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5月29日(月)江戸の空気を味わう(映画:百日紅)

5月29日(月)江戸の空気を味わう(映画:百日紅

 

 浅草と両国の間を流れる大川(隅田川)にかかる大きな橋がある。

 橋を、浅草を背にしてわたるとき、川の左岸に見える幕府お抱えの米倉が見える。

 それで、ああ「お栄」が渡っているのは、両国橋なのだな、と思う。

 高い建物など一つとしてない、抜けるような青い空。

 江戸の空がことのほか広く見える。

 

 

 オープニングでお栄のいる場所がなんとなくわかってしまったとき、うれしいような切ないような気がした。

 うれしいというのは、お江戸の風景を見て、それがどこか見当がつくほど自分が江戸を知り得るようになったことからくる。

 切ないというのは、かつであって江戸の町にはもう二度といけないのだな、という寂しさからくる。

 

 どんな人も「自分が受け入れやすいファンタジー」があると思うが、

 私の場合はそれが江戸時代を舞台にしたチャンバラだったりする。

 水戸黄門や遠山の金さんなどは、見ていてつっこみどころが満載だが、

 そうであっても男女が出会ってぶつかって恋に落ちたり、その女魅力ある?

  と思う主人公がモテモテである、というような恋愛ものよりは、

 ずっと私にとっては受け入れられるファンタジーなのだ。

 

 まあ、一口に言っても時代ものと言っても幅が広すぎるわけだが、

ここのところは江戸の絵師、北斎とその娘、お栄ばかり追っていた。

 

 北斎はあまりにも有名すぎる絵師のため、小説や映画やマンガでも多く扱われているが、その中でも特に有名な杉浦日向子作の「百日紅」を見ていなかったのは不覚だった。

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この作品はお江戸を舞台にした漫画家であり、批評家でもある杉浦日向子のマンガを原作にしたアニメ映画だ。

 杉浦日向子はあの北方謙三宮部みゆきが「師匠」と呼ぶほどのお江戸通の重鎮だ。

 舞台はおそらく文化文政(1804~1831)の頃で、江戸がその平和であり貨幣経済が最高潮に達した、超絶文化的おされな時代だ。

 こういう時代には人が絵にお金を払うだけの余裕が生まれており、とはいっても、海を越えた英国のように産業革命で街や人々が追い立てられることもなく、20年後に日本をおそう幕末の血なまぐさい怒濤の時代の沸騰もない。

 

 まさにお江戸と言ったらさ、これよ、というような時代。

 

 この映画が、思いの外よかった。

 とくになにも起こらず、どうしたんだ、この映画、どこがいいんだ、

とおそらく普段の私だったら地団駄を踏むのだが、

この作品にかぎってはそうならなかった。

 

 その大きな理由は、江戸時代の雰囲気をあますことなく描いているからかもしれない。

 それは、ゆったりと流れる時間だったり、

 高い建物のない江戸ののんびりとした町並みであったり、

 大川を流れる青く澄み切った水であったり、

 長屋の閑静なたたずまいであったり、

 まさに杉浦の思うお江戸ファンタジーなのだが、

 そのファンタジーがひどく心地がよかった。

 

 疲れてるんだ自分、というのはもちろんのこと。

自分が切り絵図で追っていた平面的な二次元が三次元として「風景」として立ち上がって、目の前に広がっていることの感動だった。

 

 ああ、江戸時代に行ってみたい。

 時代小説家が抱くそんな夢をふいに私も感じた一瞬だった。

 そういうわけで、「百日紅」ではなにも事件らしい事件は起こらない。

 ちょこちょこと化け物退治をしたり、妹が危篤になったり、

 淡い恋があったりと随筆的な事件は起こるのだが、

 たとえばお栄が絵師としてゆるく成長をする、

 ということをのぞいては起承転結をするような大々的な事件は起こらないのだ。

 だからこそ、江戸の町並みや空の高さ、四季が移りゆく空間をゆったりと感じられる。

 この感じる余裕がきっと江戸ファンタジーの醍醐味で、杉浦日向子の残した江戸の良さなのだと思う。

 なので、おすすめはしない。

 なぜなら、お江戸の景色は今も残る日本の四季を感じる余裕さえあれば、

 感じられるものだからだ。

 それをあえてみたいというのは、

 江戸時代というあの信じられないくらい平和でゆったりした時代があったという、ノスタルジーであり、懐古趣味がもたらすものかもしれないと、思うのだ。

5月28日(日)かわいくない子が旅にでる

5月28日(日)かわいくない子が旅にでる

 

 まじで信じられませんが、今年も5ヶ月経ちましたよ。

 まあ、3ヶ月とか4ヶ月のうちは、日々のことに忙殺されていたわけですが、5月も終わるとなんかこう、冷静な目というものが戻ってきますな。

 そして、眺めてみると、まあ恐ろしい。。

 5月ですよ。来月オール読みもの締め切りじゃん。2本書くとか言っておきながら、なにもやってないじゃん。。

 みたいなことですよ。

 まあ、最近みんなに言ってますが、なにをしてもしなくても、時は流れていくものですね。

 

 コーイン矢の如しですよ。

 

 そういうわけで、タイトル。

 旅ですが、ついに来週から高野山熊野古道に2泊三日で行きます。

 もうねえ、念願かなったり。

 超絶楽しみ!!やっほーい!

 

 

 

 

 

 っていうのは、嘘です。超絶めんどくさいです。

 

 

 いや、ほんと。

 心の底から旅なんてめんどくさい。

 でも、行かなきゃと思って行くわけです。

 どうせ行くなら、まか不思議な文化があるところ、とか思うのです。

 もう、熊野と高野山にいたっては、結構勉強しましたよ。

 イヤになるくらい。

 

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(↑私のてづくりしおり 1日目)

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(しおり、二日目)

 

 

 途中、天理教の本山も寄るのでそっちのもかじったり。。

 

 だいたい、行く前に猛勉強してから行かないと、

 仏像とか寺の境内って全世界、日本全国同じに見えますからね、

 

 

 さて、今回は旅がめんどうだって話がテーマです。

 とはいえ、私は定期的に旅に出ることを自分に課してます。

 義務づけていると言ってもいいです。

 

 イヤなら家にこもっていればいいのに、と思いますが、

 家にこもっていて、しかも地元の人間が8割教を占める非インターナショナル、

 苛烈ドメスティックな職場(役所とかね)にいると、

 頭がおかしくなっちゃうんですね。

 ものすごい狭い思考と、半径30キロの栃木県的思考になるというか。

 物書きを目指す上でも、仕事をする上でも、ぜんぜんよくないわけで、

 

 なので、旅に出ます。

 

 とはいえ、国内ですから、行ってはみても、またぞろ寺か、海か、船か、川か、ラーメンか、そばか、うどんか、コロッケか、ってなわけです。

 

 ですが、旅の真骨頂は終わってからなんですね。

 終わってから、なんだかいままでと違う日常が見えてきたわってなことになるわけです。

 具体的いうと、煮詰まっていた考えが暴風に吹き飛ばされたり、同じ暴風がこれまでにない考えをどかっと胸の中に放置していったりするみたいな感じです。

 これが、長く目のでない努力、(たとえば作家になるとか)をする上でこの上ない活性剤になるというか。

 だから、旅を義務化しているというのもあります。

 

 なんでしょうね、ほんとうに旅というものがつまらなくなりましたよ。

行っている間なんて、ほんとうにだるいというかね。

 でも、旅をすることで切れ間のない日常を一時的に無理矢理放置して、

 身体ごと、違う土地に持っていくのはかなり意味のあるリフレッシュです。

 かつて、私も旅にでるとうきうきしました。

 心の底から解放されて楽しかったです。

 今、旅にでて楽しめないのは、私がほんとうにしたい仕事になかなかつけないからです。

 本当に心の底からぶつかれる仕事を持ったならば、きっと旅も楽しめるんじゃないかと思います。

 旅はきっと、日常に充実しているからこそ、楽しめるかなり贅沢なものなんじゃないかと、今はそう思うわけです。

 

 

 そういうわけで、結論

みなさん、人生楽しくても楽しくなくても旅をしましょう。

 きっと、離れることで見える日常のよさがあります。

 

 

 ちなみにこれを同じことを今月見た、「るろうに剣心」実写版、伝説の最後編の剣心の師匠が言ってます。

 

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(↑ 剣心の師匠、、っていうか解説不要なぐらい有名、、かもしれないシーン)

 

春は夜桜 夏には星 秋には満月 冬には雪 それで十分酒は美味い。それでも不味いんなら それは自分自身の何かが 病んでる証拠だ

 

 

 私の場合、二泊三日も旅をしてつまらないってんだから、これはもう病んでる証拠でしょうね。

 でもいいんです。

病んでる上等ですよ。

 いまさら健康になんか、なってもつまらないだけですからね、

と、私は師匠に言い返し、斬られるのでしょうね(笑)

 では、いってきま~す

 

 

 

5月13日(土)おてんばな花がすき

 

 いま、庭が花盛りの一歩手前だ。休日の朝に、庭をはさみを持ってふらつきながら、花をとるのが好きだ。庭に花があふれているのだから、愛でるだけで満足すればいいものを、私はそれを部屋に飾るのがすきでたまらない。

 近所の川沿いの道をランニングしていても、そのうち走ることより土手の草花が気になって最後は手にいっぱい花を持って帰ってくる。

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(庭の好きな場所。 花のカーペット。踏まないようにこっそり歩く)

 先日、益子で陶器市が行われており、母と二人で物見遊山に行ってきた。母も私も器が好きなのだが、最近になって器はそれほどいらないことに気がついてしまい、まさに気晴らしに行ったようなものだった。

 とはいえ、人がつくった器はあたたかみがあり、見ていると、料理を丁寧につくりたくなる。お茶を丁寧にいれたくなる。似合いの花を生けたくなる。

 つまり、生活というものを大事にしようとひきしまるような、ゆるむような不思議な気持ちになる。しかし、器はそれほどいらない。

 なぜ、益子の話になったかというと、陶器の花瓶を見ていて、やはり土でつくった器には、野の花が似合うな、と思ったからだ。

 益子の器が垢抜けないという話もないにはないと思うが、どういうわけか、土臭い器には土臭い花が合うと感じる。

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(ピンクや紫の花が多くなっている。例によって、花の名前がわからない)

 

 

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(垣根のかわゆい、こでまり。。。だと思う)

 

 その土臭い花、野の花を「おてんばな花」と表現した方がいる。

 二部治身さんという八王子に住んでいる女性だ。

 二部さんは、1940年生まれで季節とともに生活するスタイルを実践しており、私は花と香りの関係の本を読んでいる時に知った。

 この方の生き方は季節、自然、手仕事の三位一体で、一般的な日本人よりも前に高度経済成長以前の生き方のすばらしさを取り戻そうとした人だろう。

 というより、三位一体の生き方を貫き続けて、時代がそれに追いついたというか。

 とにかく、この二部さんの花の生け方にぴんときてしまった。

 二部さんは、花屋で買ったきれいな花よりも、野に咲きほこる雑草のような(雑草とはひとことも言っていないけど、わかりやくいうとね)花に味わいがあると言っている。私もここのところ、自分がフラワーアレンジメントで使う花よりも、種がふわふわと飛んできて、つい、そこになじんでわさわさ生えてしまったよ、というような花が好きなことに気がついた。

 

 2月の頃は、庭に花がないし、花がないと寂しさマックスで病気になってしまうので、毎週のように花屋にいき、通販でも花を買っていたが、ふと、庭に花が咲く季節になったとたん、どうかんがえても花屋のカーネーションバラやトルコキキョウより、庭の地味だが生命力のある花のほうがいいと思うようになった。

 さらに言えば、道ばたに生えている菜の花や藪椿や水仙なんかのほうがずっと季節とともにあって、かわいらしく強く、かっこいい。

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(白のクレマチス だと思う。。大輪ででも、どこか土っぽい花)

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(白のアジサイみたいな花 わさわさしてる)

 

 それを、二部さんは「おてんばな花」と表現している。

 それはまさに、型にはまらず、強くたくましく、自由にいきる人間と重なって、その姿を部屋に飾りたいと思わせる。

 

 今回のことで、花屋めぐりには興味がなくなってしまったのだが、野に咲く花を花束にした花屋さんを見つけて、感動したのでここに報告する。東京目黒にある「FARVER」さんというお店で、アレンジメントがかなり私のツボにはまり、いつかは購入したいと思っている。誤解をおそれずにいえば、それは、荒れ屋の庭にさくカオスな野の花畑にも似て、たくましく、どこかはかなく、凛としたたたずまいだ。

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(↑こちらは、Faverさんのサイトにあるお花 →farver

 そして、そのカオスであり、なんとなく「庭」っぽいアレンジメントはよくよく考えると、私の母が生ける花によく似ている。

 今の家の庭は母が切り花ように植えたものがほとんどだ。

 その母も母の母、つまり私の祖母から花について影響を受けている。

 職業人であった、母と祖母。

 凛としていて、なおかつ可憐である花をそばに置くことで、女性らしさや美しさやたくましさを忘れないようにしていたのかもしれないと、思うこのごろだ。

 

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(今週のお花 カーテンとおなじで、庭にもブルー系のお花が咲きほこってます)

4月28日(金)ツバメになりたい

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(去年我が家で生まれたツバメ ひとりひとりかわゆい顔してるw)

 

 

 いつのまにか一年が巡っている。

去年の夏の終わり、軒先のツバメは三度子供を生み、

私の部屋のベランダは20匹近くのツバメの子供たちでいっぱいになった。

 

 その若々しい子供ツバメ達は夏の終わりに、少しずつ飛去り、

やがて軒先には主のいない巣だけが取り残された。

 

 そのツバメ達が、つい先日また戻ってきた。

たくさんいた兄弟たちの誰が我が家に帰ってきたのか、それはわからない。

わからないけれど、夫婦となって、すぐに巣作りを始めた。

それは春先のことで、今はもう巣作りが終わろうとしている。

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(こっそり私が部屋からのぞいてとった兄弟たちの写真 去年w)

 

 4月に入り、忙しい毎日がはじまり、休日も家ですることが多く、気分は浮き足立つものの、どこかに旅にでる気にもならず、机の前に本ばかり積んで、読んでは書いての日々だった。

 

 12日に35歳を迎え、それが焦りになっていたのかもしれない。

 まだ何者にもなれていない自分と、ゆっくり進んでいくんだと思いなおす自分。

 それでも、もう無駄なことはできないと思い、ゆったりなにもかも忘れて遊びたいとも思えない。

 適度に充実しつつ、本当のところなにも肝心なことができていないという日々。

 息苦しくなり、ひさしぶりに仕事の帰りに温泉に行こうと思った。

 温泉ならば、時間を使うことなく、気分転換ができる。

 母を誘い、その日偶然にもリニューアルオープンした喜連川の温泉に行くことにした。

 リニューアルと行っても温泉の中身は変わっておらず、外のフードコートや野菜や特産品の売店が規模を拡大しただけだった。

 みちの駅が閉まるのは早いので、私たち親子が着いたときには今までどおり、温泉施設が開いているだけだった。

 私は露天風呂につかり、母はサウナに入った。

 しばらくぶりに喜連川温泉に入ったが、少しはいるとからだが芯から暖まった。

 湯船の外にでて、涼しい風に当たっても、身体がまったく冷えない。

 身体が暖まると、心がゆるゆるとゆるんでくる。

 私は長く入るために、外で風に当たることにした。

 すると、露天風呂のすぐ目の前の壁に通気口があり、その小さな雨よけの上に鳥が一匹ずつ座っていた。

 通気口は二つあり、柔らかいライトに照らされている。

 そっとちかづくと、鳥と目があった。

 ツバメの夫婦だった。

 露天風呂の中にこっそりと巣を作っているのだろう。

 二匹は眠たそうに、私を見下ろした。

 私は風にあたりながら、ここにもツバメがいるのか、と思った。 

 心は疲れも少しずつほぐれていたが、ほぐれたからか、しんみりした気持ちになってしまった。

 

 ツバメは、あっという間に成長し、巣を離れ、そして暖かい場所を求めて長い距離を跳び続け、そしてまた同じ巣に戻ってくる。

 そのときにはきちんと相手を見つけて、すぐに子供をつくる。

 それに比べ私は、まったくなにをしているのだろう。

 

 情けなくて、涙が出た。

 ツバメになりたい。

 ふいにそんな風に思った。

 

 湯を出てからも、なんだか疲れが出て、ロビーで母の長風呂を待っている間もノルマの読書をすることもできず、頭の中でツバメの姿がちらついた。

 母が戻ってきたときには、すっかり身体が冷えてしまい、結局帰宅してからもお風呂に入るはめになった。

 

 身体が暖まってくると、まあ、これが私の人生かな、と思い、眠気が差してきた。

4月28日(金)プレッシャーはロマンなしにはあり得ない2/2

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(下から見上げたしだれ桜 近所をランニングしながら)

  承前→ 1/2

 

 私自身、仕事に対する姿勢は年々、少しずつ情熱的になっていることは確かだった。

  職場で尊敬できる人にもたくさん出会ってきた。

 しかし、仕事に対する腹のくくり方は、むしろ今の職場でであった人たちからの刺激というよりは、婚活に失敗して、ひとりで生きていくしかないと思ったことが大きいし、仕事人ということであれば、実はリアルな今の職場よりも、

 残念ながら、映画や本から受けた影響のほうがずっと大きい。

 

 私の場合は、仕事人へのロマンを補足する意味で、今の職場があり、残念ながらその逆ではなかった。

 昔の私ならば、仕事を任されると言われたら、怖じ気づいただろう。

 だが、今回はそうはならなかった。

 

 それどころか、「いいっすよー、ぜんぜんやれますから」と軽く返事をした。

 

 なぜだったのだろう。

 自分の行動の心理が読めずに、悩むとは暇人もいいところだが、それほどこの出来事は私にとってまか不思議だった。

 

 しかし、答えがでた。

 

 それが、ロマンなきところにプレッシャーはない、ということだ。

 

 30代になり、組織のこと、そして組織を包む市民のテイストというものが見えてくる。

 それと同時に、やはり私はすきあらば(実力があれば)この職場を去り、さっさと第二の人生をスタートさせなければ、と思っている。

 

 人のせいにはしたくない。

 

 したくないけれど、保守の壁が厚すぎて、つまらないことばかりが続く仕事。

 そう思ったとき、ルーティンから抜けない仕事はいくら難しいといったところでタカが知れている。

 私は、そう思ってしまい、プレッシャーを感じなかったのかもしれない。

 私がプレッシャーを感じることは、いまの業務にはない。

 だからこそ、皮肉なことに、冷静に業務がこなせるという自信を感じられるのだろう。

 でも、それって、ぜんぜんおもしろくないと思うのだ。

 思うから、その間に私は未来にむけてひたすら勉強に励もうと思う。

4月28日(金)プレッシャーはロマンなしにはあり得ない1/2

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(職場の庭の桜 昼休みのランニングのときに撮影)

 

 4月の人事異動で直属のチームリーダーとベテランの先輩が異動・退職となり、課内で2年目を終えた私が「ベテラン」になってしまった。

 課長補佐にも(この課長補佐が大泉洋に似すぎているため、私が真田丸など一連のドラマが鑑賞できなくなった経緯がある)、「まじで期待してるから」などと個人面談ではプレッシャーをかけられた。

 課長補佐は心優しき人なので、「でも、あんまりプレッシャーには思わないでね」と完璧に矛盾したフォローをしてくれたが、かわいげのない私は「ぜんぜん平気です」と素っ気なく返した。

 もちろん、かわいげがないだけでなく、やるしかないから、やると腹をくくっていたのもあったが、それ以上に「やれるでしょ」とタカをくくっている超不遜な部分がなかったとはいえない。

 そう、私は今の仕事にたいして、きちんとやらなければ、と思う部分と、適当にやるか、という部分が混在している。

 というか、それよりも私が意外だったのは、自分自身の職場に対するあまりに冷静な反応だった。

 上司とベテランの先輩が異動になり、自動的に私が現場をよく知る人間になってしまったことで、私がくりあがり「ベテラン」になり、リーダーをサポート、

時には自分がリーダーシップをとるポジションになるのは、わかっていた。

 わかっていたからこそ、大泉洋(課長補佐のこと)に、「まかせる」と言われて、「はい」と言えた。

 言えたけれど、その時の私の気持ちは自分でも驚くほどに落ち着いていた。

 

 むしろ、落ち着きすぎていた。

 

 自信があったということでは、ないのは確かだった。

 

 自信などない。

 ないけれど、やるしかないと思い、そのとおりやろうと覚悟は決めていた。

 しかし、なんぼなんでももう少し、私自身、武者震いというか、

 なんというか興奮みたいなものがあってもいいかと思った。

 

 でも、なかったのだ。

 

 「はあ、やりますよ。ぜんぜんやれます。問題ないっすよ」

 そんな感じで、大泉洋と面談を終えたあと、私は腑に落ちなかった。

 

 

hagananae.hatenablog.com

 

4月28日(金)春がすぎてゆく(4月のあわただしさによせて)

 

 

 まだ菜の花は残っているが、土手の雑草が淡い緑から青みを帯びた緑にかわり、

気がつくと足下に落ちる陰がずっと濃くなっている。

 少し歩けば、うっすらと額に汗がにじみ、それでも軒先に入るとすっと冷える。

 まだ、夏ではないと思いつつ、過ぎゆく春がなんとはなしに、惜しい。

 

 と、まあいきなり年寄りじみた書き出しになってしまったが、

それはここのところ読んでいる時代小説のせいだろう。

 

 

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(田植えを迎え、家の前の田に水が入る。それを飲む、リオ)

 

 

 いや、それにしても4月は毎年あわただしい。

 

 職場では異動があり、引継があり、

新年度の業務が立て込み、業務の合間をぬって、

歓送迎会が月に3度もあり、

かと思えば地味に決算や監査資料の数字に追われ、

新年度の目標設定を作ったり、心身ともにやることが多い。

すっかりへとへとになるが、だからこそ、別れと始まりのともすれば、

不安に傾きがちな心を忘れることができるのかもしれない。

 

 と、またばばくさいよ。なんだこれ。

 

 うーん、本当に疲れているらしい。

 

 いや、実際、ここ3日間、ずっと持病の偏頭痛に悩まされており、体調もすぐれなかった。

 薬で抑えていたけれど、ついに暴発して、今日は一日休暇をとった。

 もう、ずっと布団の中で寝ている感じだ。

 まさに疲労困憊だったのだろう。

 おかげで、ここのところブログも全く更新できなかった。

 書こうと思っても、書きたい核心をつかみかけた瞬間に、

どうでもよくなってしまうというか、

集中力も気力も四方に飛び散ってかけらさえ追えない状態だった。

 

 今日は、やっと一日寝続けて、気力の一歩が呼び戻った。

 やはり、書くということは、気力と時間がなければかなわないことなのだ。

 そういうわけで、やや元気でてきたので、4月の総決算として少しだけブログを更新したい。

 

 

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(西の空に沈むゆく太陽。なんか、風情のない田舎の夕陽です)

 

 更新しない間も、どこからかこれを読んでくださる方がいらっしゃるようで、

ああもったいない不義理なことをしたと思いつつ、

こんな時期から少し気合いを入れて、更新したいと思う。