー

 主人公たちは、3人の黒人女性。

 キャサリン、ドロシー、メアリーの3人はそれぞれに数学の才能に恵まれ、NASAの黒人電算グループで勤務していた。

 時は1960年代、ヴァージニア州ハンプトン。

 南部の旧態依然としたこの土地は人種差別が続き、有色人種と白人の間には隔たった階級と人権の差は歴然としていた。水道やトイレ、バスの席など公共のサービスは有力人種と白人の間に明確な線引きがされ、図書館も自由に使うことはできない。

 しかし、アメリカは当時冷戦の真っ最中であり、ソ連と有人宇宙飛行をめぐり激しい競争を展開していた。

 その名をマーキュリー計画

 1958年から1963年まで続いた、地球軌道周回におけるロケット開発は、常にソ連がリード。国家の威信と期待をかけたNASAのラングレー研究所は大きなプレッシャーの中でプロジェクトに貢献できる人材を必要としていた。

 このマーキュリー計画の末席にはじめに加わったのが、キャサリンだった。

 

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(みよ、このNASAの画一的なエージェントスタイル。キャサリンのツーピースがキラリ☆)

 

 キャサリンは子どもの頃から数学の天才で、黒人の女性としてはじめて、宇宙特別研究本部で本部長付の計算係に任命される。

 しかし、職場はオール白人男性。

 女性差別、人種差別、才能に対する嫌がらせなど、職場環境は最低。

 さらに、当時は黒人と白人のトイレの共同使用が許されていないため、キャサリンはオフィスから800メートルも離れた黒人用トイレまで書類のファイルを持って往復しなければならなかった。

 苦境にさらされていたのは、黒人電算室の同僚であり、メアリーも同様だった。

 

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(右がメアリー。ノスタルジックなワンピでしょうww)

 

 メアリーは技術部へ転属され、初日から開発中のロケットの課題を見抜く。

 その才能を知ったメアリーの上司は、黒人ではじめてのエンジニアになるべきだとメアリーを励ますが、彼女はエンジニアに必要な資格が黒人には与えられない現状を嫌というほど知っていた。

 そんな二人のずば抜けた能力を知り、人事の采配をしたドロシーもまた、悩みを抱えていた。電算室で多くの黒人女性をとりまとめ、その職務と職責は管理職と同等であるはずだが、地位は認められず、昇進もできなかった。

 

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(ドロシー:オクタビア・スペンサー 今回、一番かわゆい!!人物ですw)

 

 ドロシーは、白人女性の上司に何度も相談するが、「黒人は管理職にはなれない」と一蹴される。彼女は職責だけをつし付けられ、身分の保証も見返りも白人とは同等に与えられなかった。

 

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(左:キルスティン・ダンストが彼らの上役です。見よ、このエラソーな手つきをw)

 

 そんなとき、NASAにIBMという中央電算をつかさどるコンピューターが入ることがわかる。このマシンの導入が進めば、黒人電算室は解散だという。

 ドロシーはマシンが入ったあとも、自分たちの必要性を認めてもらうために、マシンをサポートするための研究をひそかに開始する。

 実際、IBMのマシンは技術者たちがこぞっていじり倒しても、うまく起動しないのだった。ここに自分たちのねらい目があるはずだ。ドロシーは生き残るためには、自分たちの価値を上げるしかないと研究に取り組む。

 

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NASAでマキュリー7という宇宙飛行士7人組を見守る三人)

 

 その頃、キャサリンはロケットの着陸軌道を計算する仕事をしていた。

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(リケジョ、すごいww)

 しかし、主任研究員であり、自分の先輩格にあたるスタンフォードは彼女に対して、機密を開示しない。データは日々更新されるため、彼女の仕事はどんなにスピードをあげても、終わったときにはデータがずれており、無用になってしまうのだった。

 そんなとき、彼女が夜遅くまで熱心に仕事をしていることを気にかけていた本部長が、彼女を機密会議に出席させた。この会議で彼女が多くの白人男性の前で鮮やかに軌道計算をするというパフォーマンスをすることで、宇宙飛行士のジョン・グレンが彼女を賞賛し、その日から、彼女に必要な情報が下りてくるようになった。

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(リケジョすごいwしつこい(笑))

 

 こうして、キャサリンがあきらめず、忍耐と知性で自分の地位を築き上げたころ、ソ連ガガーリンが地球一周を成し遂げたというニュースでNASAを驚愕させる。

 

 宇宙任務グループは、ソ連に一矢報いるために能力を結集することを誓い、情報共有の可能になったキャサリンの仕事は順調かに見えたが、本部長が彼女を必要とするときに彼女の姿が自席にないことが重なった。

 毎日毎日、40分も彼女はいったいどこで油を売っているのか。

 ある日、本部長は皆の前で、キャサリンを問いただした。

 そのとき、キャサリンはトイレに行くために、大雨の中ずぶ濡れで800メートルの距離を往復したばかりだった。ワンピースも髪も下着も靴もびっしょりだった。

 あまりに疲れきっていたキャサリンは本部長にむかって抗議した。

 ここには、黒人用のトイレがないからです。

 だから、自分は800メートルの距離を毎日、生きるために走っているのです。

 私がそういうことを、しなければならないことを知っていましたか?

 私はコーヒーをポットからではなく、鍋から組んで飲んでます。

 誰も、黒人と同じポットから飲みたくないからです!

 キャサリンが出ていくと、本部長はコーヒーポットに近づいて、黒人用と書かれたシールをはがした。本部長はそれまで、黒人の女性の彼女がどんな思いで仕事をしているのか、半分も知ってはいなかった。

 本部長はすぐさま、NASAすべての白人、黒人と名称のついたトイレの看板を取り払った。

 こうして、NASAの黒人女性の地位がまた一つ向上した。

 

 残されたのは、メアリーとドロシーだった。

 メアリーはエンジニアになるために、白人学校で資格を付与されなければならず、そのためには、ヴァージニア州法を覆すために裁判長を説得させなければならなかった。

 メアリーは自分を励ましてくれた上司の言葉を思い出した。

「裁判長、『はじめて』は歴史にはつきものです。その『はじめて』があるまで、前例はありません。でも、今後100年のことを考えてください。私はエンジニアになれる能力があるのです。でも、肌の色は変えることはできません。裁判長、どうか今後100年、重要な審議と思われるものをお考えになって、裁判長にとっての「はじめて」を実行してください」

 裁判長はメアリーの説得力のある論理と、熱い思いに心を動かされ、彼女が夜間のみ白人学校に通うことを許可した。

 最後の闘いはドロシーだった。

 

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(いざ、NASAへww)

 彼女はIBMという自分たち黒人計算室の女性を脅かすマシンのことをこっそりと調べ上げ、このマシンを機能させるには、自分たちの計算能力が必要だと見抜いていた。事実、マシンが機能しないことでIBMの担当者は頭を悩ませていたのだ。そこにドロシーが来て、自分ならば動かせると証明をしてみせたことから、彼女はマシンの統括としてNASAに任命される。しかし、彼女は自分ひとりだけではマシンを動かせないと主張し、黒人電算室の女性すべてをNASAに配置が替えしたのだった。

 NASAに黒人女性の存在が異彩を放って確立された瞬間だった。

 

 

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 ■レビュー

 この映画は冒頭で言ったように『働く女性に観てほしい』作品です。まさに、この物語では60年代の南部ヴァージニア州において、幾重にもハンデを背負った黒人女性が、その能力と、忍耐と、知性で自分たちの地位をNASAという白人男性帝国に築き上げる様子が描かれています。

 キャサリンは、恋人となる黒人大佐と出会ったときにこう言います。

「私は、スカートを履いてNASAでこの地位を得たんじゃありません。眼鏡によって、ここにいるのです」

 もちろん、スカートは色気、女性という身分の比喩。眼鏡は知性の比喩です。

 だから、これは能力をばりばりに発揮するリケジョの話かと思うのですが、ところが、そこは映画。

 

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(原題はドリームではないのですが、日本語訳できないです。

 FIGUREの意訳がむずかしい。誰かお願いします)

 

 働く女性の当時の最先端の60年代ファッションがここぞとばかりに展開されて、まさに私なぞはキャサリンのスカートのおかげでこの映画の大半をエンジョイしました。

 もう、ストーリーは働くキャリアウーマン・リケジョのお話ですが、彼女たちの見事な戦闘服たるや、キュート、キュート! キュート!の連呼です。

 とかなんとか言ってると、本質的な話ではなくなるのですが、私の場合、この映画で一番感銘を受けたのは60年代のファッションなのです。

 60年代と言えば、私の祖母の青春期の服装です。Aラインにウエストがしぼまった膝丈スカート。ツーピース。ボレロにワンピ。

 女性が女性らしいシルエットを保っていた、時代のファッションです。

 現代といえば、

 カラーはクロ、紺、白、ベージュ、ブラウン、オリーブ。

 これは、男性リーマンカラーの定番です。

 シルエットは、ビッグシャツ、Iライン、キュロット。

 これらは働くリーマンシルエットです。

 つまるところ、現代の女性のファッションが、働きやすさ重視の男性リーマンと同じになって久しいということなのです。

ちょっとオードリー風のふわっとしたスカートを買おうととすると、仕事で着用するには、浮きすぎるという始末。

そこらへんでリーズナブルに入手できる服のかわいくないことと言ったら。

 なので、この映画で続々と登場する彼女たちのこれでもかというぐらいの女性らしいカラーリングとシルエットのファッションショーにノスタルジックなものさえ感じてしまいました。

 そういうわけで、知性もいいけど、女性はやっぱり、どんなに頭がよくでも愛嬌とかわいい服でしょうと、思うのです。

 つまり、眼鏡も大事だけど、スカートはそれ以上に大事だ。

 人生の華だ!!

 そして、言い忘れましたが、今回主人公の黒人女性と鮮やかなコントラストを撮るべく黒、白、ベージュと葬式の垂れ幕ファッションを展開してくれた白人代表の女性キャリアは、私と同じ年齢のキルスティン・ダンスト

 彼女の疲れたような表情がモノクロファッションにぴったりでした。ああいうつまらないキャリアアイコンになってはいけないです。働く女性は笑顔と華やかさがなくては。

 そういうわけで、働く女性にこそ観ていただきたい映画今年ナンバーワンです。

 日本劇場公開は、9月29日。

 働く女性のファッション革命をここからスタートさせていただきたいものです。

 キャリアウーマンのキュートな洋服をどうか大量生産していただきたい。

 というわけで、9月の映画レビューはこれにてひと段落。

 次回から何をするか、少しお時間を下さい。

 

 おまけ。

 私がこの映画に影響を受けたミニファッションショーはこちらです。

 

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華やかさがない(笑)

 

9月15日(金)エイリアン コヴェナント(17)わかりにくいけど、映像は最高!!内容はありきたり笑

 

 

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(私の絵はこのレベルです)

 

 

 

本物は↓

 

 

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(ダニエルズ役のキャサリン・ウォーターストーン。好きなお顔ですw)

 

 

 出ました。

 エイリアン・コヴェナント。

 もう、この作品は何と言っていいか、感想が正直でてきません笑

 一言でいうと、一度見ただけではわからなくて、3回目でやっと理解できました。

 今回の「コヴェナント」はエイリアンエピソード3部作の「2」にあたるので、前作「プロメテウス」を観た上で、理解をしていないと楽しめないのではないかと思います。

 っていうか、観ても私は「初回」で理解できず、ぽかんとしてしまったわけです。

 それからというもの様々な考察サイトで「学習」し、内容を「理解」し、すっかり疲労してしまい、さすがに今回は、もうストーリーの理解は完全に追いついているので、「すごく楽しめました」

 これを、「楽しめた」と言えるのならば、なのですが……。

 で、感想はというと、実はあまり感想という感想がないので、「さらっ」と流していきたいと思います。笑

 

 

 

■ストーリー

 西暦2104年、植民者2000名を乗せた宇宙船「コヴェナント」号は、惑星オリガエに向かう途中、恒星爆発に巻き込まれ、充電サイクルに一部損傷を負う。10年の冷凍睡眠を緊急解凍させ、クルーを目覚めさせたのは、ウェイランド社製のアンドロイド、ウォルターだった。

 

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(ウォルターとデイビッドは今回はアンドロイドのバージョン、1.2として登場)

マイケル・ファスベンダーは善玉ウォルターと悪玉デイビッドを熱演w)

 

 この事故での宇宙船の損傷は軽微だったが、キャプテン・ジェイコブが爆発時の事故で死亡する。目覚めたクルーで修繕をし、再びオリガエに向かうまでの睡眠に入ろうとするが、近隣の惑星の一つから「人間の歌声」らしき電波を受信する。

 コヴェナント号の目的は植民者2000名を生存可能な惑星であるオリガエに運ぶことだが、その未確認の惑星には生命が存在する環境が整っているようだった。本来人間がいるはずのない惑星に降り立とうとする新任のキャプテン、クリス。故キャプテン・ジェイコブの妻であり、同時に副キャプテンのダニエルズは想定外の行動を危険とみなし、謎の惑星に立ち寄ることに反対する。

 しかし、クリスは強引にダニエルズを押し切り、惑星にコヴェナント号を向かわせる。

 惑星に降り立ったクルーたちは大気も水も植物さえある惑星の環境に驚く。声の発信源は8キロ先だが、途中、麦畑を見つける。あきらかに「人間」がいた痕跡があるのだが、その惑星には人間はおろか動物さえ見当たらない。

 生物学者のカリンは動植物を採取するためにレッドワードと二人で森に入っていき、ダニエルズ一行と別行動をとる。そこでレッドワードは足元の植物のようなものから発射された微細な黒い胞子を吸い込んでしまう。その胞子は意志があるかのようにレッドワードの体内に侵入すると、皮膚を突き破って体内で増殖しはじめる。レッドワードの体調はみるみる悪化していく。

 一方カリンたちと別行動をしていたダニエルズとキャプテンを含むクルーたちは明らかに人工物と思われる巨大な宇宙船を発見する。すでに機動力を失って久しい廃墟と化した宇宙船の中で、巨人のミイラと10年前に消息を絶ったプロメテウス号の乗員エリザベス・ショウ博士の写真を見つける。そして、近くのボタンを押すと、そこからコヴェナント号で聞いた歌声が再生された。これが音源だったのだ。

 と、そのとき別行動をしていたカリンからレッドワードの容体が急変し、瀕死状態になってしまったため、彼女が彼をつれて急ぎ移動船に先に戻るという連絡が入った。

 レッドワードはすでに意識をなくし、明らかに何らかの重い疾患にかかっているようにみえた。船内の医療施設にカリンとともに隔離されるが、すでに彼の体内でネオモーフ(今回のエイリアンの呼称らしいです)は幼体になり、彼の背中を食い破って誕生してしまう。医療室に閉じ込められたカリンも襲われて死亡。ネオモーフと格闘した船員がマシンガンで応酬した際、船内に火気が引火し船は爆発する。

 一方、ダニエルズ一行の中のトムも廃墟で胞子を吸い込んだため、死亡し、彼を引きずるように連れてきたときには、トムの体内からネオモーフが誕生する。脱出用の船は目の前で爆発し、同時に成長したネオモーフが彼らに襲いかかる。

 そんな危機的な状況に手を差し伸べたのは全身ローブをまとい、顔を隠した謎の人物だった。彼は助かりたければ、自分についてくるように言い、母船へ帰る手段を失ったダニエルズ一行はネオモーフから助かりたい一心で彼についていく。

 謎の男が黒い壁を押して彼らを導いた場所は、人間によく似た黒焦げの物体が山のように折重なったまま放置された巨大な広場だった。それら人間によく似た物体はすべて皮膚が黒く変色し、まるで黒い彫刻のようだった。彼らは一様に苦し気な表情をしており、死体だとすればこれほど大量の人間をどのような手段で殺害したのか想像の及ぶところではなかった。男はその不気味な彫刻の中を駆け抜けると、一行を石造りの建物の中に案内し、顔を隠していたベールをぬいだ。

 男の顔はコヴェナント号のアンドロイド、ウォルターに瓜二つだった。

 男は言った。

「私の名はデイビット。10年前にこの星に不時着したプロメテウス号の乗員だ」 彼がこの星にたどり着いたとき、ある事故から船に搭載されていた致死性のウイルスを散布してしまい、この星の生物は息絶えてしまった。変わりにネオモーフという生物が植物以外の動物に寄生し、繁栄しているという。エリザベス・ショウ博士も不時着時に死亡し、自分は助けが来るまでこうして生きてきたという。

 ダニエルズ達は、生還するための母船のコヴェナント号と連絡をとろうとするが、デイビットの真の目的は、彼らを助けるわけではなく、ある実験の材料にするためだった。ダニエルズ一行は、デイビッドの罠のなかで、ひとり、またひとりと隊員を失っていく。

 

 ■レビュー

 というわけで、スリラー劇、アクション劇のはじまりです。

 この映画の残念な点は①ストーリーがわかりにくい、ということと、②すべての映像がリアリティがあり、圧倒的な存在感を放つのに、ネオモーフ(エイリアン)だけが、CG感満載で画面から浮いているということです。

 まず、ストーリーがわかりにくいというのは、平たく言うと、映画の中で説明がないという一言に尽きます。もちろん、ストーリーの中盤あたりで明らかになることのひとつに、アンドロイド・デイビットは人間の敵であるということで、彼がこの惑星とエリザベス・ショウ博士にした所業、そして神になろうと生体実験をした結果、ネオモーフが進化したということなのですが、これが非常にリズミカルというか、ショートカットした感じで表現されるため、まじで理解に苦しみます。

 これは有名な知識ではあるのですが、「プロメテウス」と「コヴェナント」のストーリーをつなぐミニ映像があり、ここで「プロメテウス」のストーリー終了後にショウ博士とデイビットの後日談が語られています。これは本編のバックストリーでもあるのですが、やはりこのミニ映像のつなぎがこの本編では短いセリフに要約されてしまっているので、非常にわかりにくいことになっています。

 シリーズものと謳っているので、「わかる人」にしかわからない仕様になっているのかなとも思いますし、それほど「エイリアン 」シリーズにはネームバリューがあるということなので、本編で説明なしにされてしまったのかもしれませんが、まじでライトユーザーに優しくない仕様です。

 ただ、何度も勉強すると、するっと入っていけるので、そうなるとリドリー・スコットの映画は完璧な映像を作り上げているので、皮肉なことに感動の連続です。笑

 

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(わかりにくいけど、だいすきよw監督ww)

 

 惑星の壮大な自然あふれる映像もいいですし、宇宙服のデザインもイエローでおしゃれ。もちろん、船内も手抜きなしの美しさと機能性の感じられるデザイン。

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(見よ! これが、今回全滅するパーティだww)

 

 ネオモーフが信じられないくらいCGっぽくて軽い感じなのも、この映画の真のホラーを演出するのがアンドロイドであるデイビッドにあるからかもなんて思えたり、どんどん許せるようになってきます笑

 とはいえ、デイビッドはもうさんざん描かれてきた「人間に反逆し、人間の従属から逃れようとして人間に危害を加えるタイプ」のロボットで、彼が人間をつかってネオモーフをより強力な殺戮者に作り替えていく心情は、完全な悪にしか思えず、どうにも見ていて新鮮さが欠けます。

 ロボットが人間から自由になるという発想はそれこそ昔からあったわけで、そういうものを見せられるとどうしても、ありきたりと思ってしまうので、そこをどう新鮮に見せるかは、その作家性が問われるところだと思います。

 このテーマ自体はありきたりであるけれども、深いテーマであり、階級闘争というか、私自身も本当に掘り下げたいテーマではあるのですが、今回の見せ方があまりにもハリウッド的というか、見慣れた風景になってしまっていました。

 なので、このシリーズのクライマックスは、次作の最終章にあるということで、エイリアン・コヴェナント。次作こそお楽しみに笑

 なので、次作を楽しむために、今作を見に行ってみましょう~(説得力うすっ)

 

9月10日(日)ハクソー・リッジ(16)米 心に火がついて、「上映中」の「ダンケルク」と比較レビューがはじまった!無駄に長い今作

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 注意:ネタバレはないですが、9月9日上映開始された「ダンケルク」と第二次大戦を同じくテーマにしているというだけで、無理やり比較レビューをしています。本家「ダンケルク」は別途レビュー予定ですが、観る予定の方が読んでも問題ない仕上がりになっています。

 でもできれば、「ダンケルク」を観てから読んで下さい。

 私の独断と偏見に満ちた観方が炸裂しています

 

 

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 ■ストーリー

 ここでは、人も大地も空も同じ乾いた土の色をしている。

 幾度となく大地にめり込んだ砲弾は土ぼこりと兵士の体を空中に吹き飛ばし、容赦なく地面に降り落とす。

 大地に穿たれた穴の中にひとりの兵士が横たわっていた。

 下半身が吹き飛ばされ、真っ赤臓物が腹からこぼれている。兵士の両眼はビー玉のように虚空を見つめ、光の消えた網膜にうっすらと土埃が舞っている。

 あちこちに米兵が折り重なるように倒れ込んでいた。

 土と血のにおい。

 ここは死の大地だ。

 先ほど、数キロ離れた海上から戦艦による砲弾がこの台地に降り注いだ。味方も敵も関係のない空爆

 砲弾のせいで敵は一掃されたが、かわりに土ぼこりで明瞭な視界は消えた。

 デズモンドは音を立てないように一歩を踏み出した。

 背後で連隊の仲間たちも頭を低くして前進し始めた。

 また一つ死体を見つけた。

 顔の半分にウジがたかり、半ば骸骨と化した兵士はこちらを嘲笑しているように見える。

 すぐ先に冗談のように腰から切断された下半身が落ちていた。

 砲撃に被弾したのだろうか、それとも手りゅう弾をまともにくらったのだろうか。

 誰にも葬られることのないまま、彼らは何日こうして虚空を見つめているのだろう。

 デズモンドは首を振って前に進んだ。

 ふいに生ぬるい風が台地をなでた。

 前方に敵影はない。

 仲間たちはみな、その場の穴に低く体をうずめ、前方を見つめた。

 静かだった。

 どこなのだ。

 いったい、日本兵はどこに隠れている?

 穴の中か、それともあの木の影か。

 そのとき、風が静かに大気をかき混ぜた。

 仲間の一人がその場にしゃがみ込んだそのときだった。眼の前の死体だと思っていた米兵がゾンビのように起き上がり、半狂乱になって叫びだした。

 目の前で蘇生した仲間に驚いた兵士は同じように叫び声をあげた。

 次の瞬間、乾いた射撃音が空気を切り裂いた。

 銃弾は叫びつづける兵士の後頭部を正確に2発打ち抜き、血しぶきが背後にいた兵士にかかった。

 叫び声が止む。

 同時に向きあった二人の兵士を銃弾の嵐が襲う。二人の肉体に銃弾が食い込み、肉片が花火のようにあたりに飛び散る。

 あっという間に二人は赤い肉塊をと化す。

 それを合図に日本兵の容赦ない狙撃がはじまった。

 あたりでいくつもの手りゅう弾が炸裂する。

 土ぼこりと轟音。

 轟音と土ぼこり。

 絶え間ないな銃弾が仲間の兵士たちを貫く。

 前後左右で爆発が起き、その都度仲間の体が粉砕され、肉体から引きちぎられた四肢が地面にばらばらと落下する。

「くそたっれどもは、どこにいるんだ!」

「わからない! よく見えない!」

 兵士が叫んだ。

 二人の兵士が、顔だけを焼けた丸田の上にだし、そっと前方を確認すると小さな光点が頭のすぐわきを通り抜けていく。敵の銃弾だった。

 敵もこちらが見えないのだ。

 くそ、こちらもあてずっぽうに打つしかない!

 そう思ったとき、すぐ横で空気を裂く嫌な音が二回して、仲間の兵士が沈黙した。

 さきほどまでしゃべっていた兵士は銃弾に頭を打ちぬかれたのだ。

 なんてこった!

 こうして銃弾の嵐はますますひどくなる。

 

 スミッティは立ち枯れた木の陰から動けなかった。

 敵の銃弾がこちらをまっすぐ狙ってくるので、身動きがとれない。

 あたりでは手りゅう弾がさく裂し、土煙がもうもうと立ち込めている。

 仲間の悲痛な叫び声があちこちで響いている。

「衛生兵! 衛生兵! ここだ! 助けてくれ!」

 背後で衛生兵のデズモンドが助けに向かう足音がした。

つづいて、悲痛な声。

「大丈夫だ、連れて帰ってやる。こい、一緒にくるんだ!」

 デズモンドが傷ついた仲間に言っているのが聞こえる。

 また、一人やられた。

 スミッティは歯を食いしばった。

 すでに仲間は数えきれないほど死んでいるというのに、彼自身は無傷のままだった。

 ふいに彼は罪悪感に襲われた。

 ばかな、生きていることが申し訳ないなんて。

 そのとき、目の前に仲間の死体が転がってきた。

 上半身だけになった死体だった。

 彼は死体に手を伸ばした。

 血と土にまみれた首が力なく前後に揺れた。

 一瞬ののち、彼は死体を前に突き出し、木の陰から躍り出た。

 前方の塹壕からこちらを狙っている日本兵めがけてカービン銃の引き金をひく。

 銃撃の反動が右腰に響く。

 彼の反撃をまともにあびて、前方の日本兵が次々に倒れていく。

 相手も反撃をしてくる。

 その銃撃を、スミッティは死体を盾にして防いだ。銃弾が当たるたびに、左手に持った死体に重い反動を感じる。

 どうやらこの即席の盾は使えるようだ。

 スミッティが盾を放り投げ、塹壕に逃げ込むと、すぐ近くから仲間の声が聞こえた。

「続け、前につづけ!」

 声を同時に一斉に彼を含めた仲間たちが、銃弾の嵐の中に突き進んだ。

 これだけ進んでも視界は明瞭にならない。

だが、今は前に進むしかない。

 

 銃弾の中、次の塹壕に身を隠そうとしたとき、隣を走るヴィトーに弾が当たった。

 ヴィトーは体のバランスを崩し、糸の切れた人形のように塹壕に倒れ込んだ。

「ヴィトー! ヴィトー!」

 名前を呼びながら彼にかけよろうとすると、塹壕の淵に日本兵が立ちはだかるのが見えた。全員銃をかまえ、こちらにむかって引き金に手をかけている。

 とっさに目を閉じた瞬間、眼前に炎の柱が駆け抜けた。

 轟音とともに日本兵たちが赤い炎に巻かれ、もがき苦しんでいる。

 仲間の火炎放射器だった。

 突然、衛生兵が彼らの塹壕に走ってきた。

「衛生兵! ヴィトーが倒れた!」

 うめき声をあげるヴィトーにむかって言った。

「大丈夫だ! ここにいるからな」

 ヴィトーを衛生兵に任せて、今は進むしかなかった。

 

 戦闘は続いていた。

 傷ついた仲間を手当てするため、衛生兵のデズモンドは走っていた。

 戦闘当初、散発的に続いていた機関銃の音は、今は掃射に変わっている。

 銃声は止むことなく、あたりの空気を揺らし、土煙をあげる。

 デズモンドは頭を低くして、塹壕に転がりこんだ。

 と、同時に日本兵が覆いかぶさってきた。

 ものすごい力で押し倒されそうになる。

 まるで手負いの獣だ。

 そのとき、かなり近い場所から銃弾がとび、目の前の日本兵が打たれたのがわかった。衝撃と轟音。日本兵は突然ぐったりと彼に倒れ掛かってきた。デズモンドは死体と化した日本兵の下からはい出すと自分を助けた銃弾がどこから来たのか確認した。

 塹壕のすぐ先にスミッティがいた。

 スミッティはこわばった表情のまま彼にむかって目で合図をすると、先に塹壕を抜け出ていった。

 手りゅう弾の攻撃がすぐに始まった。

 足元に被弾した衝撃で、デズモンドは空中を飛び、仲間とともに地面に叩きつけられた。

 頭を軽く打ち、ふらついて起き上がると少し先からハウエル軍曹が自分を見ていた。

「怪我は?」

「大丈夫です」

 土煙のなか、デズモンドは自分の運の良さを感じ始める。

 また手りゅう弾が近くで爆発した。

 近くで恐怖に満ちた悲鳴があがる。

 煙の中、悲鳴の持ち主のほうへ駆け寄っていくと、両足の膝と太ももから下を無残にも爆発の衝撃で失ったラルフがのたうち回っていた。

 悲鳴を上げ続けるラルフの両足にベルトを巻いて、デズモンドは止血をした。

「大丈夫だ! ラルフ! 深呼吸をしろ! 大丈夫だ」

 もちろん、大丈夫なわけはない。

 ラルフは間違いなく、重症でこのまま放置したら死んでしまう。

「深呼吸しろ! 呼吸するんだ、ラルフ!」

 いいながら、ベルトでラルフの太ももを圧迫して止血をする。

 応急処置が済んだところで、彼らのすぐ頭上で手りゅう弾が爆発した。

 土ぼこりが彼らにふりかかる。

「ラルフ、いいか、お前を連れて行く!」

 必死の形相で半狂乱のラルフに呼びかける。

 そのとき、仲間の兵士が背後からやってきて言った。

「彼はもうだめだ。モルヒネを打って、彼をおいていけ」

 その兵士はラルフの無残な足を見た。

 ラルフが先ほどよりも大声で叫んだ。

「お願いだ! 俺を置いていくな、俺には子どもがいるんだ! 頼む、ドス!」

 デズモンドは彼にモルヒネを打ちながら言った。

「お前をここに置いていくもんか! 必ず家に連れて帰る!」

 モルヒネを打ち終わると、彼は大声で叫んだ。

「担架! 担架! 」

 

 一日目の戦闘での死傷者はデスモンドが思った以上に過酷なものだった。

 戦闘が始まり、数十秒で命を落とした幾名もの仲間たち。

 助けられなかった仲間だち。

 日本兵の執拗なまでの攻撃。

 6度、戦闘をはじめ、その6度とも撃退されているこのハクソー。

 ハクソーの北側は断崖になっており、戦車は入場できない。

 ここでは、白兵戦のみが勝利を決める。

 海上の駆逐艦からの圧倒的な砲撃で幾度となく攻撃をしているにも関わらず、日本兵は後から後から姿を現す。

 ハクソーをとれば、日本は落ちる。

 それがわかっているからこそ、日本兵も必死なのだろう。

 明日は、もっとひどい戦闘になるだろう。

 自分は生き残れるだろうか。

 デズモンドは胸ポケットに入れた聖書と聖書にはさんだ妻のことを思い出す。

 自分は生きて帰れるだろうか。

 神様、自分には何ができるでしょうか。

 

 

 

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(内容が沖縄戦であり、重い話なので、写真は撮影後の日本兵俳優とのショットをw)

(中央は監督のメル・ギブソン

(みんないい顔してるね~ww)

 

 

 ■レビュー

  

 ハクソー・リッジは日本では、前田高地と呼ばれている。

 太平洋戦争末期、沖縄に上陸し南下する米軍にとって、戦車の入れない断崖は、ハクソー・リッジ(弓鋸断崖)と飛ばれ、米軍と日本軍の激戦地隊となった。

 物語はアメリカ側から、日本は敵として描かれており、この戦闘で衛生兵として多くの仲間を救出したデズモンド・ドス衛生兵の実話が元になっている。

 さて、少し前に日本で上映されたこの映画だが9月9日封切りになった同じく第二次大戦(以下WW2)の西部戦線を活写したクリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」と比較してみると、この映画の特徴が際立つ。

 

 

 

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ダンケルクは第二次大戦初期、ドイツ軍の電撃戦によってフランスの港町ダンケルク追い詰められた英仏30万人の軍隊の脱出を描いた映画です)

(監督は「インセプション」「インターステラー」「バッドマン ダークナイト」シリーズのクリストファー・ノーラン監督)

 

 

 このブログでは原則一つのブログで一つの作品をレビューすると決めているので、ここで同じ大戦ものとは言え「ダンケルク」の話をするのは本来はルール違反だ。

 だが、どうしても言いたいことがあってこのブログを書いている。

 

ダンケルク

ハクソー・リッジ

 

 この二つの映画は同じWW2を扱う「戦争映画」であっても、まったく別物で、本来は比較されるべきものではない。

 ならば、なぜ、比較しては、と言ったのかというと、すでに「ダンケルク」を観た人の中で、「ダンケルク」に批判的な人を見かけたからだ。そういった意見の人たちのなかに「ハクソー・リッジ」のほうが面白いと言っている人がいたので、「ダンケルク」の擁護をするわけではないけれど、映画には幅広い表現方法があることを理解できれば、どちらの映画も同じだけ楽しめるのではないかと思ったからだ。

 だから今回のレビューは逆説的だけれど、そうした「ハクソー・リッジ」派の人たちに対するささやかな抵抗が根っこにある。

 

 

とにかく、結論を急がずにゆっくり行こう。

 

 

 まず、端的に言ってこの「ハクソー・リッジ」は感動作だ。

実話に基づいた勇敢な一人の兵士の物語であり、臆病者が勇敢な兵士として認められる成長の物語だ。

 それに対して「ダンケルク」はひたすら戦場の臨場感を目指した映画であり、生理的な恐怖や不安を最大限に引き出す「効果」を狙った映画だ。

 だから、「ダンケルク」の目指すところは、実をいうと必ずしも「感情的なカタルシス」をつきつめた映画ではない。もちろん、ノーラン監督はそういう「感動作」を撮ることはいくらでもできることはバットマンシリーズで証明済みだが、こと「ダンケルク」に関してはそのベクトルを目指していない。

 つまり、ダンケルク」に「物語的感動」を求めていくと肩透かしにあうことになる

 ごくごく単純にWW2を舞台にした「感動」を映画に求めるなら、「ハクソー・リッジ」を観たほうがいいと私は思う

 

 まとめると、この二つの映画は、映画が人に提供する生理的・感情的サービスにおいて対極ということだ。くりかえしになるが、「ハクソー・リッジ」は、物語の感動を追求しており、それは、変化の連続をもって達成されるものなのだ。

 

 変化 ① 臆病と思われていた主人公が、勇敢な兵士と認められ、

 変化 ② 主人公の勇敢さによって、軍隊が絶望的状況から希望を持つようになり、

 変化 ③ そのことで、戦地における絶望的戦況が好転し、

 変化 ④ さらに、そのことで主人公は絶望から救われる。

 

 

 

 すべてが、主人公が信念を貫くことで、仲間が変化をし、戦況が好転し、それらすべてが観客に感情的カタルシス(満足感)と感動を与えるという構造になっている。

 映画におけるこうした手法は、公式のようなもので、この公式がパブリックドメイン並の周知の事実だとしても、よほどひねくれた人間でないかぎり、「感動」するようにできている。

 事実、私はこうして「ハクソー・リッジ」を因数分解したところで、涙しないわけにはいかなかった。それに、いずれにしてもこの映画における感動の公式は、観客が映画を観にくる動機のナンバー1か、2に位置することは間違いない。

 

 観客は「感動したい」のだ。

 では、ダンケルクは何を目指したのか。

 ベクトルは様々だが、ノーラン監督がもっとも目指したものは「臨場感と没入感」だろう。

 

 今、その場にいるような感覚。

 

 

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ダンケルク:空中戦の様子。このシーンはまるで英国戦闘機スピットファイアに乗っているような気分にw 4DMXの努力により、お尻の下でイスが動いて、風がふきつける笑)

 

 ノーラン監督は今作で映画におけるリアルさを追求している。

 それは、彼がCGを使わずに極力というか意地になっても使わないようにしていることからも伺える。それはCG全盛の時代にあって時代に逆行しているようにみえるが、人は現在、かなり緻密なCGであってもそれが実物でないと見分けることができる。

 そのノン・リアルな虚構は映画という虚構に大きなひびを入れることもまた事実だ。どれほど恐ろしい怪物であっても、どれほど巨大な戦艦であっても、それがCGであるとき、見た目には及第点であっても、不思議に心は大きなマイナス点を無意識につけている。

 つまり、観客がシーンに期待する恐怖、畏怖、感嘆といった気持ちをCGでは完全発動させられないのだ。「させられない」というと、誤解がある。つまり、観客は「ある程度」驚いているので、「きれいだねー、うわ、綺麗だねー」と口には出す。だが、人が心底目の前の出来事や風景を美しいと思い、圧倒されたときは、無言になるものではないだろうか

 

 先日「死霊のはらわた」というスプラッタ映画のリメイクを観たのだが、ラストの血液のどしゃ降りの場面は圧巻だった。CGでいくらでもできるのに、数百リットルという血糊を用意して、それをぶちまけたのだ。この労力が見事に結実して、内容がゾンビであろうと、この映画を観て「心底よかった」と思った。

 何にせよ、CGに背を向けて、やたら労力と予算のかかる実物を用意し、リアルを追求するという姿勢に感動を覚えない観客はいない。その選択と覚悟と行動に私は感動した。

 だが、そういう制作サイドの努力はさておき、いったいCGと実物の視覚効果における最大の違いはなんなのだろう。

 存在感というか、質量的な何かなのだろうか。

 私が思うにCGの嘘くささはその映像に重みがないことであり、文字通り質量や重力がいまいち感じられないところにある

 CGは、どれだけ精巧につくられていても、やはり虚構でしかないと人間の脳が認識してしまうのは、この重さの表現の不足ではないだろうか。だが、そんなことは百も承知であろう映画制作サイドがCGではなく、実物を用意しようとなると、そこには時間と予算が深くかかわってくる。つまり、実物を用意することは、現場にとってリスクになるのだ。

 映画界のこうした状況を強引に打開しようと思ったら、ノーラン監督レベルの知名度や支援をもつ力がなければ可能にならないのだろうし、ノーラン監督の「ダンケルク」撮影時でさえ、相当もめたようだ。

というわけで、ノーラン監督が目指す臨場感やノーモアCGは映画表現においてはたしかに意味があることなのだ。

 

 

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ダンケルク:兵士が船から落ちたり、狙撃されて水面に落ちるたびに4DMXから水しぶきが噴射され、顔の右半分の化粧がほとんど落ちる楽しい被害が、、、笑)

 

 

 ただし、これも私の独断と偏見なのだが、映画が観客に提供する「いま、ここではない世界の臨場感」というサービスは、多くの観客が映画に求める「感動」の必要条件ではあっても十分条件ではない。

 これは予測でしかないのだが、おそらく人間は臨場感や没入感というものにすぐ「慣れて」しまうのではないだろうか

 それは、映画のCGやゲームのCGは日々、「リアル」になり、4Kが8Kになり、画面はよりリアルになっていっているし、少し先の未来では、映画は、もっと個別対応になり、一人ひとりが映画に全身を没入する技術が実現しているかもしれないが、これまで私たちはそれにすぐに慣れてしまった。

 映像的に美しく輪郭が明瞭であることには、人間はすぐに慣れてしまうのだ。

 人はそれこそはじめは前代未聞の画面に「感動というより、驚愕」するかもしれないが、すぐにその美しさを当然のものとして認知するようになる。その理由は、おそらく人間の脳は視覚的なものに対して、「いつまでもびっくりしていると、危険を回避できない」と判断するからではないだろうか。

 「ダンケルク」を4DMXで鑑賞したとき、イスはおおげさに振動し、水も風圧も容赦なく浴びたためプチアトラクションとしては、十分楽しめた。

 しかし、楽しめた一方で、これは映画というより、乗り物だなと思ったことも事実なのだ。

 なぜなら、臨場感を追求した映画のストーリーの運びは、淡々としており、正直あまりの抑揚のなさに、開始20分で不安になってしまったほどだ。

 初日とはいえ、それほど観客は多くなかったが、だからこそ、ノーラン監督の稀代の作品を初日に観に来る、しかも3000円近く支払ってWW2の人気が高いとは言えない映画を観に来る人々。

 おそらく感動を期待しているはずである。

 その観客を前に、臨場感こそあるものの、ストーリーはさほど劇的な展開もなく淡々と進行していく。正直に告白すれば、私は心の中で、「ノーラン監督、これやばくないか」と祈るような気持ちに何度かなってしまったのだ。

 この映画はこう見るのがいいのだろう、と心の中ではわかっているつもりの私でさえ、あまりに静かな展開のストーリーに違う意味でスリリングな思いを味わったわけで、一般のエンタメ活劇を求めている観客の皆様におかれましては、それはもう大変な思いをされたのではないかと思う。

 臨場感や没入感は映画においてもちろん必要な条件だが、人が映画に求めるものは本質的に「感動」であると思う。その感動の中にはもちろん、没入感や臨場感は必要だが、それは映画の物語における感動というより、アクティビティやアトラクションに求める刺激に近いものではないかと思う

 もちろん、映画がリアルになっていくその過程で、ノーラン監督の「ダンケルク」は映画業界に対する挑戦と冒険であり、そのことはすばらしいことだと思う。

 思うけれど、私は人を感動させるのは、やはり人の物語なのではないかと、古臭いことを考えてしまうのだ。

 

 

 やばい。ハクソーのレビューをしていないというわけで、話を元にもどします。

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(ハクソーリッジ:もはや今回のレビューはカオスすぎる。。)

 

 

ハクソー・リッジ

 この映画の魅力に一つは冒頭で描写したように、白兵戦の生々しさだ。

 描写した部分はハクソーについて、すぐのシーンで、あれから兵士たちはますます過酷な状況に追い込まれていく。

 私はこの残酷でありながら、臨場感のある戦闘シーンに感動し、5回ほど繰り返し見てしまった。何度見ても新しい発見があるシーンで、多くの兵士が同時に体験する戦場は重層的であり、飽きない。後半1時間はほぼこのとどまることを知らない戦闘シーンのため、「プライベート・ライアン」の冒頭20分に魅せられたり、「ブラックホークダウン」をヘビロテしたことのある人にはぜひおすすめの映画だ

 

 もう一つの魅力は、デズモンドの勇敢な生き方だ。

 戦争という銃を手にとり戦わねばならない戦場において、銃を持たず良心的兵役拒否を実行し、苦難に満ちた運命を選び取ったデズモンド・ドス。

 彼は実在の人物で、衛生兵として敵兵を殺すことなく、誰もがたじろぐ戦火の中、多くの傷ついた兵士を救出して英雄となった後にも先にもない人物だ。

 戦争という場面で、勇敢で祖国を守る男でいたいと思い、同時に銃を持たないで戦争に参加するということがどういうことなのか。本来ならば、想像もつかないことだ。

 しかし、それをやった人間がいる。

 そのことに勇気と感動を覚えない人間はいないだろう。

 この物語では、日本兵は敵兵だが、彼ら、いや私たちもまた、時代という敵と戦わなければならない運命だった。

 ドスの物語も十分に感動するが、私たち日本人はまず、沖縄で何が起きたのか。

 沖縄の海がなぜあれほど美しく見えるのか、この映画を通して少しでも沖縄の歴史を知ってほしい。

 

 そして、最後に俳優について。

 今作で、主人公デズモンド・ドスを演じるアンドリュー・ガーフィールド

 

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(首が長くて、目が少し離れていて、彼、美形な亀に見えませんか?(笑))

 

 実は、「ハクソー・リッジ」と同じ時期に「沈黙」にも出演し、キリシタン弾圧期に日本を訪れた宣教師を演じている。

 「沈黙」は、遠藤周作を原作とする、暗いとしかいいようのない文学作品だが、信仰の弾圧に対して、人はどうなるのかそれを扱ったのが「沈黙」だ。

 神は沈黙を守る。

 この救ってほしいときに神が沈黙したままであることが、「沈黙」のテーマだが、「ハクソー・リッジ」で、デズモンドには神の声が聞こえる。

 しかし、「沈黙」では肝心なときに神の声が聞こえないのである。

 キリスト教徒にとって生きる最も重要な指針である「神の声」。

 これを聞いたもの、そして聞こえないもの、この二つの人間を短期間に演じ分けたガ―フィルド。

 信仰という日本人にはなじみのない概念について、次回では深く掘り下げてみるかもしれない。 

 というわけで、今回も長くなってしまったが、「ハクソー・リッジ

 「ダンケルク」を観てから、比較してみるとそれぞれの魅力を堪能できるはずだ。

では、次回もお楽しみに。

 

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(沈黙:もう今回はほんとカオス。3作もルール違反だよね!!)

 

 

 

9月10日(日)お嬢さん(16)韓国 エロティックメルヘン~悪人に天罰を! 虐げられた主人公たちに幸福を~

 

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【お嬢さん】(16)韓国:

 サラ・ウォーターズのベストセラー【茨の城】原作にしつつ舞台をヴィクトリア朝ロンドンから日本統治の朝鮮に移したゴシック・エロ・メルへン。そう、私は、あえて【メルヘン】と言おう。

 

 

 この映画、レビューするのがすごく難しいです。ジャンルでいうと、エロティックコメディになるのでは、ないかと思っています。もしくは、エロティックメルヘン。宣伝で言われているようなエロティックサスペンスではない気がします。

 むしろエロコメです。

 しかも、レズもとい、百合です。

 百合。

 ①ゆり科ゆり属の多年生植物の総称。花弁三枚、同色のがく三枚の、つりがね型の花が夏咲き、笹(ささ)に似た形の葉をもつ。山野に自生し、観賞用に栽培もする。鱗茎(りんけい)(=俗に「根」と言う)は食用(ゆり根と言い、高級食品である。しかし触感は芋っぽいというか、芋である。どこが高級やら……)

 

女性の同性愛のこと。また、それを題材とした各種作品。作品の場合、女性同士の恋愛だけでなく恋愛に近い友愛や広く友情を含んだ作品 別名ガールズラブ

 

 説明は不要かもしれませんが、この場合、もちろん②です。

 

 さて、百合って、偏見かもしれませんが、基本的には男性を対象としたジャンルではないでしょうか。翻って、やおいもといボーイズラブを読みあさっている男性が少ないのと同じで、フィクション上のレズ・BLの大半の消費者は異性である印象があります。(なんせ、BLの中にはマッチョひげずら中年男性のきこりと華奢な青年が絡み合い、はげしくアレするカップリングもあるほどで、これをいわゆる「健全」な男性が読むとも思えなかった筆者の思い出があるわけです……)

 

 ざっくり言うと、百合の中でもレズビアンセックスのマーケットは、男性である。

 この私の独断と偏見に満ちた前提がずれていると、ちょっとこの先困ってしまうのですが、どうでしょうか。

 とにかく乱暴かもしれませんが、この私のエロフィクション定義で話をすすめると、この映画って誰得なんだろう?、とふと思ってしまったのが映画の初回です。

 

 

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(原作はゴシックロマン、古いお屋敷に貴族ですが、この映画ではお屋敷は和洋折衷。

 言語も韓国語と日本語が絡み合い、どちらの言語も似ていてこの際、韓国語も少し勉強しようかと思ったくらいですむにだ)

 

 この「お嬢さん」過激とまでは言えませんが、親と見るにも同性の友人と見るにもはばかられる程度には赤面する描写があります

 たとえば、お嬢とメイドのオーラルセックス中に股の間からあえぐお嬢の顔が見えるカメラアングルとか、ピストン運動ばりの69を横から写すとか。

 この百合セックスのシーンは、同性の私としては、食欲が少し減退するような気がしました。もう、完璧にAVだと覚悟をすれば観られるのですが、この作品、ストーリーがきちんとしているため、映画であるという前提が映像(AV)に追いつかずにざわついてしまいます。

 

 そういうわけで、とりあえずストーリーのおさらい。

 以下、ネタバレなしです。

 

 

 

 

 ■ストーリー

 時は1939年の韓国。

 詐欺師集団に養育され今日まで生き延びた少女スッキ。

 彼女はみじめな境遇から這い上がろうと伯爵に扮した詐欺師の男と組み、ある計画に手を染める。その計画とは、豪邸に叔父に幽閉同然に閉じこめられた令嬢、秀子に取り入り、「伯爵」と結婚をさせ、その財産をかすめとろうというものだった。

 子供の頃からスリや窃盗で育ったスッキは人をだますことにかけては百戦錬磨。スッキはメイドの珠子になりすまし、純朴な田舎育ちのふりをして、あっという間に深窓の令嬢秀子の心をつかむ。しかし、秀子は孤独な生い立ちで、友達もおらず、同い年の珠子とはすぐに友達同士のように親しくなる。珠子は寛大で時に寂しがりや、そして美しい秀子の怪しい魅力にいつしか惹かれていく。しかし、それは伯爵に秀子を渡したくないという嫉妬に変わっていく。だが秀子が叔父から強制された篭の鳥の状態から抜け出すためには、やはり伯爵と結婚させるしかないのだった。

 

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 お嬢様(秀子)も、伯爵よりも珠子であるスッキに信頼を寄せているように見えたのだが、ついに伯爵と秘密の駆け落ちの日が近づく。その日、珠子は秀子に結婚初夜の夫婦の営みについて尋ねられ、やけになった彼女は、秀子にキスの仕方からセックスまで教えてしまう。それは、意外というほかない体験で、秀子との行為はあまりにも刺激的で底知れぬ快楽の連続だった。絶頂に上り詰める珠子と同じ意識の中で、ますます秀子を放したくなくなる珠子。

 だが、ついに「かけおち」の日がくる。叔父が長期不在の間に、珠子は秀子と伯爵と三人で屋敷を脱走するのだ。

 秀子は、屋敷の外の世界にでた当初は、珠子にべったりだったが、初夜には引き離され、隣室で激しい夫婦の営みをする秀子と「伯爵」。嫉妬と怒りのため耳を塞ぐ珠子。そうこうするうちに、なれない環境からか秀子の精神が少しずつふさぎ込んでいく。当初の計画どおり、珠子と「伯爵」は秀子を無理やり精神病院に幽閉し、その財産を山分けする段取りをはじめる。

 心を鬼にして、秀子への終着を捨て去る珠子。だが、精神病院に着くと、病院の看護人と医師たちにがっちりと身体を拘束されたのは、珠子のほうだった。

 なんと、秀子ははじめから伯爵に扮した男とグルだったのだ。

 なんということだ。

秀子を観ると複雑な表情が浮かんでいる。

「お嬢さま!」

 悲痛な叫びをあげる珠子。

 一方、男は薄ら笑いを浮かべている。

「このやろおおおお!!!」

 詐欺師の男に罵詈雑言をあびせる珠子。だが、まさに情緒不安定の様を演じているようにしか見えないことだろう。

暴れだす珠子は両脇から看護師に取り押さえられ、あっという間に病院の厚い白壁の奥に連れ去られた。

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(とりおさえられる珠子。まさか、自分が幽閉されるとは!!)

 そう、秀子は男を知らない純朴な令嬢ではなかったのだ。彼女は、幼少の頃からSMプレイを朗読する叔父によって調教され人間の腐敗しきった日常にもまれ成長した欺瞞と変態の世界の住人だったのだ

 私は、幼いころからおかしかった……。

 こうして、秀子の独白がはじまる。

 

■レビュー

 この作品は3章仕立てで、1章がメイドに扮する天涯孤独の孤児、スッキ(珠子)の視点。2章が深窓の令嬢と思われていた秀子視点で、彼女の本当の生い立ちと彼女の計画があきらかにされます。そして3章がクライマックスで、すべての前提、つまり当初の計画にどんでん返しが入ります。

 秀子と珠子の関係はどうなってしまうのか。精神病院に隔離された珠子は脱出することはできるのか。

 物語は、二人の関係性と秀子の財産がどこに転がり込むのか、クライマックスに向かって急展開していきます。

 

 というわけで、構成はタランティーノの「パルプフィクション」風の章立てとどんでん返し、人物視点が変わることで、同じシーンに違う意味を持たせるプレイバック手法を使っています。

 章が変わるごとに、全段の設定が覆り、映画としても十分楽しめる展開で、多くの人が納得できる仕上がりになっています。

 問題は、タランティーノの手法を使ってはいても、だまし合いの動機に深くエロスが関わっていることです。

 エロス。

 そして、この作品の場合は百合(を超えてレズ)です。

 この映画を観たはじめの感想が正直「気持ちわるい」だったのも、女性の私としては仕方なかったのかな、と思います。

 この嫌悪感は単純に百合という同性愛について、自分のセクシュアリティが合致しなかったからおこるのですが、冷静にもう一度この映画を観てみると、百合も受け入れられることに気がつきました。というか、慣れとも言えるのかもしれません。

 それは、実に百合という生物学的にはタブーである同性愛が無理なく描かれていることに気がつくからです。

 作品中、珠子と秀子が恋愛関係になる心理的な動機がしつこいくらいに丁寧に描かれています。

 だいたいにおいて、男性向けのエロがすぐにアクションを開始してしまうことに対し、女性向けのエロはその過程、つまりなぜ彼を好きになったのか、好きになってから、アクションに至るまでの課程が長々と描かれます。それは、男性がセックスというアクションを愛でるのに対して、女性はセックスに至る心理を愛でる傾向があるからであり、この前提がエロフィクションにおける差となっています。

 このベタな前提からすると、この映画はちゃんとした恋愛映画であり、同時にエロなのです。つまり、過程は女性向けであり、セックスシーンかつジャンルは男性向けなのです。なので、観ていて、誰得なんだ? と私が不信に思ったのも無理がないのではないかと思います。

 乱暴にまとめてしまうと、視聴者が男女どちらであってもこの作品は楽しめます。

 一抹の不安があるとすれば、それはやはり女性として百合ものを心地よく観ることができるのかな? ということです。

 それは、あなたしだいです。

 心と自らのセクシュアリティを切り離してしまえば、楽しめます。

 この映画では、秀子も珠子の周囲にいる男性が鬼畜ばかりで、女性を経済的な食い物、性的奴隷としか評価しません。秀子にとっての育ての親である叔父、そしてスッキに金儲けをもちかけてくる詐欺師伯爵。こんな男性たちに奴隷にされてきた女性であれば、女性を好きになるのも無理はない、とも思わせる構造になっています。

 ただ、この構造が心から感情移入できるかというと正直難しいです。

 それは、演出や少女たちのセックスがあまりに、冒険的であり、快楽におぼれすぎ、一種のアクティビティに見えるからです。つまり、恋愛関係における互いが互いを必要とする危機感というかシリアスさが意図的にはがされており、物語の上では、二人は出会うべくして出会った形式をとっていますが、それがおとぎ話のようにどこか現実感を欠いた演出になっているのです。だから、この作品で二人が惹かれあう構造は丁寧な描写であるけれど、感情移入するのは難しい

 

 それでも、ふと私も考えてみるわけです。

 これまで、いい男性との出会いがあったとしても、現在シングルの私はむしろ女性を好きになるかもしれない、と!

 そうすれば、出会う確率は単純に2倍になるのだから、人生は楽しさに満ちるのかもしれない!!

 いや、ちょと待て。わずらわしさや事故が増えるだけかもしれない!!!

 自分が両刀ならば、悩みや問題も2倍か!!!!

 ああ、それはまずい……

 というわけで、あなたも、このエロメルヘンを観て、ひとしきり身悶えしてみませんか。

 悪人に天罰を。

 虐げられた主人公たちに幸福を。

 そんな寓話をぜひ、ご賞味あれ。

 

 蛇足ですが、この映画で伯爵を演じるハ・ジョンウ、気に食わない顔つきだ(演技でね)思ったら、チェイサーで犯人役をしていたのでした。どおりで。。。

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 いっつも、変な役やるよね!笑

9月8日(金)シン・ゴジラ(16) 思いのほか、すかっとした東京破壊!!病んでる、私?

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 なぜ、いま「シン・ゴジラ」なのか。

 深い意図はありません。でも、すごくよかったです。

 「よっしゃ!」と、拳をにぎりしめたいです。

 以下、その理由です。

 

  (私はWWFに寄付するほど野生動物が好きなのです)

  • あのエヴァ」にまったく入り込めなかった私が庵野監督と和解できるほど、この作品が世界系から完全脱出していた。
  • 長谷川博己演じる政治家がきちんと災害対策にたいするリーダーシップをとり、それがうまくいって(映画だからね)政治家やリーダーに対する希望がちょこっと更新された。
  • ときどき、仕事の書類を燃やしたい衝動がある私にとって、背徳と腐敗の都、東京が総務省文科省(主にここから仕事がおりてくるため)ごと破壊されるのを観られて、思いのほかすかっとした。
  • 自衛隊の武器、弱すぎて切なかった。
  • 石原さとみ、かわいい。
  • 大杉連の総理、使えなさ具合がリアルすぎる。

 

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気持ちいい! もっと壊せえええ!!(笑)腐敗と背徳の魔都トーキョーの図

 

 みなさん、すでにご覧になったかと思いますが、洋画好きな私も実はちょろちょろと邦画も間違いなく観ているのですが、レビューを書くほど「ぐっと」くることが正直少ないため、なかなかレビューの番がきません。

 先日も「本能寺ホテル」を観まして、よかったんですけど、「とくに感想が……」という感じでした。わかりやすいし、それなりにおもしろいんですけど、何かをしゃべりたくなるかというと微妙で、なんの抵抗もなく心にすっと入ってきて、いつのまにか消えていく。そういうのを観てしまうと、「邦画、次なにみようかな」となりにくいわけです。

 でも、この作品は心の底にまかれた映像や発想やシーンの種がエンディング直後にふつふつと湧き上がってくるというか、「おもしろかったぜー!」と叫びたくなるというよりは、「いやあ、やればできる」と親が子どもを、上司が部下を、先輩が後輩を、映画ファンが名監督の頭をなでてやるような、そんな心境にさせてくれるものでした。

 

 

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(ぜんぜん、効かねえよ。。。 多摩川をわたりま~すwwの図)

 

 ゴジラ、何がよかったかというと、繰り返しますが虐待シーンがなかったことです。

 

 

 冒頭で、余貴美子演じる無表情の防衛大臣自衛隊の航空支援部隊でゴジラをロックオンするシーンがあります。

 

 こちら↓

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 もう、やめてーって感じでしたね。

 

 

 すでに都内も一部ぐっちゃぐちゃにして、あなたの歩いたその後はがれきの華がさくでしょう状態になっているにも関わらず、ゴジラをよってたかって虐待するのは卑怯だ! 自衛隊

 と、思ってしまうわけです。

 

 まあ、相手がトカゲでしかなく、無機質なロボットであればまだしも、明らかに爬虫類というか、トカゲなわけで、とてもとても、機関銃で射殺していい生き物ではないですよ

 結局邪魔が入って抗議する間に、掃射は中止になり、そこで私の出勤時間になって映画はストップしてしまい、つづきは帰宅してから続きを観ようと思っていました。

 しかし、昨日の仕事中、ゴジラが虐殺される心配で仕事も手につかず、隣の後輩にそっときいてみたわけです。

「ねえ、ゴジラみた?」

「みましたよ」

「今朝、冒頭だけ観てきたんだけど、あのあと虐殺シーンとかないよね」

「ネタばれありですか?」

「ネタバレなしで」

 

 

「うーん、虐殺はないですよ」(後輩にこやかな笑顔で)

「まじ?」(私、超絶不安そうな顔で)

ゴジラ強いですから」(後輩にこやかな笑顔で)

 これを聞いて、ほっとした私は仕事に戻ろうとしましたが、すぐにまた不安になりました。

 

 

ラストでも、虐殺されないよね?

 海にそのまま帰宅したり、ぱっと消えたりして、臓物とかスプラッタとかないよね?

 

 

「……ネタバレなしで?」

ネタバレなしで

 

 

「……えーと、たしか虐殺はないです」

じゃあ、どうやって終わるのよ、映画

 

 

「ネタバレなしで?」

ネタバレなしで!

 

 

「うーん……(こいつ、ラスト聞いてるくせにネタバレなしってどういうことだよという不審げな顔の後輩)」

 

 

 

 

 

 

ねえ、どうなの!?(むきになる)」

 

「……うーん、終わるんですけど、続編もあるかな~って感じで終わります」

 

 

「……あ、そう」

 

 

 こうしてほっとした私は、帰宅してラストまで見ることができましたよ。

 後輩の言ったとおり、紆余曲折はあるものの、ほとんど虐殺シーンはなくラスト。

 本当によかった。笑

 もう、これが一番大きい。

 

 それもそのはずで、この作品でゴジラは、完全に個性というかキャラクター性をはぎ取られており、ただの破壊兵器的側面が強く描かれていたことも、ゴジラがただの兵器として見える意図に寄与していました。

 ゴジラという生物の心理的側面が描かれていないという批判もあるようですが、この作品のテーマはあくまでも災害対策をする人間の群像劇がメインであり、ゴジラは完全な狂言まわしの位置でしかないと思います。

 つまり、突然現れた巨大生物であるものの、あまりに生物として描くと、虐待シーンになってしまい、私のようなガラスハートの人間が観たら、卒倒したあと、庵野監督に毒入りレターを送りかねない。また、そうでなくても、小さな爬虫類好きのお子様は泣きわめき、自衛隊ファンもたかがトカゲを虐待するのに、最新兵器を使うなんて卵を戦車で虐待するようなものだ!!とクレームを出しかねない。

 なので、ゴジラは生物でありながら、生物らしくないつまり、動くけれど、喜怒哀楽を排し、見せ場はレーザービームを背びれから東京上空四方八方に打ちまくる兵器という描き方にとどめ、それを唖然として見守る災害対策本本部の面々という構図が立ち現れます。

 

 そういうわけで、映画のメインは災害対策本部、この場合は巨大不明生物特設災害対策本部巨災対)側の群像劇です。

 

 

主人公は長谷川博己演じる、矢口蘭堂・肩書は内閣官房副長官(政務担当)で、巨大不明生物特設災害対策本部巨災対)の事務局長です。

 

 彼が、日本の省庁のトップやら学者やらを集めて、ゴジラタスクフォースを取りまとめるのですが、その際、国連を操作するアメリカも躍り出てきます。

 もう、このあたりのアメリカのやり方は本当にえげつなく、例によって核をゴジラに落としちゃという発想にまたもってきます。

 その前段階としても色々言ってくるのですが、総理もそれにたいしてぼそっと「あの国はまた……」とぼやきます。

 このあたりは、現在の日本をぼやきながらもダイレクトに表現するもので、日米地位協定を未読の私はまだ完全な日本の位置を理解していませんが、アメリカはいざとなったら、日本の国土や日本国民のことなどどうとも思っていないことを改めてつきつけられましたね。

 もちろん、映画なので、アメリカ側にも日本との連携をもっと穏やかで確固たるものにしようと思う人々はいるはずですが、現在もそれは現実の世界では覆らない状況です。

 映画においては、より巨災対を追い詰めるための演出としてアメリカは日本に核を落とす方向で圧力をかけてきますが、それをできるだけ時間稼ぎして、矢口は、東京と焦土化しないためのゴジラ制圧プロジェクトを最後まで続けていきます。

 この人々の結束力を2倍にも3倍にもしていくのがリーダーの役目なのですが、まあ見ていて気持ちがいいです。

 仕事人の立場から見ても、大きな仕事はいかに多くの人の力をレンタルできるかという一点につきるということが教訓として描かれていますし、うまく行かなかった現実の3・11と比較する(あてつけてみる)と尚、歴然とします。

 普段から、巨大災害に対して、タスクフォースを結成することを想定するのは難しいですが、仕事をしながら、どこにどんな人間がいて、自分に味方してくれる割合はどれくらいなのか、何を差しだせばその割合が上がるのか、自分の知らない潜在味方をつなげてくれるのはどの人間なのか、そういうことを頭にいれながら仕事をしていうことが、結局は「しごと」を形にしていく上では大事なのかと思います。

 だから、核攻撃を容認してしまえば、そういった力を発揮する人々の生命それすら危うくなるわけで、完全に阻止しなければならない。

 その意味で雑な解決方法によらず、日本の省庁、各界のブレーンが矢口のタスクフォースの元に集結し、自国の危機を自国で解決できるこの話はまさに理想的です。

 ゴジラによる破壊と殺戮の限りを尽くされた東京、つまり日本をみることに奇妙なほど爽快感をおぼえるのも、そこにある腐敗した永田町や霞が関を一度、瓦解させてしまいたい、と誰もが思うからでしょう。

 スクラップアンドビルト。

 映画で矢口が言っているように、常に日本は外部からそれを受けてきたのであり、自ら改善することはできませんでした。

 ペリー外交による明治維新にはじまる260年間続いた徳川幕府の瓦解、そして太平洋戦争の結果としての核の投下。日米安保。そして、2011年、東北大震災。

 そして、ゴジラの襲来。

 ゴジラはもちろんフィクションですが、日本はいつまで自らの変革を外部からの圧力に頼るのでしょうか。

 東京が炎に包まれ、総務省文科省も瓦解するのを観るのは爽快でした。

 しかし、そのあとに待っていることを思うと、単純に明日からどう食べていくかの算段をするはめになります。

 人智を超える災害によって、腐敗も背徳も一掃されるというのは幻想でしかありません。

進撃の巨人」で描かれたように、人間はより大きな災害や危機がやってきたとしても、必ず団結できるわけではないのです。むしろ、新たな利権や派閥が生まれるだけかもしれません。

 そんな災害が起きる前にこそ、団結をしなければならない。

 希望の破壊としてのゴジラ、私はそんなふうに説教臭く観てしまったのでした。 

というわけで、今回のゴジラ、ぜひまだご覧になっていないという奇特な方は、ぜひご賞味あれw

9月3日(日)密偵(16)韓国 するめゲームならぬ、するめ映画、密偵!!(ネタバレなし)

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(密偵 日本公開はちょっと先の11月です)

 

 昨日、ラジオで聞いた『するめゲーム』というフレーズが耳に残っています。なんというタイトルのゲームのどんな部分が『するめ』なのか、例によって忘却の彼方なわけですが、とにかく噛めば噛むほど味が出るそんなゲームがあるらしい。

 今回の『密偵」の感想を考えていて、この『するめゲー』というフレーズがぴったりだと思いました。

 とにかくこの映画、傑作であることは間違いないです。

 ストーリーも映像も、役者の演技もすべてが水準以上。それどころか、分析さえ忘れて映像と物語に没入してしまう。テーマ性もメッセージ性も抜群で、難を言えばスパイ合戦のため、ときおり状況が把握しきれなくなる部分がある、ぐらいかなあ、と。

 上映時間が2時間を超えるため、途中緊張感が途切れてしまうのですが、多少ぼーっとしてしまったとしてもラストの数分を観れば状況は理解できます。

 というわけで、傑作なのですが、具体的にどういえばいいか。つまり、一言で言い表せない類の感動がこの映画にはあります。あえて言えば、5回ぐらい観て言語化できるかなあ、というたぐいの感動です。

 本音を吐くと、一度見ただけでは理解できない複雑なコンゲームということなのですが。笑

 

 実際、ストーリーも物語背景も単純なのですが、敵味方が入り乱れるため、状況が把握できなくなるです。しかし、繰り返しになりますが、ラストを観れば…というわけで、ぜひ多くの方に見ていただきたい映画です。これは傑作です。

 

 ■ストーリー

 時は1920年の韓国。

 10年前に韓国は、大日本帝国に併合され、日本総督府の統治下にある。

 世界史に言う日韓併合だ。

 その日から韓国という国はなくなったのだ。

 そう、それは認めねばならない。

 元朝鮮人でありながら、現在は日本警察のイ・ジョンチュルは足早に月夜の道を急いだ。

 向かうは郊外の寺院だ。

 そこに、我々の敵、ジャンオクがいる。

 本名、キム・ジャンオク。

 彼は武装独立運動団体「義烈団」のメンバーの一人だ。

 日本総督に対するテロ資金確保のために、寺に美術品を持ち込んで金に換えようとしたらしいが、交渉相手を間違えた。

 ジャンオクが美術品を売りつけようとした相手は見た目は寺の僧侶だが、義侠心どころか、一般的な良識さえ持ち合わせているかどうか怪しい生臭坊主だ。

 目下のところ、日本警察のブラックリストの上位にランクインしている「義烈団」であれば、資金繰りにもう少し気を使ってもよかっただろうに。

 よりによってなぜあんな生臭坊主をビジネス相手に選んだのか。

 もっとも、こちらとしても手の施しようがないほど恥知らずな人間でなければ、日本統治下の朝鮮では生き残れない。

 だが、よりよってあの坊主とは。

 ジャンオクも、目が曇ったか。

 ジョンチュルは知らず歯ぎしりをした。

 だが、これはおかしなことだった。

 彼にとってジャンオク、義烈団は宿敵である。

 日本総督府の統治下にある警察官の署長である自分が彼らに同情するのはおかしなことだ。

 ジョンチュルは今度は拳を握りしめた。

 いや、わかっている。

 本当は彼らに対して自分が心底敵だとはみなしていないことを。

 なぜなら、彼ら義烈団が敵視する日本総督府こそ、この朝鮮を踏みにじった侵略者だからだ。

 もし、10年前の併合事件がなければ、ジャンオクと俺は同胞のままだった。

 そう、本当の敵は日本人なのだ。

 だが、だからと言ってどうすればいい。

 朝鮮という国は日本に支配され、朝鮮人は自分も含めて生きるために彼らに屈服せざるをえなかった。

 でなければ、とっくに死んでいただろう。

 祖国。それは、大事かもしれない。

 しかし、占領されてしまった今、祖国が何をしてくれるというのだ。

 俺は言語を奪われ、他国の言いなりになって同胞を裏切り、密告した。

 そんな俺は祖国にとっては裏切りものなのだ。

 だが生きるため、強者について何が悪い。

 祖国はもはや、ここにはない。

 そんな絵にかいた餅も同然のものにこだわるほうが異常だ。

 ジョンチュルは自分に言い聞かせた。もう何度目だ

 深いため息をつきそうになるが、何度でも揺らぐのだ。

 揺らがないのは、そうあいつぐらいのものだ。

 ふいにジャンオク顔が脳裏に浮かんだ。蔑むようなそれでいて哀しげな眼。

 それは、最後に自分に向けられた奴の表情だった。

 そのとき、ふいに現実に引き戻された。

 家々の連なる細い路地の先に漆喰の扉が現れたのだ。

 扉の向こうに異様な殺気が満ちている。

 

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 それもそのはず、音を立てずに扉を開けると、広い中庭いっぱいに銃をかまえた憲兵が立ちはだかっていた。

 銃身の先はすべて同じ方向を向いている。

 その先にあるのは小さな納屋だった。

 点々と地面に血痕が落ちている。

 あの場所に逃げ込んだらしい。

 ジョンチュルは息を飲んだ。

 すでに、ジャンオクは憲兵を何人か射殺している。

 刑は免れないだろう。

 だが、ここで死なせるわけにはいかない。

 自分なら、かつて盟友であった自分ならジャンオクの命だけは助けることができるかもしれない。

 ジョンチュルは憲兵に向かってジェスチャーをすると、納屋に近づいた。

 憲兵が納屋から音もなく離れていく。

『ジャンオク、ジョンチュルだ』

 そっと声をかけ、納屋の扉を静かに開ける。

 納屋の奥に黒い人影が座っているのが見えた。

 影に向かって片手をゆっくりあげ、銃を地面に置いた。

 納屋の奥にジャンオクがいた。 

 何年ぶりになるだろう。

 ジャンオクの頬はこけ、異様な光を放つ双眸は以前会った時以上だ。

 手負いの獣……ジュンチュルは息を飲んだ。

 静かに近づくと、ジャンオクの足元に何か赤黒いものが落ちているのがわかった。

 奴の親指の先だと気づくのに数秒かかった。

 ジャンオクは鋭い眼光と銃を彼に向けたまま言った。

「我々の指導者は祖国を裏切り、お前は同胞を裏切った」

 ジョンチュルは彼の視線を受け止めて言った。

 「まだ独立を勝ち取れると思っているのか」

「お前は仲間を裏切り、いい暮らしをしている」

「我々は沈没船だなんだよ、ジャンオク」

「確かに」

 ジャンオクは唇端を少し上げて歪んだ笑みをつくってみせた。

「密告者は沈没船から一番先に逃げるからな」

 視線の先にはジャンオクの親指の先が落ちている。

 赤黒い血にまみれ、土にまみれ、もうあれは二度と動かないだろう。

 だが、目の前のジャンオクはまだ生きている。

 こいつをここで死なせるわけにはいかない。

 ジョンチュルはそれが欺瞞でしかないことが分かっていた。

 なぜならここで仮に奴が助かったとしても、義烈団のメンバーである奴は持っている限りの情報を吐くまではけして拷問から解放されないだろう。

 それは生き地獄以上のものとなるだろう。

 ジョンチュルは一瞬、自分が何がしたいのかわからなくなった。

 むしろ、奴にとってはここで自決したほうがよほど楽なのではないか。

 だが、口からでてきたのは正反対の言葉だった。

「ジャンオク、お前はここで死ぬべきじゃない。一緒に来てくれ 

 彼の言葉にジャンオクは皮肉な笑みを浮かべた。

 彼は構わず言った。

「頼む。一緒に来てくれ、ここで死ぬな」

 ジョンチュルは、言いながら本気でジャンオクを死なせたくないと思っている自分に気づいた。

 頼む、その銃を下ろしてくれ。

 祈るような気持ちで一歩、ジャンオクに近づこうとしたときだった。ジャンオクがふいに言った。

『「は密告者の中では生きられない、ジョンチュル」

 奴は銃をゆっくりとジョンチュルから放すと、自分のこめかみにあてようとした。

 ジョンチュルは隠していた銃をとりだし、ジャンオクに向けようとした。

 だが遅かった。

 ジャンオクが言った。

「韓国よ、永遠なれ」

 言葉が終わると同時に乾いた銃声が納屋に響いた。

 ジャンオクのこめかみから脳症が飛び散り、納屋の壁を汚した。

 

 

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(いきなり、鶴見先生の写真ですが、日本総督側として出演です 

 見よ、この悪そうな顔w)

 

 

 ■レビュー

 この調子で描写しているとレビューにたどり着かないので、ストーリーの冒頭部分で切ってしまいましたが、このあと、主人公のイ・ジョンチュルは義烈団の残りのメンバーと彼らが爆弾で日本総督府を襲撃しようとするテロを阻止するため諜報活動を開始します。

 しかし、ジョンチュルの上層部は日本総督府

 かつて生き残るために同胞裏切ったジョンチュルは心の底からスパイ活動をする決心が揺らぎ続けます。

 一方レジスタンスである義烈団もまた、ジャンオクの資金繰りが失敗したため、新たな資金工作のために、写真館と古物商を営むリーダー、キム・ウジンがアクションを起こします。

 テロ工作のために一刻も早く資金を作る必要がある義烈団、そして立場が元朝鮮人であることから、徐々に危うくなるジョンチュル。

 二人は赤の他人のふりをして互いに探りを入れるために会うことになりますが、その二人をさらに密告しようとする二重スパイがおり、結果として二人とも立場が危うくなります。

 そんな中、義烈団は首謀者であり、警察にとって最大のターゲットであるチェ・サンが自らジョンチュルを仲間に引き入れようと姿を現します。

 

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(チェ・サン役のイ・ビョンホン 安定のかっこよさ、そしてカリスマさく裂!!)

 

 日本人に対する怨恨を募らせるジョンチュル、そして同胞への同情と共感は押しとどめようとしても揺らぎ続け。

 やがて、義烈団のためにジョンチュルは危険を犯して二重スパイをすることになります。

 もはや後戻りはできない。綱渡りをはじめるジョンチュルは果たして同胞を売る日本人の手先として生き延びられるのか、それとも身を挺して同胞の仲間を援護する二重スパイとして生き延びるのか。

 

 というのが、あらすじになります。

 

 

 なんというか、この映画は、本当に熱く感動します。

 祖国や、同胞という言葉、もはや日本人には肌馴染みがない概念じゃないかと思います。

 もともと、この国民国家の同胞意識は平時ならばなんのことはない空気みたいな存在で、外部にそれが侵害されたときのみ意識されるいやらしい概念です。

 とはいえ、現在のところ国民国家という国単位のアイデンティティを超える概念というか括りを我々人類は持ち合わせていないわけで、これが戦争の種になったり、平和の礎になったりもするわけです。

 ですが、人は感情で理解をする生き物であり、祖国や同胞という考えは侵害された側ではないとわからないと思うのです。

 日本人として生活していると、例えば外国人の中に放り込まれたり、海外に行かないと、自分が日本人だと意識することってまずないわけですが、それが言語が通じないとか、円が安いとか、ユーロが高いとか、その程度ならまだしも適度な屈辱感ですみますが、これが日本人だから犬だとか、日本人だから使えないとか、国家レベルで存在を否定されたら、これは個人攻撃されるよりももっと深刻なダメージを受けるはずです。

 それは、国家や人種で否定されると、個人の努力ではどうにもできない部分に攻撃が加えられるからです。

 このどうしようもない感、さらにそれを共有する『同胞』がいたら、挫折感も怒りもいっそう募るだろうし、仕返しをしてやろうという気持ちも集団心理としてとんでもないことになるはずです。

 こうした怒りを根底に持つレジスタンスの生き方は余りにも切なく、最も祖国を大事にする人間が祖国を捨てた同胞から拷問を受け、冷遇されるという残酷極まりない扱いを受けます。

 しかし、彼らはとうの昔に個人の幸福や恐怖というものを放棄し、自分が何をすべきか、それだけを信念に行動を続けます。もう、なんて言ったらよいのか……です。

 悪いのは同胞ではなく、この場合侵略者です。つまり、この映画では日本人。

 同じ国で生まれ、同じ言葉を使う同胞が、殺し合い、裏切りあいをすることほど悲惨なことはありません。

 日本が犯した罪、そして20世紀の人類が犯した罪を二度と起こさないようにしなければ、そう思わせてくれる映画です。

 と、同時に祖国や、同胞という戦争の引き金になる哀しい概念にまだまだ人類は縛れていることを突きつけられる 逃げ場のない物語でもあります。

 美しい死なんてものはやはりなくて、レジスタンスの人々はみな個人としての幸せ、恐怖を捨て去り、個人として祖国のために何ができるかと思いながら闘争に身をとおじていきます

 その生きざま、死にざまは、愚かで同時に崇高で、くやしくもあり、己以上の大きな幻想を見つけた彼らなりの幸せでもあり、それをみるとき、嫌悪と羨ましさと複雑な気持ちになるのです。

 こんな複雑極まりない感情を喚起させてくれる傑作、11月公開の『密偵』ぜひ、お楽しみに。 

 

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(主演ソン・ガンホ(イ・ジョンチュル役)&コン・ユ(キム・ウジン))

(現場はとってもなごやかに見えますw二人の演技、素晴らしかった~w)

(この場面は初対面で二人が探り合いつつ酔っ払うところ。韓国人酒、めっちゃつよい!!)

9月2日(土)トレインスポッティング2(17)イギリス 若者は老人になり、子どもは大人になり、そして死ぬ(ネタバレなし)

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(トレスポ2 はじめて観たとき、15歳でした。つまり、今35歳笑)

 

 

 中学生の時にトレスポと出会い、当時何度も繰り返し観たはずなのに、今日までこの映画がダニー・ボイル監督の作品だとは気がつかなかった。

 とはいえ、トレスポ2は、1を観た人間であれば、「観たい」とう意欲に駆られるよりは、「観なくてもいいかな」と遠慮気味になる作品ではないだろうか。

 なぜなら、20年という過ぎ去った歳月に向き合うことの怖さが根底にあるからだ。自分が年を取ったことは意識的に無視してすんでしまうことだが、あの思春期にむさぼるようにはまった映画のキャラクターがいい年をこいたおっさんとして画面に登場することは、ヘロインの禁断症状よりも恐ろしい。

 

 

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(若さとは、、って何か一句詠みたくなる歳月の残酷さ笑)

 

 

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(おっさんになったレントンとスパッド、ランニングしてるから。。健康のために。。

 って、はう。。。。ちなみに私もランニングしてます笑)

 

 そういうわけで、上映が決まったときも「観なくていい」という選択を取っていた。しかしダニー・ボイル監督の映画はランダムに映画を観ていてさえ、時折遭遇してしまう。それは一定の評価が定まった作品であるという理由が大きいが、もう一つ重要な要素がある。それこそあのうざいレコメンド機能である。ネットで映画を観ると、ひとつ作品をクリックするたびに複数の作品が「レコメンド」される。この作品の中にダニー・ボイル監督の作品が毎度毎度ランクインする。 

(どんだけ私のことすきなんだ、ダニー!!!)

 

 実際、思い出してみてもまだ映画と監督の関係にそれほど関心がなかった頃に見た映画でも十分なインパクトがあり、場面を鮮烈に覚えているということがある。

 それは、『トランス』『トレインスポッティング』『サンシャイン2057』『ビーチ』『28日後』などすべての作品に言えることで、色と音の独特な組み合わせから生まれるスタイリッシュな映像美であり、それは時にスタイリッシュでしかないことさえある。

 

 監督のとる映画はヒューマンドラマであることはない。どちらかと言えば、人間の狂気を描きたがる傾向があり、それは憎悪、嫉妬、悲哀、裏切りといったネガティブな感情がほとんどだ。そしてそういった感情を持つ人間が成長という名の変化をとることはまれであり、それはつまり善人に変化することはまれということだ。たとえ変化することがあっても、物語当初に持っていた信念が横にスライドする程度の変化であり、だからこそ監督の映画は芸術的というよりアーティスティックな印象を与える。

 つまり、展開や場面自体の描き方に重点を置いており、人物の心理的成長や葛藤というものは二の次なのだ。

 そして監督の作家性は、どれほど人間の卑小さを描いていても、人間臭くならず、物語というよりは、現代美術館にいるような、装苑やらELLEやらモード系のファッション誌をめくっているような美しさに彩られている。

 

 ではなぜ喜怒哀楽があり、人間葛藤のある物語が好きな私がトレスポにはじまるおしゃれ映画が好きなのか。実は私自身そのことが長い間わからなかったが、今日トレスポ2を観て、やっとわかった。

それは、彼の作品からスタイリッシュ要素を吸収するためだったのだ(まんまじゃん)

 もっとわかりやすく言えば、それは最新のよくわからないアート誌をめくったり、現代美術館に足を運ぶのと似ている。つまり、私にとってダニー・ボイル作品は映画の形をとったファッション誌ということになる。

 なんてひどい結論だ。

 しかし、事実そうであることに近い。

 

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(中学生のころ愛読書だったエルや装苑。今は卒業しました笑)

 

 ダニー・ボイル監督がトレスポでタッグを組んだ原作者アーヴィン・ウェルシュも『ビーチ』でタッグを組んだ原作者アレックス・ガーランドも監督の持つ人間の狂気をスタイリッシュに描く傾向がある。つまり、彼らもまたアーティスティックに描くことに親和性がある作家たちなのだ。

 もっと激しく戦っていい場面で、アクションがなくて映像と音の連射が入ったり、人がぐちゃぐちゃになるような場面で色彩の強いコントラストが入ったり、ひたすらおしゃれで生々しくない映像がダニー・ボイル監督の真骨頂であり、スタイルなのだ。

 つまり、作品としてはクールな部類に入る。

 

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(トレスポ2のシーン もうこの色彩と構図がおしゃれなくてなんと言おうか!!)

 

 それは、徹底的な挫折感や嫉妬や怒りでさえ、スタイリッシュに描いてしまうがゆえに、観客に人物には共感できないという作用を生む。しかし、その音と映像の魔術こそが問題なのだ。監督のつくった映像と音に浸りきっていたい。この中毒性。しかし、そこに物語は存在せず、あるのは視覚と聴覚に訴える刺激だけで、感情に訴えるものではない。

 そうつまり、私が監督の作品から吸収しているのは物語ではなく、(つまり人物の葛藤ではなく)音と光なのだ。

 ダニー・ボイルの映画やアレックス・ガーランドの映画、たとえば『エクス・マキナ』『28日後』を物語としてみると、前述したことから物語としては、舌足らずだが、ファッション誌として見るとしっくりくる。

 この二人の方向性は似ている部分があり、それこそ『スタイリッシュ』ということだ。

 

 さて、トレスポ2は言わずとしれたトレスポの続編であり、20年後を描いている。

 20年だ。

 なんて、長い歳月だ。あきれるではないか。

 しかし、20年なのだ。ごまかせない。

 25歳の若者は45歳の中年になり、観客だった15歳の少女は35歳の女性になる。なってしまう。

 感想はというと、あいかわらずおしゃれ、ということがまずはじめにくる。そして、次に来るのが悲哀である。

 みな、おっさんになっているのである。

 失われた20年というフレーズが思い起こされるのである。

 20年前、栃木の片田舎の中学校でさえ、クラスで回し読みされたトレスポだが、今回のトレスポ2は社会現象になっただろうか。次々に打ち出される映画作品の中に埋もれてしまってはいなかっただろうか。

 この映画を観てから、原作者アーヴィンのインタビュー集なども合わせて読んだが、はじめてこの映画がもちろん『ただのスタイリッシュ』映画ではないことにはっとさせられた。毎度のことだが、今さらだ。

 というのも、よくよく考えれば1990年代半ばのスコットランドでなぜ20代の若者の多くが仕事にあぶれてヘロインを打っていたのかということにつきる。当時はその歴史的背景を知らずにただ単におしゃれで麻薬をキメているだけの映画だと思っていた。別にそんな事実的背景さえ知らなくても、十分に楽しめる映画だったのだから仕方ないのだが、この観方はこの映画の本当のおかしさというか笑ってしまうくらいの絶望を理解していることにならない。

 90年代当時、イギリスはサッチャー首相の政治転換で少しずつ景気は上向いている最中だった。しかし、物語の舞台であるエディンバラスコットランドだ。スコットランドは英国の中でも1707年にイングランドと合同してグレートブリテン王国の一部になった。スコットランドとしては不平を言いつつも、大きな反乱を起こすことなく合同してきたが、イギリス全土でも60年代から70年代にイギリス病という長い不景気を起こる中、スコットランドは経済政策からも零れ落ちることが多かったという。つまりは、イギリス中のなかでもスコットランドの不景気は最悪の部類で、そうした社会が若者に安定した職を与えてやれるはずもなかった。。

 つまり、80年代のエディンバラはひどかった。

 パキスタン産の安価なヘロインが横行し、若者を問わず、昨日までビールやたばこで憂さ晴らしをしていたごく普通の人々がヘロインの虜になった。その後エイズの横行で、若者たちが多く亡くなった。

 絶望に次ぐ、絶望。そして本当の絶望は自分が絶望に落ちていることから目を背けることかもしれない。

 そうした若者世代への愛情と批判を元に描かれたトレインスポッティング

 当時小説を読んでいたにも関わらず、そんな描写があったかどうかも覚えていない。

 覚えているのは、レントンが麻薬をトイレに流してしまい、汚すぎる便器に顔を突っ込んで潜っていったシーンだとか、禁断症状に苦しんで地下に倒れ込むように沈んでいく様子だとか、主に麻薬におぼれて徹底的にラリっているシーンだけが鮮烈なのだ。

 15歳だったのだから、仕方がないかもしれないし、トレスポがもっとおしゃれでなかったら当時のスコットランドの社会背景は伝わってきたかもしれない。しかし、その場合は中学生が熱中する映画にはならなかったかもしれない。

 そういうわけで、トレスポを観ても90年代の青春期を迎えたスコットランドの最貧困層でない自分には、イングランドに対する怒りも、スコットランドにたいする絶望も、ヘロインに逃避するメンタリティもわからない。

 むしろ、SF作品では昨今感情を抑制することが国策であるような設定が多い。であれば、幸福感は脳内物質の多寡で決まるという生化学的方法を持って、ヘロイン的麻薬物質が国策として人類に投与されないとも限らない。そうなると、20年前に思春期の少女を魅了したジャンキーというおしゃれな(真実は全く違う)現象は逆に、国家体制そのものに与することとも思える。全然おしゃれでないし、不良っぽくもない。

 それは極端にしても、かつての私の魅了したヘロイン中毒者であるレントンもめぐりめぐって時代があと一回点すれば、またスタイリッシュになるかもしれないなどと思うのである。

 結論。

 この映画を懐かしい思いで観た。

 若者は老人になり、子どもは大人になり、そして死ぬ。

 あいかわらずスタイリッシュであり、同時にみじめな大人になったレントン、シックボーイ、ベグビー、スパッド。それでも、若い頃にはなかった歳月という名のしわの刻まれた彼らの中年顔は、最高にクールだった。

 

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(中年というより、おじいさんではないか。。トレスポ3に期待である。。笑)

 

 

 みんな、一生懸命生きてきたじゃないか、と言えるほどに。