10月15日(日)スプリット(17)やたら子供だましを丁寧に描くシャマラン節炸裂!

f:id:hagananae:20171015070944j:plain

 

 久ぶりに観たシャマラン監督作品。

 どうでしょうか。笑

 なんだか、最近こういう感覚が多くて、もう映画見るのをやめようかと思うんですけど、「ジュラシック・ワールド」を見て、ウキウキしたり「七人の侍」でうるっときちゃう自分はやっぱり映画好きなんだと思うのです。

 そういうわけで、映画というのは海より深い芸術性と、太陽系よりも広いエンタメ性を持つメディアなのだと思うことで、「スプリット」を楽しむしかないな、という感じです。

 

 ストーリー

 女子高生三人が、見知らぬ男に拉致された。

 監禁場所は窓がない地下室。

 三人の前に現れた眼鏡をかけた男は彼女たちを餌にするという。

 そして、男はドアを閉めて彼女たちの部屋に入室するたびに雰囲気が変わる。一度など、女性のような声色を使い、スカートまで履いていた。かと思うと、子どものようにはしゃいだり、喜怒哀楽の激しい姿へと変貌する。

 男が多重人格者だと見抜いたケイシーは、男の油断をさそい脱出を試みようとするが、すぐに大人の交代人格が彼女たちを連れ戻してしまう。

 一方で、男の中の人格のひとりが、主治医であるカレンに頻繁にメールを送っていた。ビーストがやってくる。二十四番目の超人的な人格の出現を恐れる誰かが助けを求めていると感じたカレンは男と対話を続けるが、ついに彼の秘密に触れてしまう。

 24番目の人格。それは、もはや人でさえなく、壁を走り、鋼のように固い皮膚を持つ、ビーストという名の獣だった。

 彼は、そう。虐待によって分裂した男を守るために出現した交代人格が待ち望んだ、超人だった。

 

 スタッフ&キャスト

 監督はご存じナイト・シャマラン監督。

 

f:id:hagananae:20171015071100j:plain

 

 シャマラン監督はシックス・センスで世界的な評価を受け、その後アンブレイカブル」「サイン」と話題作を世に送り出しましたが、「レディ・イン・ザ・ウォーター」で大赤字を出してしまい、その後しばらくはり制作サイドに専念し、この作品で久しぶりに「シャマラン」節を見る映画と再会できたファンも多いのではないでしょうか。

 詳しくは後述しますが、なんというか一言で言うと、この監督の本質はおちゃめでB級。

 

f:id:hagananae:20171015071248j:plain

(おちゃめシャマラン監督w

(内緒にするほど、今作は内緒がないでしょうよ(笑))

 

 個人的には私は彼の作風が大好きで、その本質はスティーブン・キングと同質ではないかと思っています。子供だましのテーマを本気で緻密に人間ドラマとして成立させるというSF作家を目指してホラー作家になってしまったキングの編み出したモダンホラーというジャンル。

 これと同手法でいつのまにやらB級が本質なのにA級の映画監督になってしまい、そりゃもちろん迷走するでしょうという立ち位置。私は大好きです。というわけで、今回のスプリットもだいぶ迷走しつつ本質はB級という相変わらずさ。

 

 主演はジェームズ・マカヴォイ

 あからさまに「24人のビリーミリガン」を意識した24番目の人格ではビーストに予定通り変身してしまう多重人格者を演じますが、人格が変わる演技はすばらしく、しかし全然戦慄しないあたりは、「サイコ」のようにホラーではなく、アメコミ路線の演出だからなのか。

 一つの作品で変身をする映画にダニー・ボイル「トランス」にも出演。カメレオンどころか、同じ役で分裂する人格を演じる巧みさは「スプリット」でも健在で、アクションというより微妙な心理の襞を演じ分ける俳優の伝統はやはり近代演劇発祥の元祖イギリス由来なのでしょうか。

 個人的にはイケメン俳優だと思っていますが、この人にはコミカルで間抜けな役ほど映える持ち前の清冽さがあるので、逆にシリアスだと遊びがないと、感じてしまうのは私だけでしょうか。小柄という噂で共演者にも配慮が必要だとか、どこかで読んだことがあります。「ヴィクター・フランケンシュタイン」の共演者はあの魔法使いハリーことダニエル・ラドクリフ。うん、たしかに長身って感じじゃないよね、彼。

 

 そしてヒロインはアニャ・テイラー=ジョイ。くせのある美人ですが間違いなくあと10年後には美女に変身するお顔立ち。前作ではここでもレビューした「モーガン」で殺人兵器を演じました。

 今作では虐待された経験から、人を疑いの目で見るトラウマを抱えた女子高生です。頭脳プレイと幼少期に学んだショットガン片手に変態男から逃亡しようと奮闘します。お顔のパーツが大づくりで、整いすぎた顔のせいか表情のバリエが少なく感じたのは、全面恐怖と不安の怯える役どころだったからだと思いたい、そんな美人なアニャです。

 

 

 レビュー

 なんというか、もうシャマラン監督らしいと言えばらしい「サイン」「ヴィジット」と並ぶ「思わせぶり」なまま「何もなく終わる」映画の代表とでもいうのでしょうか。

 ネタバレも何でもなく、多重人格者が最後はラストの人格である超人になるという話です。

 このラストの人格の存在は物語の冒頭から例によって伏線が丁寧にはられ、しかし張られすぎているから、ラストまでとくにはらはらすることなく、予定通りラストの人格が現れるという流れになっています。

 なので、このラストに私は「うん、それで?」と言いたくなるのですが、どうやら「スプリット」はすでに続編が決定しているようです。

 え、続編。やめたほうがいいんじゃ……なんて思うのは、逆に心底シャマラン監督が好きな私だけかもしれませんが、このスプリットでは実はラストに同監督作の「アンブレイカブル」の主人公だったデイヴィッド・ダンがカメオ出演しています。

 

f:id:hagananae:20171015071539j:plain

アンブレイカブル」と言えばブルース・ウィルス。っていうか、シャマランと言えば「シックス・センス」。「シックス・センス」といえば、ハーレイ・オスメント君とブルース・ウィルスということで、シャマラン監督にとっては相棒のような俳優でしょうか。

 というわけで「アンブレイカブル」で、悪人を斬りまくる覆面ヒーロー(見た目ではなく行動がね)になったブルース・ウィルスことデイヴィッド、そして彼をヒーローに仕立てた悪者イライジャことミスターガラス(サミュエル・L・ジャクソン)がアニャとマカヴォイとともに次作で活躍するそうです。次作でこそ、シャマラン監督はアクション映画監督に変身するのでしょうか。

 そうなると、ちょっと寂しいな。

f:id:hagananae:20171015071646j:plain

シックス・センスよりハーレイ君とブルース)

f:id:hagananae:20171015071724j:plain

(ハーレイ君、利発そうで人のよさそうな少年時代)

 

で、いまこれ

f:id:hagananae:20171015071800j:plain

(ネタですから、、さらっと流しましょう(笑)

 

 で、肝心の今作なんですが、いつにもまして思わせぶりなわりに、派手なシーンがなく主人公たちの感情の襞を丁寧に描いています。

 このあたり、言ってみればアンバランスで、多重人格者が最終的には超人的な悪者になるというアメコミでいうラスボスのバックストーリーみたいな話にも関わらず、やたら丁寧かつ緻密に描いているのが今作です。

 やっていることは、緻密な心理ドラマのような感じですが、言ってることは「こうして超人的なパワーを持つ悪者が生まれたのだった」なんですよ。

 このあたり、私は見ていてスティーブン・キングを思い出しました。

 キングとの共通性はシャマラン監督の「サイン」「ヴィジット」を見て、わかりすぎるくらいわかってしまうのですが、この両作品に共通しているのは、宇宙人による侵略、人類ののっとりなんですね。この宇宙人ののっとりという子供だましのテーマはアメリカ産SFでいやというほど量産されましたし、キングはこの宇宙人の侵略というある意味で子どもじみたテーマを「IT」や「ドリーム・キャッチャー」でやけに大人が読むような文学的文体で、文庫本4冊という長さで展開しています。もう、ほんとあきれてものが言えないくらいです。

 笑。

 スティーブン・キングの功績文学史上、はじめてモダン・ホラーというジャンルと確立させたことです。

 キング以前にはホラーとは怪談のような小話のようなもので、ネタありき。人間ドラマが入ったことはありませんでした。しかし、キングは怪談・ホラーという短編ばかりのジャンルに、文学的ともいえる人間ドラマ、人間の葛藤を持ち込みました。

 

f:id:hagananae:20171015071914j:plain

(すげえ、怖い。。ピエロ恐怖症になるよね)

 

f:id:hagananae:20171015071948j:plain

(ぎゃああああああああ!!!!)

 

 

 わかりやすいところでは「シャイニング」。

 これは、キューブリックにより映画になったいわゆる幽霊ホテルの話ですが、ここでは幽霊ホテルの冬季管理人となった親子の葛藤(というか、父親の葛藤)がやがて、ホテルに取りついた悪霊たちに利用され、親子間、夫婦間の危機へと発展させられ、ホラー的展開になるというつくりです。

 つまり「シャイニング」では、やっていることは、人生に失敗したある一人の男が、再起をかけて人生の出発をきるためホテルの冬季管理としてバイトをする、というものですが、言っていることは「幽霊ホテルで怖い思いをする親子」なのです。この人間的なテーマを「子供だましのホラー」で本気になって語っているのがキングの定石とした手法であり、同時にそれはそのままシャマラン監督の手法でもあるのではないかと言うのが私の直観です。

 

f:id:hagananae:20171015072019j:plain

(シャイニング。定期的に観たくなる映画のひとつ)

 

 じゃあ、このテーマと語り方のアンバランスさは何が問題なのか、と言うと、観客に肩透かしを食らわせつつも食らわせた本人はあまりそのアンバランスさに気がついてないということだと思います笑

 それは実はシャマラン監督の成功作「シックス・センス」にも表れているのですが、あの映画もほとんど「シャイニング」だったりします。

 主人公の少年にしか幽霊が見えない状況もさることながら、少年が見える幽霊について周囲が中盤まで少年の持つ精神分裂的な幻覚だと誤解しているところ、親子の和解がサブテーマになっているところ。そしてそのサブテーマこそが、作者の本質であるところ。キングもシャマランもホラーは好きだけれど、いわゆる怖い映像やモンスターとしてのゴーストを全面に押し出すのではなく、あくまでも身近な血縁者にさえ理解されない孤独を抱えた主人公の問題を取り扱ったところに、この両者の作家性が現れています。

 ゴーストに怖がるストーリーを描くのであれば、もっと違う描き方があります。キングなどはキューブリック監督の「シャイニング」で、親子の葛藤と和解があまりにも無視されていることを理由にTVドラマ版で原作に忠実に映像を取り直しています。

 で、私はこういうホラーとヒューマンドラマの抱き合わせは好きなのですが、ホラー好きからは「中途半端」であり、「恐怖の感じられない」見せ場がつづき、ヒューマンドラマファンからすると「怖すぎてみられない」となりかねない危険があるのでは、と思います。

 シャマラン監督の本質がB級にある理由はどちらにも転べないこうした中途半端な作風ではないかと思います。この傾向は「シックス・センス」以後激しくなっていくのですが、「サイン」では宇宙人侵略のスペクタクルになりかねないところを、テーマを家族の和解にシフトしたせいで宇宙人は控えめな存在となり、全体として「べつに親子関係の悪化のネタを宇宙人」にしなくてよかったんじゃないのと、思わせてしまう要因になっています。でも、私は内心、シャマラン監督、私はわかる。宇宙人侵略もの、やってみたかったんだよね。わかるよ。だって、そういうテーマ大好きだもんね。と、言ってあげたい。このあたりはキングの作品を読んでいても溜息が出ちゃうところなのですが、

f:id:hagananae:20171015072129j:plain

(サイン ミステリーサークル なつかしすぎ)

f:id:hagananae:20171015072152j:plain

(映画サインより。。ほんと、シャマラン監督っておちゃめだよね。大好きw)

 

たとえばキング原作の「ドリーム・キャッチャー」

 毎年同窓会を山小屋で開催している中年男たち4人。

 スタンドバイミーの続編を彷彿とさせる冒頭、彼らの近況の様子がまるまる文庫本一冊で語られ、二冊目の終わりごろでしょうか。いきなり宇宙人侵略ものに話はシフトして、わけがわからなくなるあたり、もうしっちゃかめっちゃかですし、これがキングだと、わかってるだけに諦めるしかないというか。でもわかるけれど、やっぱりテーマと語り手法にアンバランスさを感じてします。

f:id:hagananae:20171015072231j:plain

ドリームキャッチャー 出だしはいいんだけどね(笑)

f:id:hagananae:20171015072303j:plain

(同窓会。。。こいつらほとんど死ぬんじゃなかったけ?(笑))

 

 

 さらに言えば、IT。

 最近リメイクされて、話題になっていますが、あれだって当初は完全なホラーだと思いますよ。有名な下水管からピエロがでてくるっていう。でもあれ、ホラーじゃなくて、宇宙人ものですから。でも、まさかピエロが宇宙人って、そういうのあり?と唖然とするわけです。あのまま、ホラーにしてくれたらよかったのに、なんて私は子ども心(当時はすでに大学生でしたが)思ったものです。

 シャマラン監督に話を戻しますが、彼の中にはどうやら幽霊が見えたり、怪我をしなかったり、怪我をしすぎたり、と能力をとわず異能者に対する愛着があるようで、これはシックス・センス」ではじまり「アンブレイカブル」で発展され、今作「スプリット」で役者をそろえた感があります。

 後者2作品は完全に異能バトルに備えた作りですが、 「アンブレイカブル」でヒーロー誕生の描き方がかなり地味で、悪者との闘いのシーンがアクションというよりただの取っ組みあいにしか見えなかった以上、シャマラン監督にいわゆる「アメコミ」が撮れるとも思えないし、撮ってほしくないと思います。さらに言えばアメコミヒーローものはシャマラン監督がお休みしているあいだに、良作が量産されており、今更感がありありです。

 例によってヒューマンドラマに舵をとるのか、それとも完全なアクションシーンを入れてみるのか。

 私だったら、「アンブレイカブル」で重度精神病院に監禁されたイライジャを「羊たちの沈黙」のレクターよろしく安楽椅子探偵兼首謀者として活用し、さらに今作のヒロイン・アニャをビーストの悲恋相手として配置します。

 こうなったら、ロミジュリでしょう。ああ、やっぱりそう思うとスプリット次作はめちゃおもしろくなりそうですね(笑)

 

f:id:hagananae:20171015072436j:plain

(シャマラン監督のお茶目さは、どの映画でもほとんどちょい役で出ていて、彼を探すのが楽しみっていう。ラブシャマラン~w ずっとついていきますwあなたのB級に!!)

(最近みたヴィジットっていう地味でカメラ酔いするC級宇宙人ものも、なんかけっこうよかったですよw)

f:id:hagananae:20171015072633j:plain

全編超絶退屈ですが、エンドロールでなんだか見てよかったかも、と思わせる

 ラブリーなつくりw)

 

10月12日(木)トールマン(12)透けてみるアメリカの貧困やら虐待やら

 

 

f:id:hagananae:20171012030640j:plain

 萌え顔がないと映画とはこんなに苦痛なものか。

 という感想メモを振りかえりながら、今夜のレビューはスリラー映画『トールマン』です。

 

 ストーリー

 アメリカ山間部、鉱山の閉鎖された貧困に落ちこむ町コールド・ロックでは、不可解な子どもの失踪事件が多発していた。町の人々は、音もなく消える子供たちを、いつしか「トールマン」が連れ去っていった、と噂しあうようになった。

 ジュリアは慈善家で町の人々に慕われた夫の亡きあと、たった一人で診療所を営んでいた。今日も性的虐待を受けた少女が出産のために運ばれてきた。未成年の少女の子どもの父親は母親の再婚相手。設備も整わない診療所で、ジュリアはなんとか少女の出産を助けるが、生まれた子どもがまともな生涯を送れないことは目に見えていた。

 ここでは学校もなければ、図書館もない。教育施設も娯楽施設も、人々が豊かで安心できる保証は何一つない忘れられた町なのだった。そんな場所で、生まれた子どもたちはここの大人と同じように悪循環の渦に落ち込んでいく。

 

 こんな村から出たい。トールマンの力を借りてでも。

 そう願う少女がいた。

 彼女の名前はジェニー。姉の出産に立ちあった彼女は、ジュリアにだけは心を開く。もっとも彼女は失語症で、言葉が話せない。家庭の劣悪な状況が彼女の心の一部を閉ざししまったのだ。しかし彼女は絵の才能があった。ジェニーはいつも持ち歩くノートに絵を描き溜めていた。そんなジェニーがジュリアに見せたノートのページは黒づくめの男が描かれていた。

 ジュリアが一日を終え、家に帰ると息子のデイビットが待っていた。デイビットはまだ5歳ぐらいで、母親が帰宅するのを待っている。ベビーシッターのクリスティーンと三人で楽しい食事をとり、お酒を飲むとジュリアは気持ちがよくなって寝てしまった。

 しかし、夜中、物音で目覚める。ジュリアが台所に降りていくと、クリスティーンがさるぐつわをはめられ、縛れて床で血を流していた。部屋にデイビッドの姿はなく、家の外に息子を抱いて逃げ去る黒い影が見えた。ジュリアは息子を必死に追いかけるが、謎の黒い影と格闘の末、影は息子を連れて森に逃げ去ってしまう。ジュリアも追いかけるが力つきて、倒れているところを警官に保護され、トリッシュの経営するバーに連れて行かれる。

自分の母親の年齢にあたるトリッシュは怪我をし、憔悴しきったジュリアを見て、着替えを用意し、「落ち着いたら事情を話してほしい」と言った。

 しかし、ジュリアには話せない事情があった。それを察っしているかのように、トリッシュの店に集まる町の人々はジュリアが着替えをすませ、店の外に出るのを待ちかまえていた。ジュリアは町の人々が自分を疑っていることを察知し、間一髪でトリッシュの店の裏口から抜け出し、彼女を捕まえようとする警官のパトカーの後部座席に隠れてその場を去った。たどり着いたのは、町のはずれの廃病院だった。電気だけは通っているのか、大きな建物からぼんやりとした光が漏れている。ジュリアは追手を逃れて建物に入っていくが、そこで彼女を待ち受けていたのは、息子デイビットの本当の母親であるジョンソン夫人だった。

「なぜ私の息子を盗んだの?」

 詰め寄るジョンソン夫人に対して、ジュリアの告白がはじまった。

 

 スタッフ&キャスト

 主演はジェシカ・ビール。ほとんど誕生日が私と同じなのですが、貫録がありすぎて私の10歳上にしか見えない大女優様です。時々映る真正面からのショットが彼女の整った顔立ちを際立たせているのですが、どうも知的美人風味が強いお顔のパーツで、どうにも萌えない私なのでした。彼女をスクリーンで最後に観たのは「トータル・リコール」なのですが、ケイト・ベッキンセイルと女の闘いを繰り広げるエージェント的な女戦士はたしかにジェシカしかできないでしょう。

f:id:hagananae:20171012030905j:plain

こちらがクールビューティであるのに対し、secondヒロイン症の少女にジョデル・フェルランド

 彼女はこの作品でも少女役ですが、これ以前にもホラーな子役を熱演しています。

悪役もこなしていて、『ケース39』ではレネー・ゼルウィガー演じるソーシャルワーカーをめためたに叩きのめす悪魔の子を演じ、『サイレントヒル』ではシャロン役という、これまた呪われた役というかラスボスというか。顔のパーツがもともと丸いので、子ども時代はかわゆかったのですが、今作では微妙に間延びした丸顔がかわいいのか、あれなのかなんとも言えない雰囲気でした。そして、エンディングの私服がしんじられなくらいやぼったいという。絵描きだからしかたないのか(おい、今全国の絵描きを敵にまわしたぞ!)だって、ほぼホワイトのグレータイツに黒のニット風ベレー帽ですよ笑

f:id:hagananae:20171012030934j:plain

 

f:id:hagananae:20171012030949j:plain

(こちらはサイレントヒルシャロン 幼少期は天使のようだ)

(いまは(上)かわいいけど、ずっとこのままおばさんになる気も。。)

 

 

 レビュー

 監督はパスカル・ロジェ

 フランスのスプラッタキング的な位置にいるようですが他作品は未見です。今作は、中間部分で大どんでん返しがあり、このレビューでもプチネタバレしていますが、たしかにあっと驚く展開ではあります。

 物語の中間で主人公の立場も逆転していくのですが、ラストまで見てもなんというか後味が切ない。言ってみれば、主人公は極端な理想主義者であり、極端な理想主義者の行くところ、テロリストの末路と同じであります。で、これ以上言うとネタバレをしてしまうので、気になる方はぜひ映画をご覧ください。

 さて、私個人としてはこの映画の感想は『萌え』がいない映画は観るのがつらいというものでした。

 映画としては、普通の上ぐらいなのですが、どうも絵的に美人だとか、かわゆいだとか、かっこええだとかがなかったです。主演のジェシカ・ピールは私の好きな美人ではないですし、ジョデルちゃんも、端的に言うと職場の先輩に似てるんですよ。笑。それで、気が気がじゃないというかですね。そういう個人的事情がからまった結果として微妙な感想しか思い浮かびませんでした。

 ただ、アメリカの現状というか日に日に貧困層がさらに貧困になるスパイラルは最近読んだ『ヒルビリーエレジー』ですごく身につまされているので、プチネタバレ気味ですが、主人公のしたことってありえるかも、と思います。いわゆるこの作品の主人公たちの住む世界もレッドネック。貧乏白人という言葉が許されるのならば、彼らの物語なのです。

 

 ただし、どんな理想があっても子どもを親から引き離すというのは、難しい問題なのです。

 私の職場は子どもの深刻な虐待を扱う部門でもあるので、子どもが心底親から離れて、二度と自宅には戻りたくないというケースもさんざん見ています。

 でも、子どもの大半はどんなに虐待を受けても、親が子どもを育児放棄して自殺を図ろうとしても、子どもは親をかばうものなんです。

 たいがい、深刻な状況の子どもたちの親は深刻な病や状況を抱えており、ある意味で親から子どもを隔離、保護するのが一番というのは的を得てはいるのです。しかし、子どもはなんだかんだ言っても親を愛しているのです。なんせ、親はこの世でただ一人ですから。

 なので、どんなにひどい親でも子どもから親を奪う、またその逆で子どもから親を奪うことはいい結果を生まないような気がします。

 この物語では、もともと発展性どころかただ落ちるだけの未来しかない子どもたちが親から引き離されるという意味で、プラス面もあるかもしれません。でも、どんなに才能が豊かで能力があっても、親子関係を基礎とする愛情を与えられなければ、そうした能力も伸びるはずがないのです。

 だから、この映画で主人公をしようとしていたことは、絶望的な世界で、その絶望を少しだけ軽減するかもしれないベターな行動でしかありません。でも、そうしたベターでしかない行動は、あまりに私たちの日常とよく似ています。

 トールマンの手を借りて、コールド・ロックから抜け出したジェニーが、今でも町のこと、本当の母親のことを忘れることができないのも、親と自分の育った土地が自分の半身のようなものだからです。

 ジェニーはあまりに成長しすぎた。だから、自分の世界があるとき、切断されたことを自覚してしまえた。そしてそれが心のかせになっている。

 トールマンが子どもを誘拐する所以もここにあります。

 新しい思想を植え付ける土壌は幼少期の心の土の柔らかい時期なのです。

 大人に成長してしまえば、心の土は固くなり、新しい種をまくのはむずかしい。

 とくに、それが生まれ育った場所や育ての親を否定するものの場合は。

 

参考文献

f:id:hagananae:20171012031323j:plain

(レビュー:社会心理学的に人の信念はコミュニティに共有されているものに偏りがち、、であるならば負の連鎖を止めるために、社会のセーフティネットでコミュニティの外の価値観に触れさせることが大事なんだなあ、と改めて実感。著者が幸運にも周囲に助けられて人生の階段を昇れたという下りは、人が人の愛情によって成長していくという心理が語られている。それが、身近な親や世間にしてもらえなかったとしたら、祖父母や遠い親戚、教師でもいいから、誰かひとりだけでも手を差し伸べて、さらに社会がサポートできれば少しは改善されると思う)

 

 

 

10月11日(水)マグニフィセント セブン(16)~映画の形をとった、傭兵カタログプロモーション~

 

f:id:hagananae:20171011051331j:plain

 

 映画って、やっぱりいいなあ。ほんとに、いいなあ。

 って毎度言っているのですが、心底いい思いをさせてもらいました。

 黒澤版「七人の侍」に。

 やっぱ、黒澤っていいですねえ。

 お年寄りや、めんどくさい映画ファンのこの手のレトロ発言が耳について、ずっと黒澤作品(黒沢清じゃなくて黒澤明巨匠のほうね)を見ないようにしていたのですが、このたび、ひっさしぶりに観ました。

 やっぱいい、黒澤作品。

 そして、やっぱいい。志村喬三船敏郎

 

 

f:id:hagananae:20171011051451j:plain

(今回は『七人の侍』が話題にでますが、無理して見る必要はないですよ。長いですから)

 

 

 しかしなぜ、今更黒澤かというとですね、もちろんこの「マグニ~」を観たからです。

 マグニフィセント・セブン

 あのですね、「面白いはず」なんですけど、全然面白くなかったというのが、正直な感想です。自分でも不思議で、アクション満載の爽快感とほぼ勧善懲悪、ハイペースの展開、広大な荒野という舞台。

 悪徳業者に虐殺されて生きる場を奪われつつある民衆に正義の手を差し伸べる、七人の男たち。それぞれに闘いのスペシャリスト。

 どう観たって面白いはずなのに、エンドロールが流れた瞬間

「なんの感想もでてこない」

 という状態になってしまい、はや二日。

 おかしい。

 微妙に面白い印象はあるのに、『面白かったぜ』とレビューをしようにも具体的に何もでてこない。あれ?

 10年以上前に観た、原作の「七人の侍」はあれほど面白かった印象があるのに、なぜ?

 途中、寝たのか私?

 寝落ちしたから面白シーンを見逃したのか?

 うん、そうに違いない。

 じゃなければ、こんな誰にも感情移入できないまま、戦闘が終わって平和になっていいはずがない。

 というわけで、2回目を見てやはり感想がでてこず、仕方なく今原作にあたる、「七人の侍」を見たところなのです。

 結果。

 侍。すげえ、面白かった。

 黒澤、最高。

 ただし、長いよ。3時間。

 2倍速でみたよ。2回。計3時間

 結論。

 マグニフィセントセブン。やばい。

 う~ん、これは、映画の形をとった、傭兵カタログプロモーションでは?

 

 ストーリー

 西部劇でよくみかける、荒野の中にたたずむ小さな町ローズ・クリーク。民衆の汗と涙で開拓されたこの町は、今まさに強欲・冷酷・残虐非道の三拍子のそろった悪徳商人バーソロミュー・ボーグに乗っ取られつつあった。町の近くで金鉱が発見され、金鉱ほしさにボーグは金と力にまかせて、抵抗する住民を虐殺し、残る人々に強制退去を命じた。虐殺により若き未亡人となったカレンは、町を守り、ボーグに復讐するため用心棒を雇うことを決意する。賞金稼ぎであり、同じくボーグに個人的恨みを持つサム・チザムをリーダーに七人の戦士をかきあつめ、村へ舞い戻った彼女。七人の腕利き用心棒、そしてローズ・クリークの人々。今持てる限りの力を結集し、まさに闘いの幕が切って落とされる。

 

 ストーリーはとてもわかりやすく、

 悪者ボーグによる住民虐殺→

 未亡人となったカレンの一念発起→

 用心棒サムとの出会い→

 仲間集め→

 町へ帰還→

 町の占領→

 闘いの準備→

 本番

 

 という流れです。

 なので、寝ちゃうわけもなく、見逃したシーンもなく、基本とび道具の銃や弓矢やナイフの戦闘はキレッキレでそれなりにかっこよかったです。

 

 スタッフ&キャスト

 監督:アントン・フークア。

 この監督、他作品では、私は悪徳刑事の映画「クロッシング」しか観てないのですが、この映画を見た時も首を傾げたんですよ、たしか。具体的な内容は忘れしまったので、また最近見ようと思いますが、とにかく「首をかしげた」ことだけは鮮烈に覚えているという。おそらく嫌な予感しかしないのですが「マグニ~」を見た今回と同じような手触りだったのではないかと内心思っています。

 

f:id:hagananae:20171011051825j:plain

(内容忘れアントン監督作品『クロッシング』』

 

 今作、マグニの主演はデンゼル・ワシントン

  今回の闘いのリーダーにあたり、賞金稼ぎで全身黒ずくめでダークホースに乗る彼は、吹替は大塚明夫氏。もうかっこいいとしか言いようがないキャラクターなのですが、ラストで明かされるありがちで下手をすると捧腹絶倒しなければやりきれないバックストーリーも肌になじんだ哀しいヒーローを演じています。主演の映画をあまり見ていないのですが、「ボーンコレクター」安楽椅子探偵リンカーン・ライムを演じたのが最後に観た彼の姿な気がします(おい)

 ほんと、彼の映画観てないな、と思ったら今作をとったアントン監督の作品に出演することが多かったようです。うーん、イコライザー」「トレーニングデイ」相性の悪さを感じる。

 

f:id:hagananae:20171011051918j:plain

(かっこよすぎて、逆にどうかと思うデンゼル・ワシントン

 

 

f:id:hagananae:20171011052042j:plain

(これまたかっこいいお兄さん クリス)

 

 そして、他6名のキャスト(笑)は、二挺拳銃を操るギャンブラー、クリス・プラット。この方、先週観た「ジュラシック・ワールド」でも主演を張っていたのですが、白人、渋面、大柄で、よくいるかっこいいお兄さんです。そこらへんにいたら、おおーってなるんですけど、なんかすごくよくあるカッコ良さです。なので、今回の映画でもよどみなくクールに戦うのですが、遊びがないっていうかね……。でも、そばにいたら惚れるでしょう(なんだその雑なフォローは)

f:id:hagananae:20171011052140j:plain

(ジュラワーでの彼。同じ人にみえる。。いや、同じなんだけど、たたずまいがね。。何しても同じっていう)

 

 そして、サードマン。イーサン・ホーク

 スナイパー役で出演ですが、なんか今回はやさぐれていましたね。私、彼が若い時は本当に大好きで、なんていうんですかね、白人の困ったようなうっすい顔が当時は好きだったんですね。ジャミロクワイのJKとかね。ブラッド・ピットとかね。で、イーサン・ホークですが、この方もアントン監督の「クロッシング」に出演しています。なんだろう、アントン監督、この映画はあなたの好み傭兵(俳優)を結集したマグニフィセント7なんじゃ……

 

f:id:hagananae:20171011052251j:plain

(イーサン。上のクロッシングと別人だよね~w見習いなさい、クリスよ笑)

 

 そして、イーサンのバディで、ナイフ使いのイ・ビョンホン。先日見た韓国映画密偵」では、カリスマテロリスト役で異彩を放ち、今回は傭兵の一人ということで、可もなく不可もなく、唯一の東洋人というミステリアスな雰囲気をかろうじて醸し出すものの、ほんとうにオールスターの一人以上でも以下でもない扱いでした。

 

f:id:hagananae:20171011052357j:plain

(やっぱりアジア人はナイフ使いよね~wかっこよかったです)

 

 そして、私の大好きなヴィンセント・ドノフリオ

 冴えない役(「ジャッジ~裁かれる判事」での、主人公の兄役)や生理的嫌悪さえ催す小悪人(「ジュラシック・ワールド」での、恐竜を兵器に使おうとするPMC社員)、そして今回の斧を振り回す熊でしかない野人。まじでなんでも演れます的なカメレオン的幅広さ。それでいて、存在感のある(単に身体がでかいだけどいううわさも)輝き。もう、大好きです。そばにいたら、私はクリス・プラットではなく、あなたを選びます。というか、私を選んで下さい!(ばか)今回は、ほんとうになんとういうか野人役です。ここまでださくなれるのかというぐらい扱いをされている気がしなくもないです。

f:id:hagananae:20171011052624j:plain

(左:ドノフリオ。『ジャッジ 裁かれる判事』ではダウニー・ジュニアの兄役です。みよ、この平凡さ!)

 

 

f:id:hagananae:20171011052753j:plain

(ジュラワーでの小悪人役。目つきが悪い。。そんなあなたもラブ!

きゃー!!ドノフリオ~!!)

 

f:id:hagananae:20171011052852j:plain

(はい、今回。。熊やん。)

 

f:id:hagananae:20171011052926j:plain

(忘れてたけど、フルメタル・ジャケットの発狂兵士を演じています)

(みんな、思い出した?!ドノフリオってこんな役やってたんだよ。。すげえ)

 

 その他、侍はあと3人いるのですが、こうやってひとりひとり重みもなく平坦に紹介していくと、まさにアントン監督の今回のマグニの手法そのものに似てくるので、このあたりでストップします。

 

 

f:id:hagananae:20171011060112j:plain

(余談ですが、今回インディアンのレッド・ハーベストも七人目の侍なのですが、

 彼の弓矢は超絶かっこいい。指輪のエルフぐらいかっこいい)

 

f:id:hagananae:20171011060240j:plain

(余談ですが、こういう仮面をかぶった野生的戦士ってまじかっこいいです)

(しゃべらないからよけい、ミステリアス(ただ単に野生なだけ)で萌える)

(分かる人がいればありがたいですが無限の住人のオズハンです笑無理だろ)

 

 レビュー

【黒澤万歳なんて言ってる場合じゃない】

 本当は私ぐらいの年齢ならば、「黒澤かっけえ」なんて言っている場合ではなく

 「いまさら黒澤もねえべよ、時代はアントン監督だべ」

 と言わなければならないのです。

 いや、私だって、言いたい。アントン万歳!と。 

 しかし、言えない。

 だって、面白くないんだもん。

 面白くない。

 つまり、エンドロールで「なんの感情」も浮かんでこなかったというのが、私の「面白くない」の定義です。

 でも、当初この映画を見たあとに、正直自分を疑ったんですよ。冒頭でも書きましたが、「いつのまにか寝落ちしていて、いいシーンを見逃した」んだと思って。

 それくらい、どこかで「こんなになんの感情もわかないはずがない」と思っていたんですね。

 というか、もっと言ってしまうと、私が映画に何を求めているかってことなんですね。それは、「感情を動かされる」ということです。

 だから、突きつめるともしかするとそれは映画というメディアではなくてもいいかもしれないんですよね。感情とは、喜怒哀楽のことであり、例えば恐怖や驚きというのは、感情というより生理的反応に近い。

 あと、もっというとかっこいい、という萌えも生理的反応かもしれません。

 

f:id:hagananae:20171011053247j:plain

(熊やん。。熊 あんた撃たれるよ、もう名前は熊田ドノフリオだね)

 

 で、私が求める感情を動かされるという体験は、実は緻密な公式の上に成立するもので、ただ圧倒的な映像と音では作りさせないものなのかもしれないということです。

 この圧倒的な映像と音から喚起されるのは、狭義の意味での「感動」で、平たく言うと、反応です。例でいうと、驚き、恐怖。

 映画で最も表現しなければならないもの、そして観客が求めているものが、恐怖を含む驚愕であるならば、私が今回「マグニ」を批判する根拠は映画全体にとって不当なものかもしれません。

 

f:id:hagananae:20171011053340j:plain

(三船飛ぶのまき。。。何度も言いますが、七人の侍は観る必要ないですよ。長いですから笑)

 

 でも、私はそれでも、ドラマのある映画が観たいのです。

 で、今回の「マグニ」はドラマという意味では皆無に等しいです。

 だからこの映画のコピーは「傭兵プロモカタログ」となるし、2時間の尺で味方だけでも七人いる以上、ひとりひとりがちらっとだけしか映らないのも仕方がない。

 2時間の尺で、被害者の状況(ローズ・クリークの民衆の惨状と悪役ボーグの紹介)、被害者と用心棒の出会い(カレンとサムの契約)、仲間集め(以下六名との出会い)、町に戻り戦略と準備、本番(町を要塞にしてボーグを迎え撃つ)を二時間で。黒澤版ではあろうことか三時間半もあり、(途中で休憩が五分入る)、この作品が二時間ジャストでまとまっていることはすばらしいことだと言えます。

 でもですね、やっぱりうっすいんですよ。

 その薄さの原因はキャラクターの描写の薄さそのものなのですが、もうちょっと工夫はできたなのかな、と思います。

 黒澤版はそちらのほうがきっちりできていて、「七人の侍」が映画史上伝説となり、「荒野の七人」の元ネタになりえたのもこのあたりに要因があると思います。

 で、ここからは話が『七人の侍』がいかにすばらしかったか的な退屈な話になってしまうのです。

 【『七人の侍』がいかにすばらしかったか的な退屈な話】

 古今東西、弱者が金で戦士を雇うという物語は無数に存在しました。国家という概念ができて、人類史上、プロの国防軍なるものができたのはたかだか二百年にも満たないのです。それ以前にはそもそも国家という概念自体が曖昧であり、その曖昧な国家なるものが持っていた軍隊はその大半が主に期間限定で徴兵されるものであり、戦闘を仕事とする傭兵はいつの世も国家に所属するというより、お金で雇い主を選ぶ存在でした。

 

f:id:hagananae:20171011053623p:plain

(傭兵です。誰がなんと言おうと傭兵です)

(しかし、ザっくんの持ってる斬馬刀?変な形だよね~)

 

 これは歴史の必然で主君に忠誠心を持ったところで、その主君が安定した勢力であれば、兵士そのものがいらない平和な世の中でしょうし、逆に戦時であれば、凡庸な主君についていれば、命がいくつあっても足りない。(秀吉遺族陣営と家康の最後の闘いである、大阪夏、冬の陣では、大阪側(秀吉側)の兵力はそのほとんどが浪人であったというし、彼らこそ傭兵という金で雇われる兵士だったのです)

 

f:id:hagananae:20171011053819j:plain

(傭兵です。趣味はダンボールの中)

 

 そういうわけで、闘いの時に金で兵士をやとうことは世界史において日常茶飯事であり、だからこそ傭兵にとって主君につかえる忠誠心のかわりのお金こそが、仕事への意欲そのものだったでしょう。傭兵という命と危険にさらす仕事であるからこそ、安くないというのは、依頼主・雇われる側両者にとって暗黙の了解であったはずです。このことから、映画のように百歩譲って傭兵がはした金でお勤めをする場合には、『それ相応の動機』がほしいところです。

 それを、『七人の侍(以下侍)』ではきちんと描写をし、『マグニ~』では最後まで完全にはあかさず、なし崩し的に物語が進行していきます。ラスボス戦に至ってそのマグニのリーダー各であり、主人公と言っても過言ではない位置のサム・チザムが悪役ボーグとの浅からぬ縁を語るのですが、これをラスト近くで見せられると、苦笑するか報復絶倒でもしないとやりきれない気持ちになるのです。

『いや、わかってたけど、それ今言う? もっと早く言ってもよかったんじゃない』

 と、サムの肩を軽くたたきたくなるし、言われてみると隠すほどの理由もないわけです。だって、サムがそれぐらいの理由がないとはした金でボーグ殲滅にくわわるはずがないのだから。

 しかしです、物語中、サムが私怨でカレンの復讐に手を貸すのではなないかと仲間に疑われる場面もちゃんとあるのです。

 彼は否定しますが、やはり最後の告白を見て私怨まじりであったことが判明しますし、逆にそうでないとサムの人物が見えてこない。しかし、見えた瞬間に、サムという傭兵の価値が暴落する瞬間でもあります。だって、私怨を持って町じゅうの人々と仲間6人を巻き込んで戦争をしてしまうのですから。

 もともと原作『七人の侍』は、はした金で農民の闘いの命をかける義侠心がテーマともとれる作りになっています。

 『侍』では、野武士相手に七人の侍が闘いを繰り広げますが、誰一人として野武士個人に対して恨みを持つものはいません。さらにいえば、報酬は白い飯だけ。

 士官の口もなければ、蓄財にもならないその日の飯だけが見返り。

 ではなぜ、彼らは戦ったのか。

 理由はそれぞれですが、侍たちは、農民の惨状に心から同情したからです。侍の前に人として、人を助けなければならないという義侠心を自分の命をかけるにふさしいと思ったからです。

『侍』では、親を戦でなくし、天涯孤独に山犬のように育ち、農民を憎みつつも、農民に同情し、侍に憧れ、侍を同時に憎む、複雑なキャラクターとして菊千代という人物を配置しました。このキャラクターこそ、三船敏郎の演じる農民と侍をつなぐ重要な機能を持つ人物です。

 

f:id:hagananae:20171011054107j:plain

(三船、まじかっこよかった)

(でも、この俳優の素晴らしい演技を引き出したのは神・黒澤でしょう)

 

 この三船の菊千代がなければ、『七人の侍』で、観客は農民に同情するけれども、侍達が戦う理由がつかめずに、それこそマグニのように傭兵のそれぞれの攻撃力のカタログプロモーションを眺めるように『それなりの楽しみかた』をしただけだったと思います。

 しかし、この菊千代が侍達の前で、農民として生まれたことがいかに醜く、身勝手で、悲惨なことか怒りに任せて訴える場面があります。

 農民はいじわるで、けちんぼで、ずるくて、泣き虫でけちんぼだ!

 人殺しもするし、納屋の隅や床下にないはずの塩やコメやみそを隠している。

 こんなずるくて、みじめな百姓に生まれたことがくやしい。

 だが、そんな百姓の田畑を戦で荒らして、女を犯し、ぼろくそにこき使っているのは、侍だ!

 菊千代が自らの出自をひょんなことから語り、農民として生まれた悲惨さ、同時にずるがしこい農民としての自己嫌悪、しかしそういうふうにしか生きていけないのは侍が戦をするからだ、と世間の構造そのものに憎悪と悲しみをぶつけるシーンは侍への説教を超えて、見ている観客が身につまされるような重いシーンです。

 『侍』で菊千代が果たすキャラクターとしての機能は様々ですが、物語中もっとも重要なのはこのシーンで、農民出身である彼が自らの出自を嫌悪しつつも農民たちを守りたい、そしてそんな弱者を守るヒーローである侍になりたいという彼の気持ちが彼以外の本物の侍たちの心を動かします。菊千代という農民でも侍でもない人物が心に描くヒーローとしての侍像、戦を自分たちの国鳥合戦のためではなく、弱きもののために戦う侍としての理想像がこのとき彼らの中に『戦わねばならない。菊千代という農民を守らなくてならない』という変化を起こすのです。

 いわば、菊千代は雇い主であり被害者ある農民という身分を遺伝子にもち、雇われぬしであり、強気者としての侍を理想に彼らを鼓舞する役割を持ったもつハイブリッドなキャラクターです。彼の存在が黒澤監督がいうように『農民と侍をつなぐもの』なのです。

 この機能を持つ人物が登場する『侍』では、侍がよりかっこよく鮮烈で義侠心に富んだ人々に映り、マグニではそれがかなり薄められた状態で確認できます。

 

f:id:hagananae:20171011054443j:plain

(アントン監督・これを黒澤監督がみてなんていうか、というお茶目発言)

(あんがい、黒澤監督も喜ぶかもしれないよね。。今は、これが流行ってるのか、なんて言って笑)

(そうなったら私は、『監督何いってんですか、しばらく死んで呆けたんですか!」てどやさないとなあ)

 

 物語の冒頭で、傭兵がはした金で仕事につく理由は、色々考えられますが、マグニではこの重要な部分、なぜ戦うのかをよく吟味しない結果、よせあつめの技のキレる男たちがさしたる理由もなく命をかけて戦うという『感情移入できない』状態がスタートし、ラストまでそれが続きます。

 そういう意味で、そんな感情移入など黒澤にまかせて、ひたすらかっこいいアクションシーンが見たいんだという方にはおすすめな映画なのですが、同じ傭兵アクションものならば、スタローンが監督した『エクスペンタブルズ』シリーズのほうが三倍は面白いはずです。なぜなら、あの映画では不器用で弱者に弱いスタローンと彼に振り回されっぱなしの女房役ステイサムの夫婦喧嘩も見られるし、傭兵同志の絆というか、命をかけて弱者を守るヒーローが毎度毎度味わえるからです。

 

f:id:hagananae:20171011054641j:plain

(これが、スタローンのエクスペンタブルズだぜ! 暑苦しいぜ!)

 

 

f:id:hagananae:20171011054715j:plain

(同じレイアウトだろうが! 暑苦しいぜ! 人員減らせよ、エグザ〇ルか?)

 

f:id:hagananae:20171011054811j:plain

(もうやめなさい。。いくら好きだからって、、あんたら乃木坂か。。)

 

 そういうわけで、『マグニフィセントセブン』黒澤作品の突き抜けたすばらしさを見直す引き立て役として、ごちそうさまでした。

 こんなに批判しちゃったけど、荒野の景色は解放感があってすばらしいショットだたし、彼らの衣装は統一感のある誇りまみれのデザインでクールでしたよ。美術的には完成度が高く、目の保養になりましたよ(なんだその雑なフォローは)

 

 

10月1日(日)先月の映画のこと①

・ELLE~エル~

ジェーン・ドウの解剖

WXIII 機動警察パトレイバー 

プラネタリウム

 

 

★ELLE~エル~

f:id:hagananae:20171001103446j:plain

 今年度あちらこちらで話題をかっさらったスリラー映画。イザベル・ユペール扮するゲーム会社CEOは自宅レイプされるが、警察への不信感とトラウマから、自分で犯人を捜しをすることに。監督は『氷の微笑』でシャロン・ストーンの悪魔的妖艶さを世界に知らしめたポール・ヴァーホーヘン。

 

f:id:hagananae:20171001103514j:plain

(レイプシーンが怖くて、ずっと見られませんでしたが、ミレニアムよりずっと大丈夫でした。。)

f:id:hagananae:20171001103707j:plain

(とても品があるマダム経営者でございます。。25年後、こうなりたい。見た目はね)

 

 この映画は、鑑賞後にうすら寒い風が吹き抜けていくような気持ちにさせられましたよ。

 なんというか、現実というか、人生を経て苦労が重なるとこうなってしまうというか、親友の夫を寝とったり、強姦してきた男を逆に誘惑したり、制裁のために、年下の男の性器を露出させたりですね。

 被害者ではじまった女性主人公が、倫理的にNOなことを次々になんのためらいもなく、手を出して行くというか。

 でも、そんなELLE(彼女)を見ても、

 あまり不快感を持たない、自分に不快感!!笑

 

 そもそも人のつくった道徳というか倫理なんて、それほど大事なのかしらね。

 という命題をイチ押ししてくる彼女の心理も多いに共感とはいかないまでも、

 「正直わからなくはない」と思ってしまうのです。

 不倫とか浮気とかフランス人特有のさばけた感じもややあるのですが、お互いが納得していれば、倫理も同義もフラットにしちゃうおうよ、というフリーダムな感じが、私も年を経て理解できちゃうというか。

 結局、他人が決めた―道義上のルールなんてフィクションでしょうっていう。

 さばけずぎた人生観というか。。

 もちろん、不倫ってだめだと思うのですが、べつにそこまでだめっていうこともないかもね。

 と、思ってしまう自分が「かわいくない」というか。

 

 

 年だな。。。

 

 

 

 しかし、この映画で騙られている彼女の行動は、人生の一つの真理だと思います。

 何からも自由でいられるならば、浮気だって不倫だって自由につまみ食いできて、つまみ食いできるからこそ、それほど大事だとも思えない。

 映画で主人公は60代近い年齢を演じていますが、独身でお金も時間も自由になる35歳の私でさえ、彼女の心理がわかる以上、この映画のうすら寒い状況を実感できてしまう女性は日本にはすごく多いのではないでしょうか。

 そして、年を重ねて、酸いも甘いも経験したあとに残っているのは、友情というのも

 なんだか、想像できます。

 その女の友情、男を共有した女の友情が唯一の希望っていうか。

 突き抜けたその価値観って、痛いけど、どこか気持ちいい。

 

 

 

ジェーン・ドウの解剖

 

f:id:hagananae:20171001104229j:plain

 

f:id:hagananae:20171001104244j:plain

(オープン、セサミww)

 

 きたー、ホラー!

 ベテラン検視官のトミーは田舎町で、息子のオースティンと遺体安置所と火葬場を経営している。その日も身元不明の女性の遺体が運ばれてきたが、彼女は大量殺人現場の家族との接点が見つからなかった。

 いったい、彼女は誰なんだ?

 死亡原因を特定するために、トミーは遺体の解剖を始めるが、解剖をするうちに彼女のありえない死因があきらかになるにつれ、遺体安置所で不可解な現象がおこりはじめる。

f:id:hagananae:20171001104334j:plain

(死体が起き上がるとか、最低な演出はいっさいないですww)

(というか、お前が断りもなしにこういうシーンを貼るのが最低な演出だ)

 

 この映画はB級ホラーホラーであり、(もう言っちゃえ)パーティは全滅します。

 

 ここら辺、ちょっとやりすぎな感じなのですが、全員容赦なく抹殺することで、B級感が増し、ホラーファン以外の観客を除外することになっています。

 なので、この映画は正真正銘のホラー好きだけが楽しめます。

 つまり、私ですw

 映画全編を覆う、雰囲気が本当にいいです。

 洋モノホラーでは珍しく、雰囲気を重視していて、ホラーで最も大事な、「出そうで出ない」感じがぞわぞわ鳥肌がたって、ウキウキします。

 会場は古い家屋。

 死体安置所と言っても住宅兼のような日常感があり、廊下や室内もレトロな雰囲気でちょっとバイオ風味も満喫できます。全編を通し、上質で汚いこといっさいない美しいホラーです。

 今週からDVD発売ということでファンにはおすすめです。

 

 

★WXⅢ パトレイバー

f:id:hagananae:20171001104602j:plain

(見た目が悪いタチコマにしかみえない。。。)

 

 

 なぜ、いまさら。パト3。

 いや、つい先日、パト2を見直していて、その感想メモが

「忍さんって、後藤さんは選ばないよなあ。

 後藤さん、玉砕だよな。

 でも、忍さんって大人な男より、熱くて理想を追いかける永遠の少年的な親父のほうが好きなんだろうな。

 私もすきだなあ。

 後藤さんって、人のこと見透かすところあるからなあ。

 私もタイプじゃないよなあ」

 

というどうでもいいことが書いてあり、そういえばパト3観てないな、ということで。

(なげえよ)

 

 

 東京湾で、海上作業をするレイバーが故障し、作業員が死亡する事故が相次ぐ。発見された死体は無残にひきちぎられ、何者かに食い荒らされたように見えた。

 城南署のベテラン刑事久住(くすみ)と部下の秦(はた)は、地道な捜査を続けるうち、最近東京湾で巨大な魚が釣れるようになり、釣り人が押し寄せていることを知る。その場所は、レイバー事故現場と重なっており、巨大魚の出現は米軍の貨物機が墜落したころから始まっていた。

 貨物機の搬入先は、ダミー会社で、所有者が東都生物研究者だった。

 一方で、続出する事故に巻き込まれた二人の刑事はその目で東京湾に住む狂暴なモンスターを目撃する。

 しかし彼らの訴えにも関わらず、警察上層部は、ネタが足りないと言って動かず、さらには東都に関わるなと上の圧力がかかったようだ。

 その頃、秦は東都の主任研究員の岬冴子と出会う。

 物静かで影をたたえる冴子に惹かれていく秦。しかし、冴子は愛娘を小児がんで失い、東都と米軍が開発する生物兵器に自らの人生を刻むように二つの加化学反応を人為的に加えていた。それは、東京湾の底で目を見張るほどの生命力と分裂を繰り返す生物に進化していった。

 

f:id:hagananae:20171001105034j:plain

(最近、リケジョばかりだな。しかし、犯人役は文系より理系のようがタガの外れ方がすがすがしい)

 

 これは……面白かったと、もろ手をあげて言えない作品でした(笑)

 

 ひとことでいうと、パトレイバーっぽくない。

 ぽくない、というのは1,2と押井さんが関わっていたので、押井節というか日本に戦争状況をつくるみたいなコンセプトからかなり離れているからなのですが、つまらないかというと、そうではなくて、じゃあ、なんなのかというと、つまり、2時間刑事ドラマ、火サス的というか……

 

 とにかく、今回は色々演出もダサいんです。

 セリフとか、小道具とか、あざとすぎてださい。

 手垢にまみれた演出を繰り返すので、恥ずかしいんですよ。

 でも、わかりやすいです。誤解のない演出なんです。。

 そして、ストーリーは悪くない。

 地味だけど、悪くない。

 刑事ドラマって、犯人にも一理あり、みたいな感じがあるじゃないですか。

 つまり、アリバイは崩れ、すべての証拠がお前を指している!という犯人暴きの段階になったころに情報公開される、あの犯人の切なく完璧に同情に値する身の上話

 

 だいたいにおいて、刑事ドラマでよほどの人気シリーズにならないかぎり、サイコパスみたいな殺人大好きの犯人なんてものは出てこないので、たいがいは、状況がそうさせた『不幸な犯人像』がベターです。

 だから私は2時間刑事ドラマが好きなのですが(笑)、今回のパト3は地でそれを行く感じなのです。

 

 そう、火サスです!!!

 

 犯人は切ない過去を持ち、持つが故に、結果として生物兵器を作成してしまった。しかし、生物兵器はけして、目的ではなく、付録だった、みたいな。

 で、また切なさを上書きするようにロミジュリすれ違いロマンス(というか秦の完全な片思い)もついていて、もうベッタベタで、色々ださいんですけど、泣けるというか。

 そう、この作品は実はパトレイバーファンじゃなくて、うちの82歳になるおばあとみると、そこそこ楽しめたんじゃないかと思うんです。うちのおばあ、相棒とかはぐれ刑事とか、鉄道警備隊とか、沢口靖子とか、内藤剛志とかのファンですから。

 なので、いつものパトレイバーの首都東京に戦争状態をつくる、というようなド派手な話を期待すると肩透かしです。

 そして、やっぱりこの映画切ないのは、先日私がシンゴジラ』で回避したと思った、『怪獣虐待』シーンがばりばりあったことです。

 もう、完全に呪いか?と思いましたよ。

 今回の怪獣は、完全に『母親』が存在するので、その母親の存在から、生物兵器とはいえ、役割が『子ども』なのです。

 それがノアちゃんのレイバーとか、自衛隊から攻撃されるのを見るのは、つらかった。

 この感情、つまり、加害者への同情が、火サスなのですが、なんだか、とっても切なくて悲しい、物語を見てしまったのです。

 あなたに止めてほしかったのかも……

 冴子が秦に言うこのセリフ。

 私も誰かに言ってほしかった。

 

 怪獣虐待シーンあるけえ、見るをやめたほうがええよ。。

 

 

 

プラネタリウム

 

f:id:hagananae:20171001105538j:plain

 

f:id:hagananae:20171001105555j:plain

(主人公姉妹にナタリー・ポートマンとリリー・ローズ=デップ)

 

 

 わからなかった……笑

 この映画は、わからなかった。。。。

 

 

 1930年代後半のパリ。

 大戦の長靴の音が迫る直前の華々しい絢爛の都に二人の姉妹が降り立った。バルロー姉妹。二人は死者の霊を呼び寄せる交霊術を売り物に、ショービジネスの世界で一旗あげようとしていた。ショーをプロデュースし、利発な姉ローラ、そして霊を交信する知恵遅れ気味の妹ケイト。

 二人はあるショーで、映画プロデューサーのコルベンの目にとまり、一躍スターの座を約束される。しかし、コルベンは霊の存在にのめり込み、霊の姿を特殊映像ではなく、本物を映しだそうと躍起になる。発言力のあったコルベンはこの映画の失敗と、アメリカ出身のバルロー姉妹に大金をはたいて擁護したことから、非国民扱いをされ、映画業界から追放されてしまう。ケイトも無理な撮影と実験から寿命をすり減らしてしまい、傷心のローラは、かつてのつてを頼り、女優として生きていく道を選ぶ。

 

 監督は新進気鋭の女性監督レベッカ・ズロトヴスキ

 

 何を言いたいのか、と考えると迷い道に入ってしまうので、たぶんこの映画はナタリー・ポートマンがひたすら美しく、例によって雑誌『ELLE』『VOGUE』を読んだ気になれば、いいということなのでしょう。

 

 それほど、よくわからない映画だったのです。

 

 とにかく、華やかで、1930年代という舞台がどこかフェリーニ的な夢幻の映像に通じるものがあり、不思議に心地よいのですが、なんというかやっぱり、人物が何を考えているのかわからないところがあって、見ようという気持ちをはぐらかされてしまうようなコケティッシュな女性のような映画です(っていうか監督の意識が)

 でも、この映画をみて私はナタリー・ポートマンはこの映画にぴったりだな、と思いました。

 

 ナタリーって美人過ぎるというか、理知的な部分が佇まいに出すぎていて、私は内心かわいげなのない女だな、と思っていたのです。

 彼女の顔がどうも好きではなくて、出演作自体をあまり見ていないのですが、『ブーリン家』の姉妹でも嫌な役をやっていたし、どうも頭良すぎるやな女、みたいな印象が強すぎたのですが、この作品ではその理知的で野心家というローラ役がナタリーの雰囲気と合致しており、かつストーリーよりも雰囲気、雑誌的美しさが彼女の『美貌』にぴったりで、好きになっちゃいました。

 言葉悪く言えば、レベッカ監督はナタリー・ポートマンの使い道を大発見したというか。

 私の中で女優としてみると、嫌な女にしか見えないナタリーを野心的な女優として撮ったレベッカ監督はすごくグッジョブな仕事をしたのではないかと思いました。

 もっと言っちゃうと、ナタリーは喋らず、ショットだけでいいのかもなあ。(おい)

 

 そしてラストシーン、どんな逆境も跳ね返すぞ、という美しく強い笑顔をみせたナタリーは、やっぱりフェリーニの『カビリアの夜』のラストシーンと重なるのでした。

 

f:id:hagananae:20171001110124j:plain

フェリーニ監督の嫁笑~カビリアの夜

フェリーニ見て、『わかる』とは言わないのだから、きっとレベッカ監督の作品もそうやって見るものかもしれません。。たぶん。。

 

9月16日(土)ドリーム(16)彼女は言う。スカートのおかげで今の仕事についたんじゃない。でも、やっぱりそのスカート、まねしたい!

f:id:hagananae:20170916185544j:plain

 

 

 久々の感動作でしたよ。

 いやいや、けっこう常に感動してると思うよ。

 このブログを読んでいる読者の皆様は、そう思われるかもしれません。

 いや、しかしこの映画はよかったです。

 私はやっぱり、脚本(ストーリー)がいいものに惹かれるな、と。

 しかし、この映画は映像(とくに60年代の働く女性たちのファッションがキュート)も同じくらい魅力なのです。

 

 

 

 ■ストーリー

 主人公たちは、3人の黒人女性。

 キャサリン、ドロシー、メアリーの3人はそれぞれに数学の才能に恵まれ、NASAの黒人電算グループで勤務していた。

 時は1960年代、ヴァージニア州ハンプトン。

 南部の旧態依然としたこの土地は人種差別が続き、有色人種と白人の間には隔たった階級と人権の差は歴然としていた。水道やトイレ、バスの席など公共のサービスは有力人種と白人の間に明確な線引きがされ、図書館も自由に使うことはできない。

 しかし、アメリカは当時冷戦の真っ最中であり、ソ連と有人宇宙飛行をめぐり激しい競争を展開していた。

 その名をマーキュリー計画

 1958年から1963年まで続いた、地球軌道周回におけるロケット開発は、常にソ連がリード。国家の威信と期待をかけたNASAのラングレー研究所は大きなプレッシャーの中でプロジェクトに貢献できる人材を必要としていた。

 このマーキュリー計画の末席にはじめに加わったのが、キャサリンだった。

 

f:id:hagananae:20170916185755j:plain

(みよ、このNASAの画一的なエージェントスタイル。キャサリンのツーピースがキラリ☆)

 

 キャサリンは子どもの頃から数学の天才で、黒人の女性としてはじめて、宇宙特別研究本部で本部長付の計算係に任命される。

 しかし、職場はオール白人男性。

 女性差別、人種差別、才能に対する嫌がらせなど、職場環境は最低。

 さらに、当時は黒人と白人のトイレの共同使用が許されていないため、キャサリンはオフィスから800メートルも離れた黒人用トイレまで書類のファイルを持って往復しなければならなかった。

 苦境にさらされていたのは、黒人電算室の同僚であり、メアリーも同様だった。

 

f:id:hagananae:20170916185948j:plain

(右がメアリー。ノスタルジックなワンピでしょうww)

 

 メアリーは技術部へ転属され、初日から開発中のロケットの課題を見抜く。

 その才能を知ったメアリーの上司は、黒人ではじめてのエンジニアになるべきだとメアリーを励ますが、彼女はエンジニアに必要な資格が黒人には与えられない現状を嫌というほど知っていた。

 そんな二人のずば抜けた能力を知り、人事の采配をしたドロシーもまた、悩みを抱えていた。電算室で多くの黒人女性をとりまとめ、その職務と職責は管理職と同等であるはずだが、地位は認められず、昇進もできなかった。

 

f:id:hagananae:20170916190052j:plain

(ドロシー:オクタビア・スペンサー 今回、一番かわゆい!!人物ですw)

 

 ドロシーは、白人女性の上司に何度も相談するが、「黒人は管理職にはなれない」と一蹴される。彼女は職責だけをつし付けられ、身分の保証も見返りも白人とは同等に与えられなかった。

 

f:id:hagananae:20170916190459j:plain

(左:キルスティン・ダンストが彼らの上役です。見よ、このエラソーな手つきをw)

 

 そんなとき、NASAにIBMという中央電算をつかさどるコンピューターが入ることがわかる。このマシンの導入が進めば、黒人電算室は解散だという。

 ドロシーはマシンが入ったあとも、自分たちの必要性を認めてもらうために、マシンをサポートするための研究をひそかに開始する。

 実際、IBMのマシンは技術者たちがこぞっていじり倒しても、うまく起動しないのだった。ここに自分たちのねらい目があるはずだ。ドロシーは生き残るためには、自分たちの価値を上げるしかないと研究に取り組む。

 

f:id:hagananae:20170916190622j:plain

NASAでマキュリー7という宇宙飛行士7人組を見守る三人)

 

 その頃、キャサリンはロケットの着陸軌道を計算する仕事をしていた。

f:id:hagananae:20170916191107j:plain

(リケジョ、すごいww)

 しかし、主任研究員であり、自分の先輩格にあたるスタンフォードは彼女に対して、機密を開示しない。データは日々更新されるため、彼女の仕事はどんなにスピードをあげても、終わったときにはデータがずれており、無用になってしまうのだった。

 そんなとき、彼女が夜遅くまで熱心に仕事をしていることを気にかけていた本部長が、彼女を機密会議に出席させた。この会議で彼女が多くの白人男性の前で鮮やかに軌道計算をするというパフォーマンスをすることで、宇宙飛行士のジョン・グレンが彼女を賞賛し、その日から、彼女に必要な情報が下りてくるようになった。

f:id:hagananae:20170916191158j:plain

(リケジョすごいwしつこい(笑))

 

 こうして、キャサリンがあきらめず、忍耐と知性で自分の地位を築き上げたころ、ソ連ガガーリンが地球一周を成し遂げたというニュースでNASAを驚愕させる。

 

 宇宙任務グループは、ソ連に一矢報いるために能力を結集することを誓い、情報共有の可能になったキャサリンの仕事は順調かに見えたが、本部長が彼女を必要とするときに彼女の姿が自席にないことが重なった。

 毎日毎日、40分も彼女はいったいどこで油を売っているのか。

 ある日、本部長は皆の前で、キャサリンを問いただした。

 そのとき、キャサリンはトイレに行くために、大雨の中ずぶ濡れで800メートルの距離を往復したばかりだった。ワンピースも髪も下着も靴もびっしょりだった。

 あまりに疲れきっていたキャサリンは本部長にむかって抗議した。

 ここには、黒人用のトイレがないからです。

 だから、自分は800メートルの距離を毎日、生きるために走っているのです。

 私がそういうことを、しなければならないことを知っていましたか?

 私はコーヒーをポットからではなく、鍋から組んで飲んでます。

 誰も、黒人と同じポットから飲みたくないからです!

 キャサリンが出ていくと、本部長はコーヒーポットに近づいて、黒人用と書かれたシールをはがした。本部長はそれまで、黒人の女性の彼女がどんな思いで仕事をしているのか、半分も知ってはいなかった。

 本部長はすぐさま、NASAすべての白人、黒人と名称のついたトイレの看板を取り払った。

 こうして、NASAの黒人女性の地位がまた一つ向上した。

 

 残されたのは、メアリーとドロシーだった。

 メアリーはエンジニアになるために、白人学校で資格を付与されなければならず、そのためには、ヴァージニア州法を覆すために裁判長を説得させなければならなかった。

 メアリーは自分を励ましてくれた上司の言葉を思い出した。

「裁判長、『はじめて』は歴史にはつきものです。その『はじめて』があるまで、前例はありません。でも、今後100年のことを考えてください。私はエンジニアになれる能力があるのです。でも、肌の色は変えることはできません。裁判長、どうか今後100年、重要な審議と思われるものをお考えになって、裁判長にとっての「はじめて」を実行してください」

 裁判長はメアリーの説得力のある論理と、熱い思いに心を動かされ、彼女が夜間のみ白人学校に通うことを許可した。

 最後の闘いはドロシーだった。

 

f:id:hagananae:20170916190930j:plain

(いざ、NASAへww)

 彼女はIBMという自分たち黒人計算室の女性を脅かすマシンのことをこっそりと調べ上げ、このマシンを機能させるには、自分たちの計算能力が必要だと見抜いていた。事実、マシンが機能しないことでIBMの担当者は頭を悩ませていたのだ。そこにドロシーが来て、自分ならば動かせると証明をしてみせたことから、彼女はマシンの統括としてNASAに任命される。しかし、彼女は自分ひとりだけではマシンを動かせないと主張し、黒人電算室の女性すべてをNASAに配置が替えしたのだった。

 NASAに黒人女性の存在が異彩を放って確立された瞬間だった。

 

 

f:id:hagananae:20170916191008j:plain

 ■レビュー

 この映画は冒頭で言ったように『働く女性に観てほしい』作品です。まさに、この物語では60年代の南部ヴァージニア州において、幾重にもハンデを背負った黒人女性が、その能力と、忍耐と、知性で自分たちの地位をNASAという白人男性帝国に築き上げる様子が描かれています。

 キャサリンは、恋人となる黒人大佐と出会ったときにこう言います。

「私は、スカートを履いてNASAでこの地位を得たんじゃありません。眼鏡によって、ここにいるのです」

 もちろん、スカートは色気、女性という身分の比喩。眼鏡は知性の比喩です。

 だから、これは能力をばりばりに発揮するリケジョの話かと思うのですが、ところが、そこは映画。

 

f:id:hagananae:20170916191308j:plain

(原題はドリームではないのですが、日本語訳できないです。

 FIGUREの意訳がむずかしい。誰かお願いします)

 

 働く女性の当時の最先端の60年代ファッションがここぞとばかりに展開されて、まさに私なぞはキャサリンのスカートのおかげでこの映画の大半をエンジョイしました。

 もう、ストーリーは働くキャリアウーマン・リケジョのお話ですが、彼女たちの見事な戦闘服たるや、キュート、キュート! キュート!の連呼です。

 とかなんとか言ってると、本質的な話ではなくなるのですが、私の場合、この映画で一番感銘を受けたのは60年代のファッションなのです。

 60年代と言えば、私の祖母の青春期の服装です。Aラインにウエストがしぼまった膝丈スカート。ツーピース。ボレロにワンピ。

 女性が女性らしいシルエットを保っていた、時代のファッションです。

 現代といえば、

 カラーはクロ、紺、白、ベージュ、ブラウン、オリーブ。

 これは、男性リーマンカラーの定番です。

 シルエットは、ビッグシャツ、Iライン、キュロット。

 これらは働くリーマンシルエットです。

 つまるところ、現代の女性のファッションが、働きやすさ重視の男性リーマンと同じになって久しいということなのです。

ちょっとオードリー風のふわっとしたスカートを買おうととすると、仕事で着用するには、浮きすぎるという始末。

そこらへんでリーズナブルに入手できる服のかわいくないことと言ったら。

 なので、この映画で続々と登場する彼女たちのこれでもかというぐらいの女性らしいカラーリングとシルエットのファッションショーにノスタルジックなものさえ感じてしまいました。

 そういうわけで、知性もいいけど、女性はやっぱり、どんなに頭がよくでも愛嬌とかわいい服でしょうと、思うのです。

 つまり、眼鏡も大事だけど、スカートはそれ以上に大事だ。

 人生の華だ!!

 そして、言い忘れましたが、今回主人公の黒人女性と鮮やかなコントラストを撮るべく黒、白、ベージュと葬式の垂れ幕ファッションを展開してくれた白人代表の女性キャリアは、私と同じ年齢のキルスティン・ダンスト

 彼女の疲れたような表情がモノクロファッションにぴったりでした。ああいうつまらないキャリアアイコンになってはいけないです。働く女性は笑顔と華やかさがなくては。

 そういうわけで、働く女性にこそ観ていただきたい映画今年ナンバーワンです。

 日本劇場公開は、9月29日。

 働く女性のファッション革命をここからスタートさせていただきたいものです。

 キャリアウーマンのキュートな洋服をどうか大量生産していただきたい。

 というわけで、9月の映画レビューはこれにてひと段落。

 次回から何をするか、少しお時間を下さい。

 

 おまけ。

 私がこの映画に影響を受けたミニファッションショーはこちらです。

 

f:id:hagananae:20170916191632p:plain

f:id:hagananae:20170916191707p:plain

f:id:hagananae:20170916191738p:plain

華やかさがない(笑)

 

9月15日(金)エイリアン コヴェナント(17)わかりにくいけど、映像は最高!!内容はありきたり笑

 

 

f:id:hagananae:20170915222451p:plain

(私の絵はこのレベルです)

 

 

 

本物は↓

 

 

f:id:hagananae:20170915222644j:plain

(ダニエルズ役のキャサリン・ウォーターストーン。好きなお顔ですw)

 

 

 出ました。

 エイリアン・コヴェナント。

 もう、この作品は何と言っていいか、感想が正直でてきません笑

 一言でいうと、一度見ただけではわからなくて、3回目でやっと理解できました。

 今回の「コヴェナント」はエイリアンエピソード3部作の「2」にあたるので、前作「プロメテウス」を観た上で、理解をしていないと楽しめないのではないかと思います。

 っていうか、観ても私は「初回」で理解できず、ぽかんとしてしまったわけです。

 それからというもの様々な考察サイトで「学習」し、内容を「理解」し、すっかり疲労してしまい、さすがに今回は、もうストーリーの理解は完全に追いついているので、「すごく楽しめました」

 これを、「楽しめた」と言えるのならば、なのですが……。

 で、感想はというと、実はあまり感想という感想がないので、「さらっ」と流していきたいと思います。笑

 

 

 

■ストーリー

 西暦2104年、植民者2000名を乗せた宇宙船「コヴェナント」号は、惑星オリガエに向かう途中、恒星爆発に巻き込まれ、充電サイクルに一部損傷を負う。10年の冷凍睡眠を緊急解凍させ、クルーを目覚めさせたのは、ウェイランド社製のアンドロイド、ウォルターだった。

 

f:id:hagananae:20170915223007j:plain

(ウォルターとデイビッドは今回はアンドロイドのバージョン、1.2として登場)

マイケル・ファスベンダーは善玉ウォルターと悪玉デイビッドを熱演w)

 

 この事故での宇宙船の損傷は軽微だったが、キャプテン・ジェイコブが爆発時の事故で死亡する。目覚めたクルーで修繕をし、再びオリガエに向かうまでの睡眠に入ろうとするが、近隣の惑星の一つから「人間の歌声」らしき電波を受信する。

 コヴェナント号の目的は植民者2000名を生存可能な惑星であるオリガエに運ぶことだが、その未確認の惑星には生命が存在する環境が整っているようだった。本来人間がいるはずのない惑星に降り立とうとする新任のキャプテン、クリス。故キャプテン・ジェイコブの妻であり、同時に副キャプテンのダニエルズは想定外の行動を危険とみなし、謎の惑星に立ち寄ることに反対する。

 しかし、クリスは強引にダニエルズを押し切り、惑星にコヴェナント号を向かわせる。

 惑星に降り立ったクルーたちは大気も水も植物さえある惑星の環境に驚く。声の発信源は8キロ先だが、途中、麦畑を見つける。あきらかに「人間」がいた痕跡があるのだが、その惑星には人間はおろか動物さえ見当たらない。

 生物学者のカリンは動植物を採取するためにレッドワードと二人で森に入っていき、ダニエルズ一行と別行動をとる。そこでレッドワードは足元の植物のようなものから発射された微細な黒い胞子を吸い込んでしまう。その胞子は意志があるかのようにレッドワードの体内に侵入すると、皮膚を突き破って体内で増殖しはじめる。レッドワードの体調はみるみる悪化していく。

 一方カリンたちと別行動をしていたダニエルズとキャプテンを含むクルーたちは明らかに人工物と思われる巨大な宇宙船を発見する。すでに機動力を失って久しい廃墟と化した宇宙船の中で、巨人のミイラと10年前に消息を絶ったプロメテウス号の乗員エリザベス・ショウ博士の写真を見つける。そして、近くのボタンを押すと、そこからコヴェナント号で聞いた歌声が再生された。これが音源だったのだ。

 と、そのとき別行動をしていたカリンからレッドワードの容体が急変し、瀕死状態になってしまったため、彼女が彼をつれて急ぎ移動船に先に戻るという連絡が入った。

 レッドワードはすでに意識をなくし、明らかに何らかの重い疾患にかかっているようにみえた。船内の医療施設にカリンとともに隔離されるが、すでに彼の体内でネオモーフ(今回のエイリアンの呼称らしいです)は幼体になり、彼の背中を食い破って誕生してしまう。医療室に閉じ込められたカリンも襲われて死亡。ネオモーフと格闘した船員がマシンガンで応酬した際、船内に火気が引火し船は爆発する。

 一方、ダニエルズ一行の中のトムも廃墟で胞子を吸い込んだため、死亡し、彼を引きずるように連れてきたときには、トムの体内からネオモーフが誕生する。脱出用の船は目の前で爆発し、同時に成長したネオモーフが彼らに襲いかかる。

 そんな危機的な状況に手を差し伸べたのは全身ローブをまとい、顔を隠した謎の人物だった。彼は助かりたければ、自分についてくるように言い、母船へ帰る手段を失ったダニエルズ一行はネオモーフから助かりたい一心で彼についていく。

 謎の男が黒い壁を押して彼らを導いた場所は、人間によく似た黒焦げの物体が山のように折重なったまま放置された巨大な広場だった。それら人間によく似た物体はすべて皮膚が黒く変色し、まるで黒い彫刻のようだった。彼らは一様に苦し気な表情をしており、死体だとすればこれほど大量の人間をどのような手段で殺害したのか想像の及ぶところではなかった。男はその不気味な彫刻の中を駆け抜けると、一行を石造りの建物の中に案内し、顔を隠していたベールをぬいだ。

 男の顔はコヴェナント号のアンドロイド、ウォルターに瓜二つだった。

 男は言った。

「私の名はデイビット。10年前にこの星に不時着したプロメテウス号の乗員だ」 彼がこの星にたどり着いたとき、ある事故から船に搭載されていた致死性のウイルスを散布してしまい、この星の生物は息絶えてしまった。変わりにネオモーフという生物が植物以外の動物に寄生し、繁栄しているという。エリザベス・ショウ博士も不時着時に死亡し、自分は助けが来るまでこうして生きてきたという。

 ダニエルズ達は、生還するための母船のコヴェナント号と連絡をとろうとするが、デイビットの真の目的は、彼らを助けるわけではなく、ある実験の材料にするためだった。ダニエルズ一行は、デイビッドの罠のなかで、ひとり、またひとりと隊員を失っていく。

 

 ■レビュー

 というわけで、スリラー劇、アクション劇のはじまりです。

 この映画の残念な点は①ストーリーがわかりにくい、ということと、②すべての映像がリアリティがあり、圧倒的な存在感を放つのに、ネオモーフ(エイリアン)だけが、CG感満載で画面から浮いているということです。

 まず、ストーリーがわかりにくいというのは、平たく言うと、映画の中で説明がないという一言に尽きます。もちろん、ストーリーの中盤あたりで明らかになることのひとつに、アンドロイド・デイビットは人間の敵であるということで、彼がこの惑星とエリザベス・ショウ博士にした所業、そして神になろうと生体実験をした結果、ネオモーフが進化したということなのですが、これが非常にリズミカルというか、ショートカットした感じで表現されるため、まじで理解に苦しみます。

 これは有名な知識ではあるのですが、「プロメテウス」と「コヴェナント」のストーリーをつなぐミニ映像があり、ここで「プロメテウス」のストーリー終了後にショウ博士とデイビットの後日談が語られています。これは本編のバックストリーでもあるのですが、やはりこのミニ映像のつなぎがこの本編では短いセリフに要約されてしまっているので、非常にわかりにくいことになっています。

 シリーズものと謳っているので、「わかる人」にしかわからない仕様になっているのかなとも思いますし、それほど「エイリアン 」シリーズにはネームバリューがあるということなので、本編で説明なしにされてしまったのかもしれませんが、まじでライトユーザーに優しくない仕様です。

 ただ、何度も勉強すると、するっと入っていけるので、そうなるとリドリー・スコットの映画は完璧な映像を作り上げているので、皮肉なことに感動の連続です。笑

 

f:id:hagananae:20170915223838j:plain

(わかりにくいけど、だいすきよw監督ww)

 

 惑星の壮大な自然あふれる映像もいいですし、宇宙服のデザインもイエローでおしゃれ。もちろん、船内も手抜きなしの美しさと機能性の感じられるデザイン。

f:id:hagananae:20170915223934j:plain

(見よ! これが、今回全滅するパーティだww)

 

 ネオモーフが信じられないくらいCGっぽくて軽い感じなのも、この映画の真のホラーを演出するのがアンドロイドであるデイビッドにあるからかもなんて思えたり、どんどん許せるようになってきます笑

 とはいえ、デイビッドはもうさんざん描かれてきた「人間に反逆し、人間の従属から逃れようとして人間に危害を加えるタイプ」のロボットで、彼が人間をつかってネオモーフをより強力な殺戮者に作り替えていく心情は、完全な悪にしか思えず、どうにも見ていて新鮮さが欠けます。

 ロボットが人間から自由になるという発想はそれこそ昔からあったわけで、そういうものを見せられるとどうしても、ありきたりと思ってしまうので、そこをどう新鮮に見せるかは、その作家性が問われるところだと思います。

 このテーマ自体はありきたりであるけれども、深いテーマであり、階級闘争というか、私自身も本当に掘り下げたいテーマではあるのですが、今回の見せ方があまりにもハリウッド的というか、見慣れた風景になってしまっていました。

 なので、このシリーズのクライマックスは、次作の最終章にあるということで、エイリアン・コヴェナント。次作こそお楽しみに笑

 なので、次作を楽しむために、今作を見に行ってみましょう~(説得力うすっ)

 

9月10日(日)ハクソー・リッジ(16)米 心に火がついて、「上映中」の「ダンケルク」と比較レビューがはじまった!無駄に長い今作

f:id:hagananae:20170910202106j:plain

 

 注意:ネタバレはないですが、9月9日上映開始された「ダンケルク」と第二次大戦を同じくテーマにしているというだけで、無理やり比較レビューをしています。本家「ダンケルク」は別途レビュー予定ですが、観る予定の方が読んでも問題ない仕上がりになっています。

 でもできれば、「ダンケルク」を観てから読んで下さい。

 私の独断と偏見に満ちた観方が炸裂しています

 

 

f:id:hagananae:20170910202208j:plain

 

 

 ■ストーリー

 ここでは、人も大地も空も同じ乾いた土の色をしている。

 幾度となく大地にめり込んだ砲弾は土ぼこりと兵士の体を空中に吹き飛ばし、容赦なく地面に降り落とす。

 大地に穿たれた穴の中にひとりの兵士が横たわっていた。

 下半身が吹き飛ばされ、真っ赤臓物が腹からこぼれている。兵士の両眼はビー玉のように虚空を見つめ、光の消えた網膜にうっすらと土埃が舞っている。

 あちこちに米兵が折り重なるように倒れ込んでいた。

 土と血のにおい。

 ここは死の大地だ。

 先ほど、数キロ離れた海上から戦艦による砲弾がこの台地に降り注いだ。味方も敵も関係のない空爆

 砲弾のせいで敵は一掃されたが、かわりに土ぼこりで明瞭な視界は消えた。

 デズモンドは音を立てないように一歩を踏み出した。

 背後で連隊の仲間たちも頭を低くして前進し始めた。

 また一つ死体を見つけた。

 顔の半分にウジがたかり、半ば骸骨と化した兵士はこちらを嘲笑しているように見える。

 すぐ先に冗談のように腰から切断された下半身が落ちていた。

 砲撃に被弾したのだろうか、それとも手りゅう弾をまともにくらったのだろうか。

 誰にも葬られることのないまま、彼らは何日こうして虚空を見つめているのだろう。

 デズモンドは首を振って前に進んだ。

 ふいに生ぬるい風が台地をなでた。

 前方に敵影はない。

 仲間たちはみな、その場の穴に低く体をうずめ、前方を見つめた。

 静かだった。

 どこなのだ。

 いったい、日本兵はどこに隠れている?

 穴の中か、それともあの木の影か。

 そのとき、風が静かに大気をかき混ぜた。

 仲間の一人がその場にしゃがみ込んだそのときだった。眼の前の死体だと思っていた米兵がゾンビのように起き上がり、半狂乱になって叫びだした。

 目の前で蘇生した仲間に驚いた兵士は同じように叫び声をあげた。

 次の瞬間、乾いた射撃音が空気を切り裂いた。

 銃弾は叫びつづける兵士の後頭部を正確に2発打ち抜き、血しぶきが背後にいた兵士にかかった。

 叫び声が止む。

 同時に向きあった二人の兵士を銃弾の嵐が襲う。二人の肉体に銃弾が食い込み、肉片が花火のようにあたりに飛び散る。

 あっという間に二人は赤い肉塊をと化す。

 それを合図に日本兵の容赦ない狙撃がはじまった。

 あたりでいくつもの手りゅう弾が炸裂する。

 土ぼこりと轟音。

 轟音と土ぼこり。

 絶え間ないな銃弾が仲間の兵士たちを貫く。

 前後左右で爆発が起き、その都度仲間の体が粉砕され、肉体から引きちぎられた四肢が地面にばらばらと落下する。

「くそたっれどもは、どこにいるんだ!」

「わからない! よく見えない!」

 兵士が叫んだ。

 二人の兵士が、顔だけを焼けた丸田の上にだし、そっと前方を確認すると小さな光点が頭のすぐわきを通り抜けていく。敵の銃弾だった。

 敵もこちらが見えないのだ。

 くそ、こちらもあてずっぽうに打つしかない!

 そう思ったとき、すぐ横で空気を裂く嫌な音が二回して、仲間の兵士が沈黙した。

 さきほどまでしゃべっていた兵士は銃弾に頭を打ちぬかれたのだ。

 なんてこった!

 こうして銃弾の嵐はますますひどくなる。

 

 スミッティは立ち枯れた木の陰から動けなかった。

 敵の銃弾がこちらをまっすぐ狙ってくるので、身動きがとれない。

 あたりでは手りゅう弾がさく裂し、土煙がもうもうと立ち込めている。

 仲間の悲痛な叫び声があちこちで響いている。

「衛生兵! 衛生兵! ここだ! 助けてくれ!」

 背後で衛生兵のデズモンドが助けに向かう足音がした。

つづいて、悲痛な声。

「大丈夫だ、連れて帰ってやる。こい、一緒にくるんだ!」

 デズモンドが傷ついた仲間に言っているのが聞こえる。

 また、一人やられた。

 スミッティは歯を食いしばった。

 すでに仲間は数えきれないほど死んでいるというのに、彼自身は無傷のままだった。

 ふいに彼は罪悪感に襲われた。

 ばかな、生きていることが申し訳ないなんて。

 そのとき、目の前に仲間の死体が転がってきた。

 上半身だけになった死体だった。

 彼は死体に手を伸ばした。

 血と土にまみれた首が力なく前後に揺れた。

 一瞬ののち、彼は死体を前に突き出し、木の陰から躍り出た。

 前方の塹壕からこちらを狙っている日本兵めがけてカービン銃の引き金をひく。

 銃撃の反動が右腰に響く。

 彼の反撃をまともにあびて、前方の日本兵が次々に倒れていく。

 相手も反撃をしてくる。

 その銃撃を、スミッティは死体を盾にして防いだ。銃弾が当たるたびに、左手に持った死体に重い反動を感じる。

 どうやらこの即席の盾は使えるようだ。

 スミッティが盾を放り投げ、塹壕に逃げ込むと、すぐ近くから仲間の声が聞こえた。

「続け、前につづけ!」

 声を同時に一斉に彼を含めた仲間たちが、銃弾の嵐の中に突き進んだ。

 これだけ進んでも視界は明瞭にならない。

だが、今は前に進むしかない。

 

 銃弾の中、次の塹壕に身を隠そうとしたとき、隣を走るヴィトーに弾が当たった。

 ヴィトーは体のバランスを崩し、糸の切れた人形のように塹壕に倒れ込んだ。

「ヴィトー! ヴィトー!」

 名前を呼びながら彼にかけよろうとすると、塹壕の淵に日本兵が立ちはだかるのが見えた。全員銃をかまえ、こちらにむかって引き金に手をかけている。

 とっさに目を閉じた瞬間、眼前に炎の柱が駆け抜けた。

 轟音とともに日本兵たちが赤い炎に巻かれ、もがき苦しんでいる。

 仲間の火炎放射器だった。

 突然、衛生兵が彼らの塹壕に走ってきた。

「衛生兵! ヴィトーが倒れた!」

 うめき声をあげるヴィトーにむかって言った。

「大丈夫だ! ここにいるからな」

 ヴィトーを衛生兵に任せて、今は進むしかなかった。

 

 戦闘は続いていた。

 傷ついた仲間を手当てするため、衛生兵のデズモンドは走っていた。

 戦闘当初、散発的に続いていた機関銃の音は、今は掃射に変わっている。

 銃声は止むことなく、あたりの空気を揺らし、土煙をあげる。

 デズモンドは頭を低くして、塹壕に転がりこんだ。

 と、同時に日本兵が覆いかぶさってきた。

 ものすごい力で押し倒されそうになる。

 まるで手負いの獣だ。

 そのとき、かなり近い場所から銃弾がとび、目の前の日本兵が打たれたのがわかった。衝撃と轟音。日本兵は突然ぐったりと彼に倒れ掛かってきた。デズモンドは死体と化した日本兵の下からはい出すと自分を助けた銃弾がどこから来たのか確認した。

 塹壕のすぐ先にスミッティがいた。

 スミッティはこわばった表情のまま彼にむかって目で合図をすると、先に塹壕を抜け出ていった。

 手りゅう弾の攻撃がすぐに始まった。

 足元に被弾した衝撃で、デズモンドは空中を飛び、仲間とともに地面に叩きつけられた。

 頭を軽く打ち、ふらついて起き上がると少し先からハウエル軍曹が自分を見ていた。

「怪我は?」

「大丈夫です」

 土煙のなか、デズモンドは自分の運の良さを感じ始める。

 また手りゅう弾が近くで爆発した。

 近くで恐怖に満ちた悲鳴があがる。

 煙の中、悲鳴の持ち主のほうへ駆け寄っていくと、両足の膝と太ももから下を無残にも爆発の衝撃で失ったラルフがのたうち回っていた。

 悲鳴を上げ続けるラルフの両足にベルトを巻いて、デズモンドは止血をした。

「大丈夫だ! ラルフ! 深呼吸をしろ! 大丈夫だ」

 もちろん、大丈夫なわけはない。

 ラルフは間違いなく、重症でこのまま放置したら死んでしまう。

「深呼吸しろ! 呼吸するんだ、ラルフ!」

 いいながら、ベルトでラルフの太ももを圧迫して止血をする。

 応急処置が済んだところで、彼らのすぐ頭上で手りゅう弾が爆発した。

 土ぼこりが彼らにふりかかる。

「ラルフ、いいか、お前を連れて行く!」

 必死の形相で半狂乱のラルフに呼びかける。

 そのとき、仲間の兵士が背後からやってきて言った。

「彼はもうだめだ。モルヒネを打って、彼をおいていけ」

 その兵士はラルフの無残な足を見た。

 ラルフが先ほどよりも大声で叫んだ。

「お願いだ! 俺を置いていくな、俺には子どもがいるんだ! 頼む、ドス!」

 デズモンドは彼にモルヒネを打ちながら言った。

「お前をここに置いていくもんか! 必ず家に連れて帰る!」

 モルヒネを打ち終わると、彼は大声で叫んだ。

「担架! 担架! 」

 

 一日目の戦闘での死傷者はデスモンドが思った以上に過酷なものだった。

 戦闘が始まり、数十秒で命を落とした幾名もの仲間たち。

 助けられなかった仲間だち。

 日本兵の執拗なまでの攻撃。

 6度、戦闘をはじめ、その6度とも撃退されているこのハクソー。

 ハクソーの北側は断崖になっており、戦車は入場できない。

 ここでは、白兵戦のみが勝利を決める。

 海上の駆逐艦からの圧倒的な砲撃で幾度となく攻撃をしているにも関わらず、日本兵は後から後から姿を現す。

 ハクソーをとれば、日本は落ちる。

 それがわかっているからこそ、日本兵も必死なのだろう。

 明日は、もっとひどい戦闘になるだろう。

 自分は生き残れるだろうか。

 デズモンドは胸ポケットに入れた聖書と聖書にはさんだ妻のことを思い出す。

 自分は生きて帰れるだろうか。

 神様、自分には何ができるでしょうか。

 

 

 

f:id:hagananae:20170910202359j:plain

(内容が沖縄戦であり、重い話なので、写真は撮影後の日本兵俳優とのショットをw)

(中央は監督のメル・ギブソン

(みんないい顔してるね~ww)

 

 

 ■レビュー

  

 ハクソー・リッジは日本では、前田高地と呼ばれている。

 太平洋戦争末期、沖縄に上陸し南下する米軍にとって、戦車の入れない断崖は、ハクソー・リッジ(弓鋸断崖)と飛ばれ、米軍と日本軍の激戦地隊となった。

 物語はアメリカ側から、日本は敵として描かれており、この戦闘で衛生兵として多くの仲間を救出したデズモンド・ドス衛生兵の実話が元になっている。

 さて、少し前に日本で上映されたこの映画だが9月9日封切りになった同じく第二次大戦(以下WW2)の西部戦線を活写したクリストファー・ノーラン監督の「ダンケルク」と比較してみると、この映画の特徴が際立つ。

 

 

 

f:id:hagananae:20170910202542p:plain

ダンケルクは第二次大戦初期、ドイツ軍の電撃戦によってフランスの港町ダンケルク追い詰められた英仏30万人の軍隊の脱出を描いた映画です)

(監督は「インセプション」「インターステラー」「バッドマン ダークナイト」シリーズのクリストファー・ノーラン監督)

 

 

 このブログでは原則一つのブログで一つの作品をレビューすると決めているので、ここで同じ大戦ものとは言え「ダンケルク」の話をするのは本来はルール違反だ。

 だが、どうしても言いたいことがあってこのブログを書いている。

 

ダンケルク

ハクソー・リッジ

 

 この二つの映画は同じWW2を扱う「戦争映画」であっても、まったく別物で、本来は比較されるべきものではない。

 ならば、なぜ、比較しては、と言ったのかというと、すでに「ダンケルク」を観た人の中で、「ダンケルク」に批判的な人を見かけたからだ。そういった意見の人たちのなかに「ハクソー・リッジ」のほうが面白いと言っている人がいたので、「ダンケルク」の擁護をするわけではないけれど、映画には幅広い表現方法があることを理解できれば、どちらの映画も同じだけ楽しめるのではないかと思ったからだ。

 だから今回のレビューは逆説的だけれど、そうした「ハクソー・リッジ」派の人たちに対するささやかな抵抗が根っこにある。

 

 

とにかく、結論を急がずにゆっくり行こう。

 

 

 まず、端的に言ってこの「ハクソー・リッジ」は感動作だ。

実話に基づいた勇敢な一人の兵士の物語であり、臆病者が勇敢な兵士として認められる成長の物語だ。

 それに対して「ダンケルク」はひたすら戦場の臨場感を目指した映画であり、生理的な恐怖や不安を最大限に引き出す「効果」を狙った映画だ。

 だから、「ダンケルク」の目指すところは、実をいうと必ずしも「感情的なカタルシス」をつきつめた映画ではない。もちろん、ノーラン監督はそういう「感動作」を撮ることはいくらでもできることはバットマンシリーズで証明済みだが、こと「ダンケルク」に関してはそのベクトルを目指していない。

 つまり、ダンケルク」に「物語的感動」を求めていくと肩透かしにあうことになる

 ごくごく単純にWW2を舞台にした「感動」を映画に求めるなら、「ハクソー・リッジ」を観たほうがいいと私は思う

 

 まとめると、この二つの映画は、映画が人に提供する生理的・感情的サービスにおいて対極ということだ。くりかえしになるが、「ハクソー・リッジ」は、物語の感動を追求しており、それは、変化の連続をもって達成されるものなのだ。

 

 変化 ① 臆病と思われていた主人公が、勇敢な兵士と認められ、

 変化 ② 主人公の勇敢さによって、軍隊が絶望的状況から希望を持つようになり、

 変化 ③ そのことで、戦地における絶望的戦況が好転し、

 変化 ④ さらに、そのことで主人公は絶望から救われる。

 

 

 

 すべてが、主人公が信念を貫くことで、仲間が変化をし、戦況が好転し、それらすべてが観客に感情的カタルシス(満足感)と感動を与えるという構造になっている。

 映画におけるこうした手法は、公式のようなもので、この公式がパブリックドメイン並の周知の事実だとしても、よほどひねくれた人間でないかぎり、「感動」するようにできている。

 事実、私はこうして「ハクソー・リッジ」を因数分解したところで、涙しないわけにはいかなかった。それに、いずれにしてもこの映画における感動の公式は、観客が映画を観にくる動機のナンバー1か、2に位置することは間違いない。

 

 観客は「感動したい」のだ。

 では、ダンケルクは何を目指したのか。

 ベクトルは様々だが、ノーラン監督がもっとも目指したものは「臨場感と没入感」だろう。

 

 今、その場にいるような感覚。

 

 

f:id:hagananae:20170910203250j:plain

ダンケルク:空中戦の様子。このシーンはまるで英国戦闘機スピットファイアに乗っているような気分にw 4DMXの努力により、お尻の下でイスが動いて、風がふきつける笑)

 

 ノーラン監督は今作で映画におけるリアルさを追求している。

 それは、彼がCGを使わずに極力というか意地になっても使わないようにしていることからも伺える。それはCG全盛の時代にあって時代に逆行しているようにみえるが、人は現在、かなり緻密なCGであってもそれが実物でないと見分けることができる。

 そのノン・リアルな虚構は映画という虚構に大きなひびを入れることもまた事実だ。どれほど恐ろしい怪物であっても、どれほど巨大な戦艦であっても、それがCGであるとき、見た目には及第点であっても、不思議に心は大きなマイナス点を無意識につけている。

 つまり、観客がシーンに期待する恐怖、畏怖、感嘆といった気持ちをCGでは完全発動させられないのだ。「させられない」というと、誤解がある。つまり、観客は「ある程度」驚いているので、「きれいだねー、うわ、綺麗だねー」と口には出す。だが、人が心底目の前の出来事や風景を美しいと思い、圧倒されたときは、無言になるものではないだろうか

 

 先日「死霊のはらわた」というスプラッタ映画のリメイクを観たのだが、ラストの血液のどしゃ降りの場面は圧巻だった。CGでいくらでもできるのに、数百リットルという血糊を用意して、それをぶちまけたのだ。この労力が見事に結実して、内容がゾンビであろうと、この映画を観て「心底よかった」と思った。

 何にせよ、CGに背を向けて、やたら労力と予算のかかる実物を用意し、リアルを追求するという姿勢に感動を覚えない観客はいない。その選択と覚悟と行動に私は感動した。

 だが、そういう制作サイドの努力はさておき、いったいCGと実物の視覚効果における最大の違いはなんなのだろう。

 存在感というか、質量的な何かなのだろうか。

 私が思うにCGの嘘くささはその映像に重みがないことであり、文字通り質量や重力がいまいち感じられないところにある

 CGは、どれだけ精巧につくられていても、やはり虚構でしかないと人間の脳が認識してしまうのは、この重さの表現の不足ではないだろうか。だが、そんなことは百も承知であろう映画制作サイドがCGではなく、実物を用意しようとなると、そこには時間と予算が深くかかわってくる。つまり、実物を用意することは、現場にとってリスクになるのだ。

 映画界のこうした状況を強引に打開しようと思ったら、ノーラン監督レベルの知名度や支援をもつ力がなければ可能にならないのだろうし、ノーラン監督の「ダンケルク」撮影時でさえ、相当もめたようだ。

というわけで、ノーラン監督が目指す臨場感やノーモアCGは映画表現においてはたしかに意味があることなのだ。

 

 

f:id:hagananae:20170910203618j:plain

ダンケルク:兵士が船から落ちたり、狙撃されて水面に落ちるたびに4DMXから水しぶきが噴射され、顔の右半分の化粧がほとんど落ちる楽しい被害が、、、笑)

 

 

 ただし、これも私の独断と偏見なのだが、映画が観客に提供する「いま、ここではない世界の臨場感」というサービスは、多くの観客が映画に求める「感動」の必要条件ではあっても十分条件ではない。

 これは予測でしかないのだが、おそらく人間は臨場感や没入感というものにすぐ「慣れて」しまうのではないだろうか

 それは、映画のCGやゲームのCGは日々、「リアル」になり、4Kが8Kになり、画面はよりリアルになっていっているし、少し先の未来では、映画は、もっと個別対応になり、一人ひとりが映画に全身を没入する技術が実現しているかもしれないが、これまで私たちはそれにすぐに慣れてしまった。

 映像的に美しく輪郭が明瞭であることには、人間はすぐに慣れてしまうのだ。

 人はそれこそはじめは前代未聞の画面に「感動というより、驚愕」するかもしれないが、すぐにその美しさを当然のものとして認知するようになる。その理由は、おそらく人間の脳は視覚的なものに対して、「いつまでもびっくりしていると、危険を回避できない」と判断するからではないだろうか。

 「ダンケルク」を4DMXで鑑賞したとき、イスはおおげさに振動し、水も風圧も容赦なく浴びたためプチアトラクションとしては、十分楽しめた。

 しかし、楽しめた一方で、これは映画というより、乗り物だなと思ったことも事実なのだ。

 なぜなら、臨場感を追求した映画のストーリーの運びは、淡々としており、正直あまりの抑揚のなさに、開始20分で不安になってしまったほどだ。

 初日とはいえ、それほど観客は多くなかったが、だからこそ、ノーラン監督の稀代の作品を初日に観に来る、しかも3000円近く支払ってWW2の人気が高いとは言えない映画を観に来る人々。

 おそらく感動を期待しているはずである。

 その観客を前に、臨場感こそあるものの、ストーリーはさほど劇的な展開もなく淡々と進行していく。正直に告白すれば、私は心の中で、「ノーラン監督、これやばくないか」と祈るような気持ちに何度かなってしまったのだ。

 この映画はこう見るのがいいのだろう、と心の中ではわかっているつもりの私でさえ、あまりに静かな展開のストーリーに違う意味でスリリングな思いを味わったわけで、一般のエンタメ活劇を求めている観客の皆様におかれましては、それはもう大変な思いをされたのではないかと思う。

 臨場感や没入感は映画においてもちろん必要な条件だが、人が映画に求めるものは本質的に「感動」であると思う。その感動の中にはもちろん、没入感や臨場感は必要だが、それは映画の物語における感動というより、アクティビティやアトラクションに求める刺激に近いものではないかと思う

 もちろん、映画がリアルになっていくその過程で、ノーラン監督の「ダンケルク」は映画業界に対する挑戦と冒険であり、そのことはすばらしいことだと思う。

 思うけれど、私は人を感動させるのは、やはり人の物語なのではないかと、古臭いことを考えてしまうのだ。

 

 

 やばい。ハクソーのレビューをしていないというわけで、話を元にもどします。

f:id:hagananae:20170910204014j:plain

(ハクソーリッジ:もはや今回のレビューはカオスすぎる。。)

 

 

ハクソー・リッジ

 この映画の魅力に一つは冒頭で描写したように、白兵戦の生々しさだ。

 描写した部分はハクソーについて、すぐのシーンで、あれから兵士たちはますます過酷な状況に追い込まれていく。

 私はこの残酷でありながら、臨場感のある戦闘シーンに感動し、5回ほど繰り返し見てしまった。何度見ても新しい発見があるシーンで、多くの兵士が同時に体験する戦場は重層的であり、飽きない。後半1時間はほぼこのとどまることを知らない戦闘シーンのため、「プライベート・ライアン」の冒頭20分に魅せられたり、「ブラックホークダウン」をヘビロテしたことのある人にはぜひおすすめの映画だ

 

 もう一つの魅力は、デズモンドの勇敢な生き方だ。

 戦争という銃を手にとり戦わねばならない戦場において、銃を持たず良心的兵役拒否を実行し、苦難に満ちた運命を選び取ったデズモンド・ドス。

 彼は実在の人物で、衛生兵として敵兵を殺すことなく、誰もがたじろぐ戦火の中、多くの傷ついた兵士を救出して英雄となった後にも先にもない人物だ。

 戦争という場面で、勇敢で祖国を守る男でいたいと思い、同時に銃を持たないで戦争に参加するということがどういうことなのか。本来ならば、想像もつかないことだ。

 しかし、それをやった人間がいる。

 そのことに勇気と感動を覚えない人間はいないだろう。

 この物語では、日本兵は敵兵だが、彼ら、いや私たちもまた、時代という敵と戦わなければならない運命だった。

 ドスの物語も十分に感動するが、私たち日本人はまず、沖縄で何が起きたのか。

 沖縄の海がなぜあれほど美しく見えるのか、この映画を通して少しでも沖縄の歴史を知ってほしい。

 

 そして、最後に俳優について。

 今作で、主人公デズモンド・ドスを演じるアンドリュー・ガーフィールド

 

f:id:hagananae:20170910204201j:plain

(首が長くて、目が少し離れていて、彼、美形な亀に見えませんか?(笑))

 

 実は、「ハクソー・リッジ」と同じ時期に「沈黙」にも出演し、キリシタン弾圧期に日本を訪れた宣教師を演じている。

 「沈黙」は、遠藤周作を原作とする、暗いとしかいいようのない文学作品だが、信仰の弾圧に対して、人はどうなるのかそれを扱ったのが「沈黙」だ。

 神は沈黙を守る。

 この救ってほしいときに神が沈黙したままであることが、「沈黙」のテーマだが、「ハクソー・リッジ」で、デズモンドには神の声が聞こえる。

 しかし、「沈黙」では肝心なときに神の声が聞こえないのである。

 キリスト教徒にとって生きる最も重要な指針である「神の声」。

 これを聞いたもの、そして聞こえないもの、この二つの人間を短期間に演じ分けたガ―フィルド。

 信仰という日本人にはなじみのない概念について、次回では深く掘り下げてみるかもしれない。 

 というわけで、今回も長くなってしまったが、「ハクソー・リッジ

 「ダンケルク」を観てから、比較してみるとそれぞれの魅力を堪能できるはずだ。

では、次回もお楽しみに。

 

f:id:hagananae:20170910204324j:plain

(沈黙:もう今回はほんとカオス。3作もルール違反だよね!!)