7月25日(火)哭声 コクソン(16)韓国ホラー映画

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 まれにみる連続猟奇殺人事件、ゾンビ、悪魔祓い、陰陽師、なんでもござれのカオス映画。

 韓国映画にまつわる恐怖と笑いの紙一重はここでも健在だ。そんな懐深い韓国ホラー「コクソン」を一度は見ても悪くない。

 

 悪魔祓いにはみるものを恐怖させる迫力がある。

 親しい人の穏やかな人格が崩壊し、口を開けば周囲に悪口雑言をあびせ、表情は狂気と化す。

 しかし、それは断じて「悪魔がとりついた」という原因が怖いのでもなければ、悪魔という根源的な闇の存在を畏怖するわけでもない。

 ただ単に、目の前の人が人でなくなる状態を見るのが怖いのだ。

 人格が崩壊し、親しい人とのつながりをすべて断ち切ってしまうほどの、健忘と狂気と破壊力。

 そして、それが悪魔の仕業ではなく、その人の持つ精神的な疾患を想像したとき、恐怖は倍増する。

 ただし、それが、今ではレトロな映画の中で語られる漆黒の祭祀、エクソシストとゾンビと化した少女との争いならばまだ、笑ってみていられる。

 

 しかし、それが私たちのよく知る風景の中で起きたらとしたら。

 

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 湿潤な田園地帯、未舗装のでこぼこ道、

 雑然とした狭い家、縁側のある農家、地中化されていない電線がつづく村。

 そんな風景を背景にして繰り広げられる私たち日本人によく似た扁平な顔をした人々の狂気と悲哀。

 映画で語られる人々の錯乱に戦慄してしまう理由はただひとつ。

 それは、「あの悪魔祓い」がまるですぐとなりの近所で起こったように思えるからだ。

 

 谷城(コクソン)。

 それは、韓国のどこにでもあるのどかな農村だった。

 新緑の季節を終えた濃い緑が山村にあふれかえっている。

 夏に向かう前の湿潤な風景だ。

 警察官のジョングはそんな村で妻と、一人娘、養子に入った先の姑との4人暮らしをしていた。

 ある雨の強い日、村で惨殺事件が起こり、ジョングが現場に向かうと、凄惨な現場で取り押さえられた容疑者は顔じゅうに吹き出物ができ、白目をむいて錯乱状態に陥っていた。

 同時期に村の山中に一人の日本人の男が住みつき、村人の中でその日本人が鹿の死体をあさっているのを見たというものが出てきた。

 当初の殺人事件は幻覚作用のあるきのこを摂取したことが原因だとされたが、その後も不可解な事件が起き続け、日本人と事件の関連性を疑いはじめるジョング。

 

 そんな中、ジョングは火事と殺人のあった現場で、白い服を着た若い女に日本人が事件の犯人だと告げられ、時を同じくして、ジョングの娘に異変が起きはじめる。

 殺人事件との関連をたしかめるべくジョングは日本人の家に向かうが、そこで同僚が事件の被害者と加害者である村人たちの写真と、ジョングの娘の上ばきを見つける。これは、呪いの証拠ではないか。

 一方、それを裏づけるかのように、ジョングの娘はなにか邪悪なものに取りつかれたかのように、家族をののしりはじめ、ついに隣人を刺すという事態にまで発展する。

 このままでは娘が他の村人と同じように殺人をおかしてしまうかもしれない。

 姑がついに娘の祈祷師を依頼し、ジョングは、娘の異変に冷静さを失い、日本人に「三日以内に村を出なければ殺す」と脅しをかけ、日本人の飼っていた黒犬を屠殺してしまう。

 

 日本人の怒りを買ったジョングの周辺で異変が加速しだし、娘の少女は悪化の一途をたどる。

 祈祷師による日本人呪術者の呪殺がはじまるが、術の途中であまりにも娘が苦しむため、祈祷を中断してしまうジョング。

 ジョングは祈祷師を解雇し、娘を入院させ、自分たちは仲間をかき集めて山中の日本人と対決に向かうが、その頃、日本人は白い服の女から逃げ回っており、その途中ジョングの乗る車に引き殺されてしまう。

 日本人の死により、事件は解決するかに見えたが、娘の容体は悪化しつづけ、ついにジョングの留守の間に恐れていた事件が起きてしまう。

 

 

 

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 (日本人役の國村準 と 警察官ジョング役クァク・ドウォン)

 

 この映画、一言でいうと、カオスです。

 監督はナ・ホンジン。

 08年のサスペンス映画「チェイサー」で有名になった監督で、「チェイサー」も当初はシリアスな連続殺人ものの演出満載で始まり、途中ドタバタコメディとしか言いようにないベクトルに急カーブします。

 

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(「チェイサー」(08))

 

 この韓国映画ではもはやおなじみになった「ここは笑っていいのだろう」というあやふやな状態、嫌いじゃないです。

 このように韓国映画のいいところは、いわゆる「まじめすぎない」という不思議な演出をするところにあるのですが、「コクソン」でもその定まらないが故の「ちょいださめ」の演出が満載です。

 

 

 そして、そして、映画の全体像。

 なんというか、どこを目指しているのかわからないカオス祭り。

こわがっていいのか、笑っていいのか。

 

 

 まあ、実際どんな感じかと言いますと、例によって冒頭は「韓国の農村地帯で起こる連続殺人事件」というテイストでスタートします。

 警察官のジョングが雨の夜に事件でたたき起こされるシーンから始まり、現場に向かうと、すでにパトカーで周囲は包囲され、容疑者と思われる男が手錠をはめられ、意識が完全に朦朧とした状態で縁側に座っています。

 もうね、この様子が完全に「Z」なんですよ。アルファベット、Z

 ゴキブリを「G」と略すことと同じ、ゾンビのZですよ。

 赤い斑点と赤黒い顔と白目。

 

 もう完全にビジュアルがZ

 

 

 そういうわけで、いっきに「自分、またまちがっちゃったよ」と頭を掻きはじめちゃいましたよ。

 プラス溜息ついちゃったことも告白しましょう。

 

 たしかにね、今週はZの生みの親ジョージ・A・ロメオ監督もご逝去されて、周囲には「今週はゾンビ映画ウィークにするしかないよね」と吹聴していました。

 でもですね、Z大好きアメリカ人のおかげで、昨今意識せずとも、いや、わりかし距離をたもって生きようとしても、たまたまジャケ買いした映画がZものだったりすることがあるじゃないですか。

「別に自分、Z映画好きなわけじゃないんですよ。いや、まじで」と途中下車した大量DVDを返すときに、ツタヤの店員さんに思いっきり言い訳したいくらい、レンタル履歴にZ歴が更新され続けてしまう昨今、この「コクソン」冒頭でも、まじで「またか」と思ってしまいました。

 そう、思ったのはきっと私だけじゃないはず。

 

 しかし、よい意味でこの映画は期待を裏切ってくれるのです。

 なんと、Zに見えた容疑者はビジュアルはZですが、その原因がどうやらコクソンに住み着いた日本人の呪いにあるということがなんとなくわかるからです。

 

 

 呪いですよ。呪い。

 貞子的な意味で。

 

 

 さて、日本人と言えば、この「日本人」役が國村準氏です。

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(いぶしぎん!!てか、ヤ〇ザ笑)

 

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(↑これ、怖いと笑う成分でいったら、どう考えても笑うだと思いませんか)

 

 物語終盤までほとんどしゃべらず、喋ったときにはオール日本語というすばらしい語学力を発揮しての登場ですが、この映画で青龍映画賞という韓国人以外では初めての受賞をするという快挙を成し遂げています。

 たしかに、この映画での國村氏の存在感はすごいです。

 

 実際、悪魔役ですからね。

 

 わりかし冒頭の、國村登場のふんどし一枚で血みどろの鹿の腹に顔をうずめて、食らいつくというシーンは、オツです。

 なぜなら、そのシーンこそバイオハザード記念すべき第一作の「あのシーン」を彷彿とさせ、あれのトラウマを抱えている私ぐらいの世代ならば、含み笑いと同時に得たいのしれないプチ恐怖もおぼえるはずだからです。

 

  つまり、レトロインパクト大です。

 まあ、そういうわけでコクソンは、Z映画とおもいきや、

 悪魔の呪いという方向になり、しばらくすると、

 ジョングの娘のエクソシスト状態が展開され、ううむ、となります。

 

 このあたりで、当初の連続殺人事件というストーリーは大気圏の彼方に消失し、さらに悪魔祓いなら端正なエクソシストが登場かと思いきや、ここはアジア。

 霊幻道士のようなうさんくさいことこの上ないビジュアルの祈祷師が登場します。

 

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(↑祈祷師。。あやしすぎだろう。いろいろな意味で)

 この悪魔祓いの作法がまた、秀逸というか、見ていて胸が痛くなります。

 ジョングの娘がエクソシストの取りつかれ少女リーガンのように狂気の顔つきになっていき、祈祷されると、苦しむんですね。

 その祈祷が太鼓をじゃんじゃんばらばら鳴らして、祈祷師が「ひゃっほーいっ」と踊り狂いながら剣舞をしてですね、もうね、お前が狂気みたいな感じです。

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(↑、はいきた、お前が狂気の図)

 

 しかし、娘が苦しむあまり、この祈祷を途中でジョングがやめてしまうことから、

 物語はバッドエンドに向かいます。

 この祈祷の中断で國村氏扮する悪魔は息を吹き返してしまいます。

 そして、このあたりで、このままだと主人公があまりに不利だということで、一応神側と思われる存在、つまり善なる存在もちゃんと登場させています。

 それが、チョン・ウヒ扮する白い服の女です。

 でもですね、彼女、ちゃんと「私天使だから、あの國村準の皮をかぶった悪魔をやっつけよう」とは、言ってこないです。

 言わないので、このチョン・ウヒもそうとう怪しいと主人公も観客も思ってしまうわけです。

 この映画はそうして、悪魔も天使らしき人物も救済者であるべき祈祷師もそれぞれにいかがわしくて、正体不明の立ち位置なので、見ていて混乱をするわけですが、そこはもうそういう演出なんだと割り切るしかないです。

 

 

 もともと諸悪の根源が悪魔。

 完璧な聖人が神。

 こういう二元論的な概念って、日本人もそうですが、仏教道教などが強い中国、日本、韓国あたりにはそぐわない部分があるのかもしれません。

 ただ、悪魔祓いをアジアの農村でやってみたら、意外に新鮮だったということは確実に言えます。 

 

 なんだかんだ、この映画でぐっとくるインパクトがあるのは、

 祈祷師がトランス状態になってジョングの娘の悪魔祓いをするシーンです。

 この祈祷師さえも結局は、悪魔側に半分片足をつっこんだ所業をしていたり、善なる象徴白い服の女性と相対したときには、その聖なるオーラにやられて、嘔吐マックスという症状にしっぽを巻いて逃げかえったりしています。

 

 しかし、そんな詐欺師であろうと、この祈祷のシーンは迫力があります。

 なんというか、人間って本来理性や思考でふたをしている狂気や無意識の欲望っていうのがあるんですね。

 そういう本来は人には見せてはらならないし、見せるとビョーキと思われる部分がやっぱりあって、それが噴出する瞬間を見続けるのは、やっぱり怖い。

 この際、天使も悪魔もどうでもよくて、そうでなくてやっぱり人間の狂気が一番見る者を畏怖させる。

 もちろん、映画ではそんなことは言っていませんが、それをもっとも強く感じたのは、私だけはないはずです。

 

 これは蛇足ですが、このシャーマンの世界は実は私も縁遠くない世界に生きておりまして、身内にも神主がいたり、霊感がやたら強い人間たくさんいたり、

 私自身、人間が取りつかれた場面に居合わせてあわや発狂という状態を見たこともあります。

 そんなこともあり、悪魔祓いに関しては笑って見過ごせない人生を送っていますが、個人的には悪魔や天使という存在には懐疑的です。

 

「普通じゃなくなった人間」に対しては、当たり前ですが、

 悪魔が取りついたというよりも、その人の精神疾患や脳機能の障害なんだと思いますし、または抑圧されたストレスが原因だと思っています。

 ただし、確かにわりきれない事象というのは多々あるのも事実で、問題はそういう割り切れないことに遭遇したとき、そちらの世界に行ってしまうか、こちら側にとどまるのかが、その人の才能というか感性なのかなと思います。

 

 実際、あまりにそちらの世界に関する力、(霊能的な)が強いと、もはや選択もできないらしいのですが、そういう宿命も含めて、

 この手の映画はなにか痛々しいものを感じると同時に、やはり大きな力、

 霊能を授かった人間はそれなりに人間全体に報いる行為をしなくてはな、

 と改めて思うわけです。

 霊能の世界も、悪いことしている人は、本当に呪われたり、

 逮捕されたり、ほんと明瞭な結果がつくあたり、ちゃんと天使は見ているのかな、

 と実生活で思ったりします。

 この力を授かった者の宿命については、

 また別の映画をとりあげて話をしようと思います。

 

 そういうわけで、「コクソン」。

 長い文章をお読みいただきまして、ありがとうございました。 

 カオスを体験したい方には、おおいにおすすめです。

 

 

7月20日(木)映画:インターステラー(「未知との遭遇」は地球外生命体から、時空を超えた自分自身との邂逅へ)

7月20日(木)インターステラー

 

未知との遭遇」は地球外生命体から、時空を超えた自分自身との邂逅へ

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 宇宙探査と国防費、実際のところどちらの割合が大きいのだろう。

 40年前、はじめて人類は「持続可能(サスティナブル)」という概念を意識し、それ以後この地球の資源が有限であることに気がついた。

 形あるもの、必ず壊れる運命にあり、物体は消失する運命にあり、それは宇宙の熱力学第二法則にあるとおりだ。

 それに科学を持ち出すまでもなく、古来より諸行無常という仏教的フレーズがあるではないか。

 そういうわけでこの世のものはすべて有限で、こんな当たり前のことに本当の意味で人類が「気がついた」のはかれこれ40年前になるそうだ。

 とはいえ、現在もまだ、人類は本当の意味でこの限りある資源については、「思い知っていない」。

 日々アップグレードされる異常気象は、人類の消費活動と連動していることはわかりきっている。

 それなのに今目の前の生存を優先する多くの人類によって、地球はますます生物にとって住み心地の悪い場所になっている。

 

 科学者は言う。

 今後持続可能という言葉は「生存可能」と同義になっていくだろうと。

 

 

 そんな世相をうけてか、2014年制作の映画「インターステラー(日本語で惑星間・飛行という程度の意味)」で展開される宇宙探査は、のんきな未知への挑戦ではなく、人類が移り住むための地球外惑星を是が非でも探すことにある。

 もはや、宇宙旅行は単なる好奇心では済まされず、切実なミッションとして人類の前に立ちはだかってきた。

 

トーリー

 

 近未来。

 地球は異常気象により、作物の枯れ果てた大地と化した。

 そんな中、宇宙探査費を極限まで切り詰められ地下組織となり果てたNASAはラザロプロジェクトという極秘のミッションを継続していた。

 ラザロミッションとは太陽系に突如として出現したワームホールを抜け、人類が生存可能な惑星を探査するプロジェクトで、すでに3名の飛行士を宇宙に派遣していた。

 元宇宙飛行士のクーパーは愛娘マーフの反対を押し切って、人類と家族のためにプロジェクトに参加する。

 先発した宇宙飛行士から送られてくる信号を頼りに、無事ワームホールを抜けて彼らの待つ惑星にたどり着くが、数々のトラブルにより、メインの母船は損傷し、地球への帰還は不能となってしまう。

 さらに、重力のゆがみにより彼らにとっての数時間が地球での数十年にもおよび、娘のマーフは父親と同じ年になっていた。

 その頃、地球に残されたマーフはラザロ計画の責任者であるブランド教授からラザロ計画の新の目的は地球を救うことではなく、地球を放棄し、地球外に出ていくことだと知らされる。

 なぜなら、地球の滅亡を止めることはできないが、地球外に出ていくためには、重力の問題を解決しなくてはならず、、そのためにはブラックホールの中で計測された数値が必要だったのだ。しかし、地球にいるかぎりそのデータは観測できない。

 絶望的な状況に打ちひしがれ、とうに死んだと思われる父親あてに悲痛なメッセージを送りつづけるマーフ。

 一方クーパーは仲間の宇宙飛行士に最後の望みをかけ、自分は仲間を救うために、AIとともにブラックホールに落ちてゆくことを選択する。

 しかし、そのブラックホールの中は、地球の自宅のマーフの部屋のつながっており、さらには、時間的には彼が地球を出発する時点の過去だった。

 クーパーは娘のマーフの才能を信じ、ブラックホールの中で観測されたAIのデータを時計の秒針を使って送り続ける。

 マーフは子供時代にNASAの場所を探り当てたときに感じた幽霊の存在を思い出し、父が時空を超えて自分にメッセージを送っているのだと確信する。

 そして、ついにマーフは父親から送られて来たデータの解析により、重力の問題を解決し、スペースコロニーに地球人を移住させることに成功する。

 クーパーもまた、閉じ込められた空間から脱出し、宇宙空間を漂っていたところを救出され、娘の作ったスペースコロニーに迎えられる。

 クーパーは年老いたマーフと再会し、最後の望みをかけていき別れた宇宙飛行士の待つ惑星に向かうため、宇宙へと再び旅立つ。

 

 

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 ああ、もうなんていうかこの映画、号泣でした。

 あのですね、クーパーと娘マーフの別れ、再会、一方的な数十年に及ぶビデオレターなど、泣ける要素満載なつくりが悪いのですが、とにかくずっと後半は泣いてましたよね、私。

 まあ、なんで泣きっぱなしだったかというと肝心のSF的ギミックについては全く理解が及ばなかったせいで、ストーリーに没入したというのが敗因でしょうか。

 この映画、わかる人がみれば、すげえって思うんでしょうけど、そこは「10歳からの相対性理論」というかなりわかりやすく説明がついたブルーバックスさえ三十路をすぎても理解できない私なので、理解しろいうほうが無理でしょう。

 

 というわけで、私のように理系音痴はいさぎよく、そうしたハードSF的メカニズムは忘れてストーリーを追うことだけに専念してもそれなりに楽しめる映画だと思います。

 この映画、簡単に言うと、宇宙空間の先には過去の時空があった、ということにつきます。

 そして、過去の娘に自分のインタステラ―で得たデータを二進法によって伝えて現在(ひいては未来)を変えるというオチです。

 時空を超えるメカニズムが重力にあるらしいんですけど、ここら辺は残念ながら高校1年生ですでに私立文系を選択してしまった私には、どうにもさっぱり。

 

 

 まあ、でもこの映画結論までの道のりがすごく緻密にできています。

 緻密で地味。

 そう、悪くいうと地味です。

 宇宙大戦争っていう要素はもちろん皆無ですし、かといって出先の惑星に超絶ハイスペック文明を持った敵対的知的生命体がいるわけでもなく、展開されるのは重力に海ごと大津波がおきる恐ろしい惑星や、数時間立ち寄った惑星の時間が、母船に帰還したら地球時間で20年経っていたとか、地味に恐ろしい状況が着々と積み上げられていきます。

 あげくの果てにブラックホールの中は過去に繋がっていて、しかしながら完全なタイムトラベルではなく、主人公クーパーはある空間の閉じ込められており、時計の秒針を動かすことでしか過去の娘と交信をすることはできないという地味(緻密)ぶり。

 なので、そこが地に足がついたるリアリティの所以というか。 

 過去にさかのぼってみると、宇宙人からの交信と思われていたものは時空を超えた父親からのものだったというオチ。

 

 いや、いいんですけど、なんかこうチマっとしていると思いませんか。

 発想が。

 いや、未来からの自分と交信なんて、宇宙人と交信するより新しくないですか?

 という意見もありなので、一概に「スケールちっちゃい」と断罪できないんですけど、私の感覚ではなんだかなあというわけです。

 

 もちろん、親子の再会というストーリーは私の最も泣ける展開第一候補なわけで、おおいに号泣したわけですが、ちょっと俯瞰して、SF作品としてみると、理論を積み上げてちまっとしたか、ノーラン監督。

 と、ちょっと思ってしまうわけです。

 

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 で、ぱっと映画をみた感じ、「これコンタクト(97)主演:ジョディ・フォスター」になんとも似た感じがするな、と思いました。

 あの映画も、ワームホールを抜けた先に、未知との遭遇があり、そこではハイスペックな宇宙人と出会って、ジョディが「人類、もっとがんばれる。がんばろう、宇宙探査 ジョディは科学者としてのモチベーションが100アップした」みたいな話なのです。

 いま思えば、今回の「インタステラ―」のように人類の存亡がかかる(主に種としての絶滅・地球と共倒れ)という負のバックグラウンドがないだけに、ノー天気な印象もうける仕上がりになっていますが、だからこそ、ロマン度でいえば、「コンタクト」のほうがずっと、心がほんわかします。

 なんか、「すごいもの観ちゃった」という映画的感動も大きいというか。

 

 種明かしをすると、映画のギミックを担当する理論物理学という理論武装家がキップソーンという学者で、この方は「コンタクト」「インターステラー」両作品に関わっています。例によってかかわり方は詳しくわからないという歯がゆい感じなのですが、素人目に見てもテイストが似ている感じはしました。

 

 

 未知との邂逅という。

 

 

 ただし、繰り返しになりますが、「インターステラー」のほうがチマっとしているという感じなのです。

 なので、「インターステラー」に首を傾げた方は、「コンタクト」を並べてみているといいと思います。

 どちらも二時間半以上で、途中で宇宙空間ならぬ、意識空間を酩酊してしまうことも請けあいですが、この手の映画から伝わってくる「人類は孤独じゃない」というメッセージはロマンがあるし、なんだかこう、生かされているな、という神の手の平の上で転がされているような気持ちのよさを置感じます。

 

 そういう大いなる流れの中で一瞬の生を生きる、小っちゃな自分を感じられれば、人類同士、肌の色や言葉が違っても、仲良くできるんじゃないかな、と思ったり。

そう、宇宙からみれば、人類みな兄弟です。

 

 そういうわけで、「インタステラ―」リアルな宇宙旅行の一つのロマンとして、ご覧あれ。

 

補足:主人公の娘マーフ役のマッケンジー・フォイはとてもキュートで見たことがあるな、と思いましたら、死霊館で登場してました。

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マッケンジー・フォイ。かわゆすぎるので、汚い恰好のほうがよりかわゆくみえる)

 

7月17日(月)映画レビュー:カル(2000)韓国 サイコサスペンス

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 ヒントも被害者同様ばらばらに切り刻まれて、憶測が最後まで確定にならないラブサスペンス殺人事件。

 こんなのありか? 犯人は少なくとも二人、もしかすると三人。

 そもそも首謀者はいったい誰だったのか。

 やっぱり、彼女か、それとも……

 

 

 手術台の上に寝かされた男はまだ生きていた。

 鎖骨が浅い呼吸とともにわずかに上下している。

 その眠った男の左腕のつけ根に鋭いメスがゆっくりと走る。

 真紅の線がメスのあとを追いかけるようににじみ、あふれ出す。

 切断された左腕は無造作にビニールシートの上に置かれる。

 手術台の上は血にまみれ、その大量の血液はバケツへと落ちていく。

 その凄惨な行為の行われた手術台のそばには、西洋画が一枚、かかっている。

 「カンビュセスの裁判」という名の15世紀のフランドルの絵画で、その絵にもまた、男が腹を切開された姿が描かれている。

 解体作業が終わると、その人物はばらばら死体の入ったごみ袋を車のトランクにつめる。

 白いセダンがゆっくりと発進し、夜の闇に消えていく。

 

 チョ刑事はこれまで警察のエリートコースを順調に歩んでいた。

 しかし彼は今、尋問される立場だった。

 彼はとある事件の有力な容疑者である医者から多額の金を受け取り、それを母親の生命維持装置のために使っていたのだ。

 しかし、チョ刑事はこの嫌疑にたいしてあくまでもしらを切りつづけた。

 警察はこの件に関し、明確な証拠をつかめないまま、チョ刑事の嫌疑をとき、現場にもどしたのだ。

 

 嫌疑がうやむやになり、チョ刑事は拘束を解かれると同時に、事件捜査に戻った。

 事件と言っても、事故か自殺かわからないものだった。

 一人の少年が古びた建物から転落して死亡したのだ。

 頭を強く打ったのか、彼が現場についたときは、少年の躰にはシートがかけられ、打ち付けられた体は血の海に沈んでいた。

 チョ刑事は少年の袖口についた金ボタンに目をとめた。

 なぜかぞれが気になった。

 いまにもとれそうになっている袖口のボタンに手をのばし、少し力をこめると、ボタンは少年の服から簡単に取れてしまった。

 少年はみたところ、十歳前後だ。

 こんな子供が自殺などするだろうか。

 そう思ったとき、少し離れた場所で少年と同じくらいの男の子の声が聞こえた。

 見ると、彼は警官に尋問されているようだ。混乱しているのか、「僕の兄貴はそんなことはしない」と、何度も繰り返している。

 そこに顔を合わせたくない同僚の刑事が来た。

 以前から自分を敵視している奴なので、何を言われても無視をするつもりだった。

 どうせ奴が言いたいのは汚職批判だろう。

 ああ、わかっている。

 医者から不法な金を受け取ることが善だとは言わないさ。

 だが、母親を救うためにはなんでもするのが息子だろう。

 言いたい奴には言わせておけ。

 同僚は、やれ現場に戻るのが早すぎるだの、目撃者をつくってやるかなどとくだらない言っている。

 そんなことを言うためにわざわざ俺に近づいたのか。

 チョ刑事はわざとらしく同僚から目をそらした。

 それでも怒りが少しずつこみあげてくるのを感じだ。

 だめだ、熱くなるな。

 同僚はこちらを舐めまわすように見ている。

 やめろ、俺をそんな目でみるな。

 そのとき、同僚が言った。

「パク社長があんたの金づるだったとはね」

 金づる? こいつはいま、金づると言ったのか。

 激昂した感情に支配されるのと拳が出るのは同時だった。

 右腕に焼けつくような痛み。それと同時に同僚が向こう側にふっとんだ。

 もう一発だ。クソやろうが。

 だが、その腕が強い力で制止される。

 周囲の同僚が彼の全身を拘束した。

 あのバカがまだなにかわめいている。

 わかっているさ。

 俺が悪い。

 そんなことはわかっている。

 わかっているが、あいつになにがわかる。

 

 そんなことがあってからしばらくた雨の日の夜。

 河川敷でばらばら死体が発見された。

 死後三日は経過しているその遺体には別の足がついていた。

 検死の結果、遺体は正確に医療器具によって六等分されていた。

 

 そして日をおかずに二体目、三体目の遺体が発見される。

 どれもビニール袋に入れられ、切り刻まれている。

 それでも三体目の遺体の歯の治療跡から一人の人間が浮かび上がる。

 その女性はチョ・スヨン

 これまで見つかった被害者三人すべてと接点があることが判明する。

 捜査をするうちにスヨンの親友であるスンミンが医師であり、有力な容疑者として浮上する。

 さらに現在もスヨンにつきまとっている男ギヨンが遺体切断の際に使用された麻酔と同じものを購入していることがわかる。

 捜査をするうちに、過去を語らず、過去を忘れようとしている女スヨンに心が惹かれていくチョ刑事。

 そんな中、ギヨンの死体が見つかり、その首が次の犠牲者を指すかのようにチョ刑事の元に届けられる。

 スヨンにつきまとう男にはかならず死がもたらされるのか。

 犯人はいったいだれなのか。

 そして、自らの過去を語ることを頑なに拒むスヨンの過去にいったい何があったというのか。

 

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(チョ刑事役 ハン・ソッキュ すごく親近感がわくお顔)

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 (スヨン役 シム・ウナ:薄幸美人)

 

 この映画、連続猟奇殺人事件+ラブロマンスでハッピーエンドになるかと思いきや、謎が謎のままで終わるというエンドになっています。

 しかも、何度見直してもヒントがあいまいすぎて、完全な確信犯的演出で、もやもやが残るラストになっています。

 この映画は何度見ても犯人が二人説か、三人説かになり、そのどちらも可能性として有効になるという仕掛けがほどこされています。

 映画としてこういう終わり方はいかがなものか、と思うのですが、逆にヒントを曖昧な形でのこしておくことで、犯人側の悪人度のパーセンテージが揺れ動きます。

 

 そもそも、この事件が解決しない大きな理由はチョ刑事の理性がスヨンへのラブロマンスで濁り切っていたからです。

 スヨンは過去に父親から虐待を受けた薄幸の美女であり、知りあうにつれて、チョ刑事の懐にぐいぐい入っていきます。

 たとえば、「私が信じられるのはチョ刑事しかいません」

 とか、過去のことを思い出して号泣したあとに、悪夢を見て、「となりで寝て」と言ったかどうかはわかりませんが、なんかチョ刑事の腕をつかんだまま寝ちゃうシーンもあります。

 彼女の積極的介入でみるみるうちに距離が縮まっていくのですが、こうしてなにげに相手の間合いに入っていくのって「女としての自信」がないとできないよな、と思うわけです。

 

 強気な美人。。

 

 まじでうらやましい。

 

 とはいっても、そんなラブロマンスフラグをたてた彼女もラストに至って、けして真っ白ではないということがわかっちゃうのです。

 ただし、映画じゅうにちりばめらえたヒントを確認しても、彼女がどこまで犯行に対して積極的であり、実行犯であったかは、不明のままです。

 

 たしかにラストでは、彼女の別荘で最後に不明だった遺体を継ぎ合わせたホルマリン漬けが見つかってしまうので、彼女がそれなりに犯人的位置にいることは明白です。

 しかし、そのことから彼女がはじめはチョ刑事に対する好意を少しずつ強くアピールしていった本心がどうであったのかもわからなくなるため、この映画は殺人事件の謎解きとしても、刑事と被害者(犯人)とのラブロマンスとしても、答えが放置されたままになってしまうのです。

 これ以上仲良くなっていたら、彼女は彼を殺していたかもしれないし、親友の医者スンヨンが死んだ以上、解体殺人はされないかもしれないのですが、ここはわかりません。

 まあ、そういうわけで、二人のラブロマを求めるがゆえに、なにか自分の見落としがあったのではないかと思い、リピーターになってしまうというからくりはあります。

 しかし、本来ヘビロテの動機は何度見ても満足があるからであり、

 この映画のように満足を求めて不満足を繰り返させる映画というのもなかなかないのではないかと思います。

 何度も見てしまう理由はもちろん、このストレスだけではなく、

 スヨン役のシム・ウナの透明感のある美しさもあるのですが、若きし頃の和久井映見とも遊佐未森ともいえる清楚美人のシム・ウナはこの映画の直後、結婚と同時に芸能界を引退してしまいます。

 彼女の輝くばかりの美しさをもっと見ていたかったと思うのは私だけではないはず。20年近く前の映画になりますが、あの頃のもやもやをもう一度感じたい方も、感じてみたい方にも、おすすめのラブロマンスサイコサスペンスです。

 

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(映画ラストのパリへ向かうスヨン役 シム・ウナ かわゆい美人

 人を殺した終えたからか、映画中もっともあかるい笑顔 笑)

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和久井映見氏 似ていませんか)

 

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遊佐未森氏 似ていませんか笑)

7月16日(日)映画レビュー:殺人の追憶(03)

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 耐えがたいほどリアルな農村と昭和の原風景が、未解決連続殺人事件を切なく包み込む。

 

 この作品は実話が元になっています。

 1986年に韓国の農村地帯で10人の女性が被害者となった連続殺人事件を題材にしたフィクションで、犯人は未解決。

 映画でも事件は解決せず、なんとも言えない後味を残して幕が閉じます。

 

 地平線まで続くたわわに実った稲穂が広がる田園地帯の側溝で、女性の遺体が発見される。

 地元出身であか抜けないパク刑事はスポーツ刈りに柄シャツにブルゾン姿。

 事件現場は両サイドが稲刈り間近の田んぼだ。

 舗装のされていない農道を時速十キロ以下で走るテーラーがぼろいエンジン音で近づいてくる。

 そのテーラーの二台にだるそうに腰かけているのがパク刑事であり、その後ろを虫かごを持った子ども達がわめきながら、追いかけてくる。

 みな、赤茶けた服装で、まるで日本の昭和の風景そのものだ。

 パク刑事は現場でテーラーを降りると、灰色のふたのついた側溝に降りた。

 落ちていた鏡で暗がりに光を当てると、白い女の縛られた体が黒い側溝に浮かび上がる。

 横たえられた全裸の女には黒アリがたかり、光を当てるとアリたちは驚いたように女の遺体の肌を逃げまわった。

 

 遺体は地元の女性だったため、パク刑事は片っ端から関係者を洗いはじめた。

 しかし、手がかりが何一つみつからないまま、第二の被害者が出てしまう。

 手足を縛られ、強姦された女性の死体はやはり地元出身者。

 そんな中、事件解決のためにソウルからソ・テユン刑事が派遣される。

 足でかぜぎ、脅して証言させるパク刑事とは対照的に客観的に捜査をしようとするソ刑事とパク刑事は当初からソリが合わない。

 そしてそんな二人をあざ笑うかのように次々に女性が殺害されていく。

 

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(タイトル:殺人の追憶  もう、この風景近所でしかないというかね、、)

 

 この映画はですね、なんというか日本人の田舎出身者にとってはものすごくリアルな世界観で、それがリアルを通り越して、背中がかゆくなるといか憂鬱にさえなる力を持っています。

 

 1980年代の大韓民国の農村部が舞台なのですが、とにかく地平線までつづく田園地帯や、舗装されていない道路を走る耕運機、農村エキストラたちの冴えない赤茶けた服装、泥、低い建物、暗い室内、地味な調度品、黒電話に事務机。

 なんというか、1980年代生まれの私にとって、はっきりと覚えていないわりには自分の幼少期にとられた写真の風景に似すぎているのです。

 というか、そのものであり、警察の打ちっぱなしのコンクリートに黒ずんだボイラー施設のある尋問室を見ていると、自分の記憶と陸続きのような切ない気持ちにさせられます。

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(警察の事務机。。いま私が使っているのと同じじゃん。。。)

 

 

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(この風景を切ないと言わずしてなんというか。。)

 

 つまり、フィクションに対する賞賛の混じった「リアル」を通りこして、肌馴染みしすぎた気持ち悪さのほうが、しっくりくるというか。

 なんだかこう、自分の子ども時代のお金のなかった時代を思い出すというか。

 とにかく日本の農村地帯のあか抜けなさと発展しなささがダイレクトに見える美術になっており、背中がかゆくなります。

 

 一方、そんなあか抜けない田園地帯でばたばた捜査をする田舎刑事のパク・トゥマン役のソン・ガンホは、まさに田舎のマイルドヤンキーというか完全なヤンキーを絵にかいたような神演技です。

 相対する都会的なエリート刑事ソ・テユンを演じるキム・サンギョンもまた、都会的と言ってもそうでもない感じの仕様で、これまた田園地帯の中に溶け込んでいます。

 

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(左 一応都会からきたという触れこみのエリート刑事と 右 地元ヤンキーあがりの刑事)

 

 捜査の方針だけは対立する二人ですが、ソ刑事の現場保存なんかも現代のCSIなんかと比べると隔世の感があり、いずれにしてもローテクな感じなのです。

 

 そういうわけで、捜査方法は見ていても歯がゆくなるほど適当な感じなのですが、1980年代の田園地帯の作りこまれた舞台設定の中で、彼らのほどよい抜け感のある演技は見ていてかなり気持ちのいい仕上がりになっています。

 韓国人の平たい顔に妙に親近感がわくというか、この二人の刑事だけではなく、

 有力な容疑者として当初にさんざんリンチされるクァンホ役のパク・シノクも知能に障害のある青年の演技が本当に素に見えてぐっときますし、さんざん迂回して辿りついた限りなく黒に近いグレーの容疑者ヒョンギュ役のパク・ヘイルは端正な童顔美男子で、もう見るからに「殺りました」顔であり、画面に登場してからゾクゾクしっぱなしです。

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(限りなく漆黒にちかいグレーのパク・ヘイル。この顔で殺ってないとかないでしょう)

 

 この二人の容疑者も過剰な演技にはまったく見えないくせにリアルという不思議な演出で、俳優陣はそれぞれにとってもいい味を出しています。

 ただ、ストーリーは犯人逮捕に至らず、当初は冤罪を誘発するパク刑事の適当な暴力尋問を批判していたソ刑事が、自分が懇意にしていた少女が殺害されるラストになり、ぶちキレてしまい、ついに容疑者ヒョンギュ(上のパク・ヘイルが演じています)に銃を向けてしまいます。

 こうしたセブン的なラストなのですが、ここはパク刑事が止めて事なきを得ますが、結局頼みの綱のDNA鑑定からも抜け出し、犯人と思われるヒョンギュは逮捕に至りません。

 

 結局、20年後の03年、パク刑事は警察を辞職し、実業家として成功していますが、ふいに営業の途中で第一の被害者の発見された田園地帯のあの側溝に立ち寄ります。

 彼が側溝を覗き込んでいると、学校帰りの少女が彼を見かけ

 「この前もおじさんとおなじように側溝をのぞいていた男の人がいた」と言います。

 なんと、その男性は「自分が昔ここでしたことを思い出していた」と彼女に言いました。

 パク元刑事が、少女に「どんな顔の男だった」と聞くと、少女は「普通の顔」と答えます。

 

 普通の顔。

 

 

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(ちょっと瑛太風元祖普通(ありがちなアジア人)の顔パク・ヘイル)

 

 さてさて、少女のこの発言が、物語のテーマをたった一言で物語っているような気がします。

 この映画では1980年代の大韓民国を舞台に連続殺人事件という暴力がストーリーの核となってしましたが、

 暴力はそれだけではなく、刑事が容疑者に振るう暴力、国家権力が国民にふるう暴力、男性が女性に振るう暴力、そして抑圧された容疑者が刑事に復讐する暴力が負の連鎖のように覆っています。

 ディティールだけ見ると、田舎で繰り広げられるコントラストの効いた二人の刑事のドタバタコメディの要素もあるこの映画ですが、少女のラストのセリフが投げつけてくるもののすさまじさに覚醒させられます。

 古きよき故郷を想わせる田園地帯で起きた未解決事件。

 美しい牧歌的な風景に陰惨な歴史が垣間見えたときに、耐え難いほどの現実との陸続き感が押し寄せてきます。

 ここら辺は、私が沖縄に行くときに感じる美しさの中の悲しい歴史、現在進行形の事実を重なり、なんとも言えない気持ちとも重なります。

 そういうわけで、映画としてはかなり重層的な味わいのある作品なのでおすすめです。

 

 さて、最後になりましたが「殺人の追憶」の監督は、「スノー・ピアサー」最新作では「オクジャ」のポン・ジュノ監督。

 

 03年のこちら作品で一躍有名になった監督ですが、この作品で垣間見える舞台演出と俳優陣の見せ方は、ほかの作品でも期待できそうです。

 というわけで、しばらくはポン・ジュノ監督にロックオンしていきたいと思います。

7月14日(金)映画:オデッセイ(15)は火星サバイバー実況者の悲鳴(オールタイムベストな予感)

 

 

 

 

 

 

 

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アレス3という火星有人探査プロジェクトにより、6名のクルーが火星に降り立った。しかし任務途中の大嵐により、火星脱出用ロケットが傾いてしまう。

ロケットが倒れる前に乗り込まねば、全員が火星に取り残される。

突然訪れた緊急事態にクルーはとるものも取らず、ロケットに向かうが、移動の最中、大風に吹き飛ばされたアンテナがマーク・ワトニーに直撃。

トワニ―はアンテナごと吹き飛ばされ、砂嵐の中に消えてしまう。

クルーはトワニ―を捜索するも、彼を死んだものとして、断腸の思いで火星を飛び立つ。

 

 マーク・ワトニーは苦痛と息苦しさで目覚めた。視界は暗転。腹部に猛烈な痛み。聞こえるのは無機質な緊急自動音声アラームだけ。

 なんだ、俺はどうした。

 ここはどこだ。

 なにが起きた。

 この痛みはなんだ。

 ワトニーは砂に埋もれた上半身をやっとのことで起こした。

 火星活動スーツに包まれた体はなまりのように重い。

 ふいに激痛が強まる。

 うめき声。

みると腹部に金属のピンが突き刺さっている。

耳元の警告アラームにいらいらさせられる。

腹にはピン。

どっちが先だ。

腹か、息か。

呼吸が先だ。 

ワトニーは左腕のウォッチ型のデバイスの砂を落とし、酸素レベルの警告を停止させる。

音声が止んだ。

同時に腹部の激痛が津波のように押し寄せてくる。

とりあえず、腹にささったこいつをなんとかしなくては。

よろめく足取りで立ち上がったとたん、いまいましいピンがのめり込んだ腹の中で大きくかしいだ。さらなる激痛が脳天まで貫いた。

 なんと金属のピンから線が出ており、その先はアンテナに繋がっている。

まるで放置されたアンテナが自分ひとりだけで置いていくなと言わんばかりの所業だ。

いや、悪いがおまえに付きあっている時間も元気もない。

ワトニーは自分に言い聞かせた。

 落ちつけ。落ちつくんだ。

 一呼吸し、活動宇宙服のベルトからハサミをとりだし、ピンに繋がった線を切断する。

何度目かの激痛。

痛みに倒れ込みたくなるが、正直倒れるほどではない。

そこが厄介なこところだ。

 立ち上がり、よろめく足でハブ(火星の居住空間)に向かう。太陽はすでに中天にさしかかっている。

 誰もいない火星。

 そうか、自分は置いてかれたのか。

 ワトニーは痛みで冴え切った頭でそう判断する。

昨日の大嵐が嘘のように静けさに包まれた火星。その風景の中には彼と彼の仲間が載ってきたロケットはなく、仲間の姿もない。

 わかっていたことだ。

 彼は自分に言い聞かせるように心の中でつぶやいた。

 何がおきたかわかっている。

 目が醒めたときから、嫌な予感しかしなかった。

 だが、考えるのはあとだ。

 今はやるべきことは、腹部にダメージこれ以上加えないように、落ち着いて行動し、つまり、一歩一歩着実に歩いて、ハブ(居住空間)にたどりつかなくちゃならない。

 ハブについたら、傷に触れないように服を脱ぎ、ピンを抜き、傷を消毒し、麻酔を打って、ピンを外したときに腹部に残っているだろう金具を鉗子でとりのぞく。

 たしか注射型の麻酔があった。それをしこたま打てば、自分で自分の傷口を切開して、鉗子を傷口に挿入して金具の一つや二つとりのぞけるだろう。

そのあとで、ホチキスで簡易縫合する。

抗生物質はいらない。

そもそも菌は火星では寒すぎて繁殖しない。 

だが、信じられない。

まじでこれを一人でやるのか?

ああ、もちろんだ。

もう一人の冷静な彼が脳内で答える。

DO IT YOURSELF.

そりゃそうだ。

わかっている。

もうここには誰もいない。自分でやるしかない。

 彼はハブにつくと、その通りのことをする。

 

 そして、陽が落ちて、いつものように砂嵐が来る。

 いつもと違うのは、ひとりぼっちということだ。

 狭いが快適な空間だと思っていた6人用の居住スペース。

ミニマムで必要最小限のせまっ苦しさ。今はとても広く感じる。広すぎるくせに息苦しい。

 これからどうするか。

 彼はとりあえず、状況を整理しようとする。問題解決のためには、まずは現状を整理しなくては。

 問題解決のためには、理想形にたどりつくまでのギャップを埋めなくては。

そのためには今の僕の立ち位置を確認しなくては。

 彼はモニターを起動させ、カメラの前で現状を並べてみる。

 どうもおはこんにちは、マーク・ワトニーでっす。

 火星のローンサバイバーで、残念ながら、この実況動画はNASAにはリンクされていません。

 だから、これはほぼ独り言になりまーす。

 というわけで、記録のためにこれを残します。(でも、画面の向こうのみんなは見てくれているよな)

 まずは、落ち込んでもしかたないので、僕の置かれた現状整理からしてみま~す。

 さっきも言ったとおり、NASAとの通信手段はなし。

 そして、次の火星の有人探査は4年後なんだ。

 次にインフラの不具合からくる危険について考えてみようか。

 まず、システムの酸素供給がストップした場合は僕は窒息死する。

 それから水再生器が故障したらやっぱり渇きで死んでしまう。

 さらにハブ(居住空間)に穴が開いても、減圧されて僕は爆死する。

 で、今あげたシステムの不具合がなくても、食料が尽きれば餓死することになる。

 

 今はこんな状況で~す。

 現状並べてみたけど、なんていうか先が見えないよね。

 というわけで、今夜はここまで。(実況時間は一分ちょとだけど、今日は色々なことがもうあって心がもたないんだ)

 そういうわけで、次回もお楽しみに。

 

 ほんじゃあ、またな。

 

 

 

 さてさて、いまさら見ました「オデッセイ」についてのレビューです。

ブログタイトルで、オールタイムベスト、といきなり大きく出ちゃいましたが……まじでいい映画でした(笑)

 ハリウッド映画賞、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞三冠受賞をはじめとして、9つの名だたる賞を受賞。

 いまさらおまえが推さなくても十分わかっているからさ、という声が聞こえてきそうですが、その通りです。

 あえて文句もつけず、今回のレビューは絶賛方向と行きますが、それでも例によって映画ですから、好き嫌いはもちろんあります。

 かくいう私、この作品、上映時期はアメリカで一昨年、日本でも昨年公開しているわりにはいまさら見たところからもそれが感じられませんが。

 今の今まで見なかった理由のひとつは、【火星からのぼっち脱出・サバイバル】というあるあるのストーリーです。

 だいたい、どんな展開をするのか予測ができちゃいませんか(つまりコンセプトに目新しさを感じなかった)

 もう一つは【主演がマッド・デイモン】(でっかいゴリラみたいな外見がデビュー当時から苦手で、しかもレオナルド・ディカプリオの劣化版に時々みえる。でもレオを推してるわけじゃない)

 という、独断と偏見に満ち満ちたストーリーと主演俳優という映画の二大要素のどちらも【あれな】印象のため、この映画に長らく手が伸びませんでした。

 しかし、そのどちらもがよい意味で裏切られたのでした。この映画で、マッド・デイモン、うすうす好きになりかけてきたのですが、まじで今更好きになりました!笑

 

 

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 さて、監督は、御存じ映画界のゴッドファーザーリドリー・スコット

 映像美で知られる監督の【やや映像美にこだわりすぎるあたり、ストーリーはまあ適当で】と、ときどき大きく期待がゆらぐパフォーマンスも今回は鳴りをひそめ、ストーリーも映像も最高のバランスでお届けされています。

 火星に一人取り残されるスペースカウボーイにマッド・デイモン。

 当初は例の筋肉隆々のどんな役をやってもデカくゴツい、それでもなぜか理系天才・学者肌の表情をはりつけた文武両道の透きのない(つまりかわいげのない)パーフェクトヒューマン仕様で登場。

 しかし火星の長すぎる滞在のせい(おかげ)でラストは、がりがりに変貌、結果としてかわいげオプション追加、健気さマックス値更新、行動が地に足がついた(ずっと火星の地表で行き詰っているし)男になっていくあたり、アンチ視聴者(私)の彼に対するラブ閾値がバブルのように膨張していきました。

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 そして脇をかためる女優陣も宇宙飛行士らしく、同プロジェクトキャプテンに「ゼロ―ダークサーティ」主演のジェシカ・チャスティン。(写真左上)今回も赤毛の知的美人で熱演。

 同じく宇宙飛行士兼システムオペレターにケイト・マーラ。(写真下中央)彼女は【オデッセイ】のあと、【モーガン】でプロトタイプ生物兵器を演じたこともあるこれまた整いすぎた怜悧な無表情美人。

 地球側でバックアップするNASAのおっさんたちこそバリエーション豊かで、人類の頭脳のトップに君臨するにふさわしいラインナップとなっています。

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(オデッセイ:キャスト。誰がだれだか、、とりあえず、いろんな人がでてます。

 右端は監督だと思います。。雑な説明だな)

 

 NASA長官にジェフ・ダニエルズ、今回のミッション(アレス3)のフライトディレクターにショーン・ビーン

 二人は組織の保守派と仲間を助ける危機打開派という対立構造のトップを象徴する白人おっさんの立ち位置ですが、彼らの下で具体的に救出行動をする火星探査責任者をキウェテル・イジョフォーが熱演、さらにより戦略を戦術に落とし込むジェット推進研究所(JPL)所長をベネディクト・ウォンが演じています。

 

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(↑ベネディクト・ウォン(笑)写真がなかった。。マルコポーロ出演時のフビライ・ハン役 よりよって、、フビライとは。。。フォローするすべがない)

 彼の平らな顔はよく韓国人に間違われる私としては、かなり親近感を感じます。

 

 さらに、アメリカのロケットがことごとく使えなくなった状況で手を差し伸べる中国国家航天局の主任科学者にエディ・コー。副主任科学者にチェン・シュー。白髪の老人と絶世の美女というラスト近くになって登場する中国の仙人と天女のような組み合わせは白人、黒人、オタクな黄色人種の間でこれまた異彩を放ちます。

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中国国家航天局の仙人と仙女。中国が助けてくれるのはいいんですけど、「グラビティ・ゼロ」でもラスト、最後はチャイナ頼みということで、最近はやりなのでしょうか。それとも地政学的仮想敵と仲良くしたいロマンがあるのでしょうか)

 

 キャストが科学者、実務エンジニア、組織運営者、そしてサバイバル当事者と多岐にわたる上に、メンバーの所在地である舞台も、火星現地、太陽系宇宙空間、アメリカNASA、中国国家航天局と点在し、全世界的、というか舞台は人種、舞台とも全人類の総力戦と化していきます。

 マッド・デイモン演じるマーク・ワトニーというたった一人の宇宙飛行士の救出作戦が火星からの人類サバイブ兼脱出に読み替えられる理由もここにあります。

 しかし、です。

 火星脱出にむかう一歩一歩はなんとも超がつくほど地味。

 その地味さが我々の人生の本質である、地味さ堅実さと重なり、マーク・ワトニーへの多大なる感情移入の基盤となっていきます。

 

  

 さて、冒頭に映画の出だしだけをゲーム実況者風に描写してみましたが、正直、この映画の見どころは「火星脱出にまつわる実況」といって差し支えないかと思います。

 ちょっと、実況のところは、有名ゲーム実況者風にアレンジしてみましたが、映画を見ていると、そういう声が聞こえそうではあります(いや、それはお前の勘違いだ)

 実際、ゲーム実況と彼の状況説明は重なる部分が多いです。

 なにしろ、火星からのサバイブという状況設定があり、どう考えても映画である以上、最後は脱出することがわかっている。

 つまり身も蓋もない言い方ですが様々な困難があるにせよ、その都度障害を乗り越えるだけの手助けが用意されていることは、明々白々です。

 なので、ある意味そうした「安心」の元、想定内の困難を予測しながら視聴者は彼の実況サバイブを楽しむことができます。

 実際、絶望的な状況ではじまる彼の火星実況「SOL1(サバイバル火星日時・第一日目)は、「SOL21」で好転します。

 なんと火星日時21日目にして、ワトニーは食料の中にジャガイモを見つけます。彼は備蓄食料のすべてを計算し、31日間を6人のクルーで過ごすために用意された食料が彼一人なら3年もつと把握し、そのうえで、ジャガイモを育て、次の有人探査がくるまでの4年間の食料危機を乗り切れると計算します。

 

 

 とはいえ、火星でジャガイモを育てる? そんなこと可能なのでしょうか?

 答えは可能なのです。そこは映画(笑)

そのための頭脳と、技能と、モノ(施設)が全て準備されているのです。

 まず、彼が食料の中でジャガイモを見つけたこと。

 さらに彼の経歴がポイントです。ワトニーはこの任務に就く前は、植物学者として発展途上国で農業支援を行っていました。

 つまり、彼はジャガイモを育てることに関しては超がつくエキスパートなのです。

 さらに、そこから導き出されたイモ栽培のための必要物資、つまり、土、水、光、空気。

 これも彼は次々に揃えていきます。

 土は自分たちの排泄物(ひらたくいうとうんこ)と火星の乾いた土をオリジナルブレンドしたものをつくり、水は前ミッションの遺物であった施設から水の原料となる水素を調達。火を起こし、酸素と水素を化合させ、水を調達します。

 酸素の問題は居住施設内に土を巻いて、畑をつくることで解決します。

 

 SOL21日目。

 じゃがいもを前にして、彼の脳裏にはこの一連のフローが出来上がっていたでしょう。なので、SOL21目の実況のラストの決め台詞は、

「火星よ、僕の植物学の知識を恐れよ」

 となります。

 そして、彼の小さなサバイバルは成功し、じゃがいもの栽培により餓死は防ぐことができます。

 そして、次に必要なことは、そう。NASAとの通信手段です。

 

 

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(実況者ワトニー、火星日時21日目に植物学者として真価を問われるの回)

 

 一方その頃、NASAではワトニーの盛大な葬儀の直後に、衛星写真の記録からワトニーの生存が確認され、責任者たちの救出劇がはじまります。

 

 映画はこの後も141分という長丁場を喜劇・悲劇を交互に織り交ぜながらまさに飽きのこない紆余曲折で展開していきます。

 この映画を見ていて、最後はもちろん全人類がもろ手を振ってワトニーの生還を迎えるシーンがあるのですが、あのシーンは本当に見ているこちらと画面の中のワトニー生還に歓喜する聴衆との感情が一体化していることに自分でも驚きます。

 なので、終始、ワトニーに感情移入する一方で、視聴者は自分があくまでも彼を見る第三者の位置なのだと思い知らされます。

 なんというか、普通、映画をみていると、もっと主人公に没入した感情を抱くことがあると思うのですが、その感じがこの映画は希薄なんですね。

 

 それはもちろん、この映画に感情移入できないということではなく、この映画の構造が視聴者が感情移入するのは主人公ではなく、そんな火星サバイブをする人間がいたら、あなたは同じ人類としてどう感じるかという、ワトニーを眺めるだけの聴衆のスタンスを要求されている気がするのです。

 

 もっと、簡単に言うと、この映画を見ていて感じる爽快感や切実さは実況動画を楽しむっ状況とそっくりだ、ということです。

 

 火星からの脱出という設定は、「〇〇からの脱出」に広げて話をするとこれまで数限りなく描かれて来たモチーフです。

 映画に限らず、サバイバルゲームのほとんどは、自分の生存を確保しながら、監禁された場所、隔離された場所、危険な場所からの脱出が目標です。

 そこでは基本的には舞台があり、障害があり、しかし用意された解決方法があります。

 でないと、ゲームにならないわけですが、エンタメとして成立するためにはこうした用意された障害と解結方法があり、逆に言うと、誰でも「ゲーム内の問題を解決」すれば、クリアになる単純さがあります。

 

 しかし、その単純さが物足りなさでもあります。

 舞台設定や問題解決が用意されたゲームであれば、そこで想定外の事件は起きようがなく、起きるとすれば、それはプレイヤー自身が独特の行動をとったときのみです。

 その独特の度合いが極端であればあるほど、完成された舞台と障害からのバグ(異物)となって逆にプレイする実況者のキャラクターが見えてきます。

 ちょっと話がそれてしまいますが、私がゲームをプレイするよりも、観るほうが楽しくなってきたことの理由の一つがゲームをプレイすることが退屈になり、それを楽しくプレイしている人を見るのが楽しいという状況への変化があります。

 ゲーム世界では、もちろん日常にない舞台、たとえば廃病院であったり、軍事施設であったり、中東やアフリカの紛争地帯であったり、南米のジャングルであったりします。

 そこをリアルなグラフィックや予算をかけた舞台セットとして見て回るのはそれだけで楽しいことではあります。

 そしてそこで繰り広げられる情報戦やチームワークを駆使した隠密捜査や潜入捜査、暗殺、狙撃、あからさまなドンパチなどなど。

 それは楽しい体験そのものですが、その部分がリアルであればあるほど、主人公のキャラクター(こんなとき、どう行動する、どういう動機で行動する)というファジーな部分はなくなっていきます。

 つまり、どれほどファジーで自由に見えてもゲーム内では問題解決のための行動が少し増えてはみても結局は決まり切っているということになります。

 

 この高度に完成された世界観と事件と事件解決方法のリアルな幅広さは、一方で主人公のキャラクター性を失わせることと実は表裏一体なんじゃないかな、と思います。

 「オデッセイ」の監督、リドリー・スコットの作品について多く言われることのひとつに、映像にこだわりすぎて「ドラマ」が希薄ということがあります。

 監督はよく「映画は映像だ」というスタンスで作品を作っていますが、もちろん映画は「観る」ものなので、まず最も大事にしなければならないのは映像といっても過言ではないでしょう。

 しかし、すばらしい映像だけがある映画は、やはり視聴者の物足りなさを誘発することは否定できません。

 視聴者は映画に見たこともない映像体験を求めるとともに、ストーリーも求めます。ストーリーとは簡単に言ってしまうと、主人公が変化することです。

 この主人公の変化は文学的、心理学的、社会学的問題なので、描くのが簡単ではなく、ならばいっそう無視して映像をかぶせて「映画っぽく」してしまうことは可能なのです。おそらく意識的にそれをして「映画」になるのは数少ない天才的な監督のみで、大半は物語も映像も中途半端だと評価されてしまいます。

 そして最近のゲームを実況動画として見ていても映像美のわりに物語が追いついていない気がします。

 もちろん、中には物語も映像も連動してすばらしい作品もありますが、総じてこの手の作品をつくるためには労力も才能も要求されます。

 とはいえ、ゲームはあくまでもプレイするものであり、映画のように観るだけではありません。

ゲームが映画のような映像美を獲得するにしたがって、ゲーム中の物語の期待ども上がっていくわけですが、ゲーム業界においてはゲームを物語のようなストーリーにすることへの違和感も持ち上がっています。

 物語とは平たく言うと、主人公の変化です。

 そしてゲームという文脈の中での主人公の変化は、主人公の成長であり、戦闘能力の飛躍です。

 これが何を意味するか。

 ぱっと思いつくのは、バトルのインフレです。

 つまり、最終的には指パッチンだけで星を吹き飛ばすほどの戦闘能力とはいかないまでも、バトル能力のインフレは強い敵に対する、より強い攻撃能力という人外的なパワーアップにつながります。90年代の少年漫画のラスボス戦がすべてそうした星間大戦のようになるのを憂えて、よりミニマムなルールを設定したゲーム、頭脳プレイ、心理戦というバトルを少年漫画が取り入れるようになったように、ゲームもそうした歴史を踏まえてのことなのか、ゲームのストーリーの中に大きな成長物語を入れるのをためらっているという話もあります。

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(90年代のとあるバトルインフレを象徴するマンガのキャラクターのコスプレ)

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(バトルインフレを脱出した心理戦やルール内バトルを中心に据えたとあるマンガのキャラのコスプレ集合写真 ツイッター@chappppppppp様より

 

 しかし、それはわかりますが、いまいちそうしたゲームでは物足りないと感じることも事実です。

 そうした状況を打開したのがゲーム実況者という存在なのではないかと私は勝手に思っています。

 画面がますます綺麗になり、しかし逆にそれによって主人公の変化という物語のうすさが映画と比較されるようになり、そこでキャラクターと物語の不在を埋めるキャラクターとして実況者が登場するというか。

 今のゲームが世界観だけというつもりはなく、逆にゲームが世界観だけでいいという意見もおおいにありだと思うのですが、どうしたって人は世界観だけでは飽き足らない。

 そこで、世界観で過剰に反応する生身の主人公がほしくなる。

 戦闘能力が高い寡黙な主人公だけではなく、セリフを言う、私たちと同じだけのスペックしか本質的にはもたず、この世界で生きている人間。

 その人間が壮大な世界と私たちをつなぐとしたら。

 私たちは世界観だけを見てももう、満足できない。

 そこで、何を感じ、何を思うのか、異世界で冒険する第二の主人公(実況者)である生身の人間が見たい。

 だからこそ、今の私たちは、ゲームをプレイするのではなく、ゲーム実況者を見るのを楽しむのではないでしょうか。

 

 さて、恥ずかしいくらい話が火星から飛びましたが、この「オデッセイ」もよくあるシチュエーションではあるけれど、それをゲーム実況風に演出した(結果としてそう見える)からこそ、妙に楽しめたような気がします。

 主人公マーク・ワトニーはそれこそ科学的・サバイバルの両スペックが高すぎる高い人類のエリートですが、人間的な魅力としてそこまで個性があるかと言われるとそうでもありません。

 ただし、彼のおかれた異常な状況と火星の有人探査が可能なぐらい未来でありテクノロジーも進化した世界にあって、

 フィクション世界においてはほぼ全能なAIが排除され、

 まったく土臭い人間的能力だけで生存にまつわる障害を乗り越えていく姿に共感し、 同時に彼がそれを実況することで、

 視聴者は主人公から否応なく切り離され、

 彼を見ているという側に追い立てられ、

 だからこそ、私たちは火星にひとり残されたという過酷すぎる状況に感情移入しすぎることなく視聴者という安心して楽しめる仕様になっています。

 

 

 いやあ、しかしここまでくるのが長かった。

 ここまで読んで下さった方、ほんとうに今回はすみません長ったらしくて。

 次からはもっと完結にします(笑)

 

 そして、そして、最後に、忘れてはならないこの映画を彩る70年代のディスコミュージック、必見です。

 

 物語中盤で流れるスターマン 

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はどこか懐かしく、ふいに白壁の中を浮遊するキューブリックの「2001年宇宙の旅」を彷彿とさせ、あれは70年代よりも以前だったことを思い出してなんとも言えない気持ちになります。

 

 そんなわけで、「オデッセイ」。

 ゲーム実況にはまっている人もそうでない人もぜひぜひご覧ください(はじめっから、そう言え)(*´▽`*)

 

7月11日(火)7月に見たリベンジ映画レビュー(プロメテウス)

 映画「プロメテウス」のテーマは最大限に発揮された監督のおちゃめさに尽きる

 

 

 プロメテウス(12)アメリカ:リドリー・スコット監督

           主演・ノオミ・ラパス

 ★★★★☆(4点/5点中)

 

 2093年、地球から惑星探索を目的とした学者チームが派遣された。きっかけは、遡ること4年、スコットランドで発見された35000年前の壁画だった。壁画には星々を指す巨人をあがめる人類の絵が描かれており、同じようなモチーフは交流不可能な世界中の古代文明の中に存在していた。この巨人は、人類の始祖ではないか。学者たちをバックアップする民間企業ウェイランド・コーポレーションの宇宙船プロメテウス号はエンジニアと呼ばれる人類の始祖(エンジニア)と出会うため地球を出発した。

 

 

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 というわけで、リドリー・スコット監督の「プロメテウス」。

 ちょっと古いので、たくさんの方がすでに視聴されたかなあ、と思います。

 ええと、みなさん、どのような感想をお持ちになったでしょうか。

 私はですね、なんというか、率直に言うと、

 映像、すんごいきれい。さすが、監督!

 でも、監督、かなりおちゃめな感じで適当さを感じるんだけど、気のせい?

 ……です。

 

 感想は、うーん、複雑ですね。

 なにが複雑って、あの徹底的な映像美にこだわるリドリー・スコット監督なので、色々、こちらの期待から提示された謎の答えがダイレクトにそれていくのを感じても、視界は明瞭なので、許しちゃうっていうか(笑)

 でも、これってプロメテウスというギリシャ神話のキャラがタイトルになっていようが、あの血みどろサバイバルホラーの「エイリアン」シリーズに名を連ねていることには変わりないのです。

 なので、もちろん意識的には「トカゲちゃん、スタンバーイ」なのですが、これはいつものサバイバルホラーのテイストで臨むと「いたっ! いったーい」となります。

 かと言って前評判のメジャーなコピー「これはエイリアンと人類の関係をひも解く生物学的ミステリーである」と脳に気合いをいれてみても、肩透かしにあってしまうという、ひどく微妙なラインをついてくる仕様となっております。はい。

 

 映画の冒頭では原始的で壮大な太古の自然が描写され、雲海の中にたたずむ高い山、衛星からの眺望である複数の河川が蛇のようにのたくる地形、夜明け前の荒涼とした大地のショットが続き、パソコンの画面でみている私でも、

 「これ映画館に行くべきやった!」と後悔のヘリケーンに襲われたり、背後で奏でられるオーケストラの雄大な戦慄は「ナショナルジオグラフィック、光臨か!」という感じで、非常に生物学的進化論的ドラマが始まるような、手抜き感のまったく感じられない洗練された幕開けに胸キュンに拍車がかかるのです。

 もう、監督ったら!

 と手に汗握るのが冒頭です。はい。

 

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 (監督と主演のノオミ・ラパス女史)

 

 ただ、この壮大な太古の自然状態の場所がどこなのか、いつの時代なのかは、わかりません。

 とにかく文明とは隔絶した生物さえこばむような自然。

 そこに一筋の大河が現れます。

 やがてその大河に注ぎ込む爆流に、人影が現れます。

 黒いローブをまとった人影の身長は少なく見積もっても2メートルはあるでしょう。影の頭上、滝の上には楕円形の物体が浮いています。

 おそらく、宇宙船。

 厚い雲に遮られた曇天の元、黒い影はローブを脱ぎ捨てます。

 すると、現れたのは筋肉隆々とした青白い肌、無毛の人類によく似た人型の生物です。彼はおもむろに黒い液体を飲み干します。

 すると、彼の頭上で待機していた宇宙船はそれを見届けて納得したかのように、飛び立ち、液体を飲んだ彼の肉体に異常が現れます。

 白かった肉体に黒いカビのようなものが広がりはじめ、彼は苦痛にうめきはじめ、彼の肉体ではDNAが破壊され、細胞自体が崩れ去れます。

 同時に肉体は、破片となって滝のなかに落ちていきます。

 彼のDNAが大河の中に溶け込んでいきます。

 

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 と、これが冒頭のシーンで、これを見て、

 「この白いおっさんのDNAが人類の元ネタになったんだね」とわかった人は皆無でしょう。

 しかし、このあと、宇宙船プロメメテウスが巨人の住まう星にたどりつき、

 そこの巨人の遺体のDNA解析をすると、人類と「完全に一致」したことから、

 この白い巨人こそが人類の始祖(人類をつくったエンジニア)であると証明されたも同然のシーンがあります。

 そこで、ああ、そうなのね。

 と、なるのですが、ここらへんで

 「ちょっと待って、あのトカゲちゃんまだ出てこないんだけど、どうした?」となります。トカゲとは、あのシリーズを通してリプリー先生と戦ったエイリアン先輩なのですが、3分の1を経ても、先輩は、登場しません。

 

 いや、ストーリーは全体を通すと、「エイリアン1」とほぼ同じです。

 つまり、隊員が(今回は学者連)が怪しげな宇宙船廃墟に探索、仲間が一人寄生、そこからパニック、サバイバル戦突入というやつです。

 しかし、今回のプロメテウスは、こう見ていて

 「どこ見ます? 監督、私にどこ見てほしいの?」

 っていう疑問がついつい出ちゃうような感じなのです。

 

 つまり、出だしは「人類の始祖って、もしかしてエイリアンなの?」という期待値。

 しかし、中盤からは「サバイバルホラー(謎を引きずっているけど、謎は回収しないというか、すでに冒頭のパントマイムで見せているっちゃ見せてる)。

 で、そういう「あれあれ?」という気持ちをねじ伏せるかのように、美術的な「新触感」をかぶせてきます。

 

 たとえば、ウィランド・コーポレーションの、見るからに怪しい密命を受けたアンドロイド・デヴィッドが巨人の船の最奥部で、巨人たちの歴史をVRで体感するシーンがあります。

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 このシーンなんか見ていると、

 「すっごい、きれい。プラネタリウムw」

 なんて一瞬トカゲ先輩の宮殿にいることなど忘れてうっとりしちゃいますし、

 そのあとの巨人やエイリアン先輩の進化前のタコとの乱闘はなんか既視感ありつつも、やっぱりみちゃいますし、つまり、最後まで見て、一生懸命見ても、そして見直しても、ほかの方のレビューを見ても、

「結局、プロメテウスって?(人類と巨人とエイリアンの関係って? 生物学、進化論的ミステリーの謎って、そして答えは?)」という壮大な問題提起は空振りしてしまうのです。

 で、監督はというと、インタビューで、「深読みした私(観客)のばか」みたいなことを平気で発言してます。

「プロメテウス?ってタイトル? なんか、かっちょいいっと思ってさ。イメージ、イメージ」

 

 みたいな感じで、監督、おちゃめすぎです。ラブ!

 

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 という感じになり、撃沈します。

 あの、例の壮大な問題提起は、いずこへ?

 

 結論、映像がいい感じなんでですよ。きれいです。けっこう、きれいです。

 それで、納得しましょうか。そうしましょう。開きかけた傷口に焼酎もないでしょう。みたいな、感じになります。

 

 いや、いやでもでも、

 私の中で、気になりまくる残る巨人と人類の関係性。

 巨人と聞いて、思い出すのがハードSFの名作「星を継ぐもの」(J・P・ホーガン)です。こちらは、月の裏側で最先端の宇宙服を身にまとった人間の死体がみつかり、それがなんと五万年も前だけど、なぜ、というところから始まるSFミステリーですが、こちらはきっちり謎を回収してくれているので、後日ちらっとレビューします。

 そういうわけで、監督のおちゃめさはきらいじゃないけれど、やっぱり「人類とは」みたいなSFミステリーで「感動」したい気持ちもあったのでした。

 

 

 さて、話は変わって今回、「プロメテウス」が「エイリアン1」の後日譚だという噂を聞いて、この初代まで見直してしまいましたが、やっぱりあの食事のシーンはいいですね。

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 みんなでわいがややっていて、突如、犠牲者Aの隊員のお腹からトカゲがでてくるあの戦慄のシーン。

 人のおなかは食い破るは、血液は強酸だわ、あんた、それでも生物?

 最悪やん、となるわけですが、生まれたてにも関わらず、かなりIQが高いトカゲちゃんと戦い抜くリプリー、初代がなんだかんだシンプルかつ劇的だなと思うわけです。

 

 それから、主演のノオミ・ラパスのことを忘れてました。

 

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 この方、全然わかりませんでしたが、「ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女」のリスベット役なんですね。

 あの役のキレ具合が派手だったので、本当に別人のような知的女性の極みの役だった今回、美人なのに、不思議におとなしい感じがしました。

 シャーリーズ・セロンが学者たちのお目付け役として共演しているのですが、こちらが妖艶過ぎて完全にノオミ氏を食べてしまったような。

 噂では、セロンが当初はヒロインだったとかいうので、そのへんのミスマッチも、予算や時間の関係だったのか、監督のおちゃめさだったのか、気になるところです。

 そして、「プロメテウス」続編は、今年9月に上映予定だそうなので、みなさん、監督の映像美に期待して、観に行こうではありませんか(嘘くさい(笑))

 

 では、そんなかんじで、また次回~w

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7月10日(月)7月に見た映画レビュー①(スノーデン(16)アメリカ)

 

 

 スノーデン(16)アメリカ:オリバー・ストーン監督

              :主演 ジョゼフ・ゴードン=レヴィット

 

★★★☆☆

 

 2013年、元NSAアメリカ国家安全保障局)職員のエドワード・スノーデンが機密情報をガーディアン誌に暴露した。これは、実話である。

 

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 短くまとめると、こうです。

 2013年当時、かなり世間を騒がせたお話のはずなんですが、私、ほとんど記憶にないんですよね。

 いったい、自分なにしてたんだ?という感じですが。

 そういうわけで、実話です。

 エドワード・スノーデンは前述したとおりNSA職員当時に得た機密情報をイギリスの大手メディアに暴露したことから、現在もモスクワに亡命中です。

 彼がガーディアン誌に暴露した機密情報とは、NSAが全世界中の、メール、フェイスブック、通話データ、個人情報等々を違法に収集しているということでした。

 NSAのこうしたプライバシーを完全無視した暴走の背景には、

 2001年の同時多発テロがあり、

 スノーデンが配属された2003年もアメリカ全体の愛国主義に端を発する抑圧的政治の始まる時期と重なります。

 

 実話としては、もちろんスノーデンがしたことは英雄的な行動であり、

 賞賛をあびてしかるべきものなのですが、映画として見ると正直「物足りない」感がありました。

 

 理由は明白で、国家による監視体制というのはもう半世紀以上も前からSFフィクションの中では語られてきたことで、

 その舞台設定がやっと現実に追いついてきたということ以外に

 「ぎょっとするような」新しさが映画全体に見つけにくい。

 国家による国民と他国への監視があって、それでその先の物語をさんざんこれまでSFで見たきたおかげで(というか「せい」で)、この「現実世界における機密暴露」のインパクトがもはやインパクトでない毒され方をしているのが、21世紀に生きる私たちの病なんじゃないでしょうか。

 

 なので、映画として見る態度をものすごく「真摯」に改めないと、「エンタメ来いや!」の態度は肩透かしをくらってしまうわけです。

 

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(↑1984 書かれたのは1949年 微妙に未読な、監視社会を描いたディストピア小説 )

 

 なので、ちょっと真摯な態度をとることにするとですね、

 この映画ではあまり全面に押し出されていないのですが、

 この監視社会の行く先について考えてみたいと思います。

 

 プライバシーって必要?

 

 そもそもプライバシーってなんで必要なのかということです。

 スノーデンの所属するNSAの上司によると、アメリカ国民は「自由より安全を望んでいる」らしいです。

 もちろん、これは911というとんでもないテロに遭遇した反動から生まれたNSAのお得意の欺瞞です。

 スノーデンはそうしたNSAの政策のもと、

 フェイスブックやチャット履歴、メールなどから一人の人間の交友関係、お金の流れ、信条、リアルタイムの行動までNSAが監視をしている現場に出くわします。

 監視をされている現状から、彼自身も日常生活でストレスを感じるようになり、

 恋人との仲もギクシャクしていきます。

 プライバシーに関する最も大事な点はここで、

 この監視をされているという状態によって、

 人は行動規範がかなり制限されてしまうのです。

 

 

 考えてみれば当然で、人は、誰かが見ている場所では「望まれたふるまい」しかしないものです。

 そして、一人になったときにようやく自由と開放を味わえる。

 もともとネットという匿名性の高い(この物語中では逆に低い)場所でこそ、

 人は自分らしくいられる、だからこそスノーデンはパソコンに夢中になり、

 この世界に入ってきたのです。

 しかし、匿名だと思っていた場所がすべて監視の対象になっていました。

 

 2013年当時は、監視されていることすら「知られていない」状態だったので、

 それが暴露に繋がりましたが、本来は人々が「監視されている」と知ってしまえば、実はそのほうが監視する(この場合は国家ですが)側にとっては、手間が省けます。

 監視されていることが分かっている人間は、

 わざわざあぶない橋を渡ったりしません。

 そもそも監視の目的は犯罪行為、テロ行為を未然に防ぐためにあるのですから、

 行為の前からそれが露見してしまえば、そもそも犯罪を抑制することにつながります。

 この監視されていることが、行動を制限するという一連のフローは、

 ミシェル・フーコーの「監獄の誕生――監視と処罰」の中で40年前にすでに指摘されています。

 人々の中に「監視されている」という意識が芽生えてれば、もはや国家は実際に監視することすらしなくなるかもしれません。

 

 これがプライバシーにとって致命的な点で、監視は人間の自由な発想と行動を極度に制限するものになりうるということです。

 

 そして、実際にこのすべてを監視対象にするということが、

 テロ対策にどれほど役に立つのかは、はなはだ疑問なところです。

 全てを監視して自由を制限するよりも、あきらかに「やばい」対象をロックオン監視したほうが、効率がいいのではないかと思うわけです。

 (ちょっとここら辺は深く検証していないので微妙ですが)

 

 なぜ、国家は監視にやっきになるのか?

 

 そして、ここからは私の直観というかイメージなのですが、

 ではなぜNSAがそれほどやっきになって全世界を監視下に起きたかったのかといえば、それは二つ理由があると思います。

 ひとつは、それが「できた」から。

 もう一つは、全世界を監視することを「システムが要求したから」ではないかと思うのです。

 システムは常に完璧を求めるもので、

 欠陥があればそれを補完するように次々に対応策を考えます。

 それはある意味で、手段と目的のすり替えともいうべきもので、

 そもそも人々の自由を拘束し、社会が停滞するのと、

 テロの頻度と犠牲を天秤にかけたとき、冷静な判断をすればどちらがより、

 社会全体にとって有益なのか、歴然とすると思うのです。

 ではなぜ人々を徹底的に抑圧する方向に行ってしまうのか。

 そこにはシステムが要求する完璧さと、

 それによって完璧な存在になりうるという幻想を持つようになった国家・組織の共犯関係があるのではないかと私は思います。

 と、まあここからはさらに妄想はいっちゃうので、こちらは創作で消化するにして、、

 

 

 さて、最後になりましたが、主演のジョゼフ・ゴードンについて。

 日本のアニメにあるようなほぼ本物にしか思えない寄せ方はそれほどしておらず、

 翻って日本の寄せ方のすごさに感服したわけですが、

 ラストシーンで本人としか思えないカットがあり、

 「ジョゼフ、やればできるやん!」と、思ったら本人だったというオチ。

 自分の見る目を疑った瞬間でした。

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(↑本人映像。。本人にそっくり、、じゃなくて本人だし、、、)

 

 

 あと、地味なところで、最近またデビット・フィンチャー「セブン」を流し見したのですが、ここでもまったく証拠を残さない犯人を追い詰めるために、

 犯人が見立て殺人をするときに使った「七つの大罪」関連の書籍を読んでいる人間を洗おうとするシーンがでてきます。

 その人物の洗い出しになんとFBIが秘密裡に集積している図書書籍のレンタルデータをを使います。

 これ、先週見ているときは、「使えるもんは使おう、ナイスだ」とか、単純に思っていましたが、完全なる監視体制ですよね。

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 こういうサイコさんを捕まえるためには、いいのかなとも思いますが、

 自分が図書館で定期的にレンタルしている犯罪心理学の履歴を誰かが

 監視していると思うと、ちょっと微妙だな、と思うわけです。

 そんなわけで、知らぬが仏が幸せだと思うのでした。

 さてさて、週末は映画をたくさんみたので、ちらちらレビューしていきたいと思います。

 では、また。以前レビューしたセブンはこちら↓

 

 

hagananae.hatenablog.com